白と黒

富本アキユ(元Akiyu)

第1話 ……死んだ? あいつが?

 嘘だろう……? 嘘だと言ってくれ。死んだ? あいつが? 自殺?

 あいつが自殺だなんて何かの間違いだろう?

「……俺は、あいつが悩んでいた事に気づいてやれなかった」 

こんなに近くにいたのに、どうして俺は気づいてやれなかったんだ。俺は一人、部屋の中で苦しんで自分を責めていた。床に座り、ただただ呆然と正面の壁だけを見つめていた。涙が枯れるまで泣いた。もうこれ以上、自分の体の中に水分は残っていないのではないかと思う程に泣いた。泣き続けた。

 泣き続けてから、どれくらいの時間が経っただろうか。頭の中がぐちゃぐちゃになっていると、ついにあいつの幻覚が見えるようになってきた。俺の目の前にあいつの姿が見える。

「ああ……。お前、俺に会いに来てくれたのか。ありがとう」

 このまま俺もあいつの元へ行こうか。頭の中にほんの一瞬だけそんな考えが過ったが、すぐに頭をブンブンと振って思考を元に戻す。

「いや、俺はお前の分もしっかり生きなきゃいけないよな。悪かった。そんなつまらない事を考えてしまって」

 俺は部屋の中、あいつの幻覚に向かって独り言を言う。俺はまだ幻覚が見えているらしい。自分の精神状態が正常ではないことを理解した。ふぅ、と大きく深呼吸する。

「よしっ……」

こういう時は瞑想だ。瞑想は精神を安定させてくれる。落ち着かせてくれる。俺はその場で座禅を組み、目を閉じる。深く、ただ深く何も考えず、心を無の状態にする。そして無我の境地に入れば、目の前のあいつの幻覚も消えて、俺は落ち着きを取り戻す事ができるはずだ。そうだ、何も考えるな。目を閉じて、ただただ無心であれ。

「…………」

 部屋の中、壁掛け時計の秒針だけが動く音が聞こえる。辺りは、静寂で包まれた。目を閉じてどれくらいの時間が経っただろうか。まだ十分も経っていないのか、それとも一時間くらい経ったのだろうか。分からないが、ゆっくりと目を開ける。まだあいつの幻覚が見えたから、また目を閉じた。まだ俺の精神は、安定していないのだろう。もう一度、瞑想しよう。

 今思えば、あいつには、迷惑をかけられっぱなしだった。あいつと一緒にいると、ろくな目に遭わない。苦労させられっぱなしだ。そう、例えばあれは、俺が警察官になってすぐの事だった。

「おうえええーーー。うええええーーー。気持ち悪い」

 あいつは道端で、溝に向かって嘔吐していた。

「お前は加減を知らなすぎだ。飲みすぎだって」

 俺は酒を飲むとき、ペースを守るが、あいつは加減を知らずにひたすら飲み続ける。酒の飲み方ひとつとっても、俺とあいつは常に真逆をいく。あいつは、真っ青な顔をして溝で吐き続けた。俺はそんなあいつの背中をさすってやりながら、介抱していた。

「おい、大丈夫か? 今日は、もう帰ろう」

「死ぬ。死んでしまう。もう一歩も歩けない」

「しょうがないな。タクシー呼ぶから待ってろ。……って、あれ?」

「ん? どうしたんだ?」

「いや、あそこに職場の先輩に似た人がいてさ」

「どれだよ」

「ほら、あの男の人」

「女連れだな。相手の女、若いな。あれは夜の女だな。ホステスだな。同伴か」

「ホステス連れ? ならやっぱりただの似た人だろうな。喉黒さんは、私立の大学に通う大学生の娘さんがいて、学費が高くて金ねえよっていつも嘆いているんだ。そんな人が夜遊びなんてしないだろう」

「お前の職場の先輩ということは、あのおっさんも警察官って事だよな?」

「ああ、そうだ」

「……怪しいな。犯罪の匂いがする。それに顔もなんだかトカゲ顔してて、怪しさ満点だしな。あのおっさん、どこかから裏金を受け取っているな」

「それはない。喉黒さんは俺の上司で、警察官としてのいろはを教えてくれた真面目で尊敬できる警察官だ。あの人に限ってそんな事はない」

 すると、あいつはニヤリとした顔をして俺に向かって言った。

「いいや、あいつは怪しいね。黒だ。あいつは犯罪者だ。賭けてもいい」

「違う」

「よし、ならお前があのおっさんを徹底的に調べ上げろ。絶対黒だから」

「ふざけるな。身内を疑うのか」

「身内だからこそ、信じて潔白を証明してみろよ」

「いいだろう。だったら調べてやるよ」

「お、いいねえ。そうこなくちゃ。俺はあのおっさんが犯罪者。黒に賭けるぜ。もし外れたら、デリヘル奢ってやるよ。その代わり、お前が負けたらデリヘル奢れよな」

「いいだろう。お前が俺の尊敬する人を犯罪者呼ばわりした事を謝罪させてやる」

「言っておくが、ズルはなしだぞ。もし犯罪者でも見なかった振りするのはなしだ」

「当たり前だ。もし犯罪者なら見過ごす事はできない」

「おー、おー、犬のお巡りさんは真面目だねえ」

「誰が犬のお巡りさんだ」

「よし、そうと決まればあのおっさんを尾行しようぜ」

「お前、体調悪いんじゃないのか?」

「吐いたら楽になった。もう大丈夫だ」

 そして俺達は、喉黒さんらしき人を尾行する事にした。尾行していると、やっぱり喉黒さん本人にそっくりというか、どう見ても本人に見えてきて仕方がなかった。しばらく尾行していると、喉黒さんとホステス風の女は、腕を組んだまま、ラブホテル街まで歩いていき、そのままホテルの中に入っていった。

「ラブホに入ったな。これはもう確定だな」

「……た、たまには、喉黒さんも遊びたいってだけだろ」

「違うね。あのトカゲ顔は、間違いなく犯罪者の顔だ。不正で手に入れた裏金で遊びまくっているに違いない」

「そんなわけないだろ」

「さっきの賭けの話、忘れるなよ?」

「やってやるよ」

「ってかさ、それより俺達もデリヘル呼ぼうぜ。せっかくラブホ街まで歩いて来たんだからよ。夜を楽しもうぜ。夜はこれからだ」

「はあ? お前、それが狙いだったのか?」

「いいじゃねえかよ。俺が良い子選んでやるからよ」

「…………」

 確かに今、酒の勢いもあってそういう気分ではある。しかし、このままこいつに流されていいものか……。

「お前、性癖は? 受けるのと攻めるのどっちが好きなんだ? まあ聞くまでもないか。男なら当然、攻めるのが好きなんだよな? ドMの男なんて気持ち悪いよな」

 あいつは、ニヤニヤしながら言ってくる。しかし俺は恰好つけて嘘をついた。

「そ、そうだ。攻める方が好きだ」

 実は、俺は本当はドMだ。

「オッケー。なら電話してドMの可愛いオススメの女の子を手配してやるよ」

そして結局、流されてしまった。

「もしもし。あ、うん。俺だけど。うん、そうそう。今日は連れがいるからさ、二人お願いするよ。俺は満里奈ちゃんで、もう一人はドMの子がいいな。うん、そうそう。じゃあ梨花ちゃんで。うん、はいはい。よろしく。ホテルの部屋番号は、101号室に満里奈ちゃん。102号室に梨花ちゃんで。うん、じゃあよろしく」

 そしてあいつは、電話を切った。

「呼んだぞ。俺は満里奈ちゃんで、お前にはドMの新人の梨花ちゃんを頼んだ。先に部屋入って待っていろ」

 そう言われ、俺は102号室の部屋に入って待っていた。本当は攻めてもらいたいんだけどな。なんて考えながらもドキドキしながら待っていると、フロントから電話がかかってきた。

「お連れの方がお見えになりました」

「は、はい」

 俺は緊張しながらも平然を保ちながら答えた。すると足音が聞こえて、ドアをノックする音が聞こえる。

「ど、どうぞ」

「梨花です。よろしくお願いします」

「よ、よろしくお願いします」

「うふふ、可愛い顔したお客さんだー。ラッキー」

「そ、そうですか」

 そんな会話をした後、梨花ちゃんと他愛もない世間話をした後、彼女は服を脱ぎだした。

「それじゃ、お風呂行こっか」

「は、はい」

 二人で風呂に入り、風呂から上がり、身体を拭いてベッドへ行く。

「ふふっ、それじゃ、たっぷり攻めてあげるね」

「えっ……。あっ、ちょ、ちょっと……」

 梨花ちゃんは、ドSだった。徹底的に俺の事を攻めてきた。

「うああっ……あっ……あっ……ああっ……うっ……ううあっ……」

 俺は梨花ちゃんの凄いテクニックに身を任せた。聞いていたのと全然違う。

「あっ……ああっ……ううっ……うあっ……ああっ……」

「じゃあ今度は、乳首を攻めてあげるね」

 そう言うと、梨花ちゃんは俺の乳首を攻め始めた。

「うあっ……ああっ……ああっ……うっ……ううっ……」

「うふふ。気持ちいいんだ。凄く感じてるね」

「ああっ……うっ……ううっ……あうっ……もっと……舐めて……下さい……」

「うふふ。もっと攻めてあげる」

「うああっ……ああっ……」

「じゃあ今度は、耳も舐めてあげるね」

 そう言って今度は、俺の耳元で優しく囁いて、耳をペロペロと舐めてくる。

「ああっ……。うああっ……。ううっ……ああっ……あっ……うっ……」

「気持ちいいんだね。そんなに感じてくれると、攻め甲斐があるよ。私も嬉しくなっちゃうな。ねえ、私のも舐めてよ」

「は、はい。舐めさせてください……」

 そして俺は言われるがまま、梨花ちゃんの体を舐めた。

「じゃあ今度は、下の方も攻めてあげるね」

 そう言って、梨花ちゃんは、俺の性器を手でしごきはじめた。

「うああっ……ああっ……うっ……ああう……うう;っ……」

「うふふ。どう?気持ちいい?」

「う、うん……。ああっ……ううっ……気持ち……いいっ……」

 俺は、そのまま梨花ちゃんのテクニックで攻められながら果ててしまった。

「うふふ、いっぱい出たね。凄い感じてたね」

「ああ……ああっ……す、凄かった……」

 その時、タイマーの音が鳴って時間が来た。

「あっ、時間だね。シャワー浴びに行こっか」

「う、うん……」

 二人でシャワーを浴びた後、服を着る。改めて梨花ちゃんを見ると、とても綺麗な子だと思った。

「どうだった?」

「凄く良かった……」

「うふふ、良かった。また呼んでくれると嬉しいな」

「う、うん。また呼ぶよ」

「ありがとう」

 そう言って部屋を出て、梨花ちゃんは帰っていった。ドMの子だって聞いていたのに、真逆でドSな女の子だった。この子ならまた呼んでもいいと思った。名前、覚えておこう。そして外で少し待っていると、あいつが部屋から出てきた。

「よお、どうだった?」

「よかったよ」

「いっぱい攻めたのか?」

「そ、そりゃもう……」

 本当は終始攻められっぱなしで興奮した。大満足だ。

「やっぱり男は、攻めなきゃな。ドMの男なんて気持ち悪い」

「そ、そうだよな」

 するとあいつのスマホに電話がかかってきた。

「もしもし。満里奈ちゃん? ああ、うん。そうそう。それでどうだった? うんうん。あー、そうなんだ。へえー。そっかそっか。あはは。また次の時、呼ぶからその時に詳しい話を聞かせてよ。うん、またね。はいはい」

「満里奈ちゃんってさっきの女の子か?」

「うん、そう♪」

「連絡先知ってたんだな」

「まあ仕事用の連絡先だけどな。それでどうだったって聞いたんだよ。そしたら超ドMで感じてたって言ってた♪」

「ん? お前、ドSなんだろ?」

「いいや、102号室に行ったのは満里奈ちゃん」

「えっ? だって梨花って名乗ってたぞ」

「俺が梨花ちゃんって名乗ってって言ったんだよ。今度指名するからって条件を出してな。お前が部屋に入った後、俺はまたデリヘルに電話をかけて、さっきの部屋番号、言い間違えたから逆にしてって言ったんだ。そして満里奈ちゃんには、事情を説明して梨花ちゃんって名乗ってねって言ったんだ」

「じゃ、じゃあ……俺の部屋に来たのは、満里奈ちゃん……?」

「そうだよ♪ ドMの犬のお巡りさん♪ 嘘つきはー、泥棒の始まり♪ もっと舐めて♪もっとー♪ は、はい。舐めさせてください♪」

「このっ……この野郎」

「いやーん♪ 舐め犬が怒ったあー♪ ドMのお巡りさんが怒ったあ♪ 逃っげろー♪」

 そう言って、あいつは走って逃げていった。俺の頭には血が上った。全速力であいつを追いかけていった。

「待て、コラーー!!」

 そう言って、あいつと一晩中、夜の街を追いかけっこした。結局あいつを見失い、逃げられてしまった。俺は自分の性癖をあいつに知られ、物凄く恥ずかしい目に遭った。でも凄く気持ちよかった。あれから俺は、定期的に満里奈ちゃんを指名して密かに攻めてもらっている。

目を開けた。まだあいつの幻覚が見える。

「い、いかん……。いつの間にか瞑想していたはずなのに、出てきたのは煩悩じゃないか。あいつのせいだ。あいつの……」

 自分の頬を叩いて気合を入れる。

「消えろ、煩悩」

 部屋の中、目を閉じて煩悩を消し去る。そうだ、そんな事を考えるからダメなんだ。話が脱線してしまった。真面目な話を考えよう。そうだ、そんな事はあったが、俺はそれから後日、喉黒さんの潔癖を証明する為、喉黒さんを調べ上げる事になった。

 喉黒さんと出会ったのは、警察官になって配属された先での事だった。

「今日からお前の面倒を見ることになった喉黒だ。よろしくな」

「よ、よろしくお願いします」

「はははっ、硬いな。緊張するな、新人。まあ気楽に行こうや」

「は、はい」

 それから俺は、喉黒さんに警察官としてのいろはを教えてもらった。色々教えてもらい、勉強する毎日の中、ある日、喉黒さんは言った。

「辻林、良い警察官ってのは、どんな奴の事を言うか分かるか?」

「罪を憎み、人を憎まず。多くの犯罪者を捕まえられる人だと思います」

「ふっ、いかにもお前らしい優等生の回答って感じだな」

「違うんですか?」

「良い警察官ってのはな、多くのトカゲを潰せる奴だ」

「トカゲ……ですか?」

「トカゲってのは、犯罪の事だ。辻林、お前は犯罪者を見つけたらどうする?」

「もちろん捕まえます」

「ああ、それは正しい。だがな、良い警察官ってのは、その先を読む」

「先ですか?」

「果たしてそのトカゲは、頭なのかってことだ。お前が目の前で潰そうとしている犯罪は、トカゲの尻尾かもしれない。いいか、辻林。犯罪の先には、それを裏で操っている奴がいないのか調べておく必要がある。尻尾ではなく、狙うのは頭だ。頭を狙え。優秀な警察官は、トカゲの頭を多く潰せる奴だ。確実にトカゲの命を断て。お前の正義感には、いつも感心させられる。真面目で警察官になる為に生まれてきたような性格してるよ、お前は。お前には、素質がある。だからな、辻林。お前は、トカゲの頭を潰せる、そんな警察官を目指せ」

「は、はい」

 そう言って渋い顔をしながら窓の外を見ている喉黒さんの顔が、とてもトカゲに似ていたんだ。あいつの言うとおり、確かに喉黒さんは、トカゲ顔をしていた。その時、窓にトカゲが張り付いていた。

「なあ、辻林。どうしてトカゲになっちまうんだろうな。考えた事はないか?」

「ありませんよ。犯罪をどうして犯したいのかって事ですよね?」

 喉黒さんは、部屋の中にいたトカゲを捕まえて窓を開けた。

「俺はな、こう思うんだよ。狭い部屋の中に閉じ込められて、人間に捕まったりとかして、嫌な気持ちになったんだ。きっと外に出て自由に生きたいって、そう思ったんだ」

 そう言って、喉黒さんは、寂しそうな顔をしながらトカゲを外に逃がしてあげた。ああ、この人も警察に飼われているんだな。俺もいずれこうなるんだろうかなんて思った。

 その出来事があってから数カ月した時、俺は、あいつと飲みに行った時に喉黒さんが若い女とホテルの中に入っていくのを見たんだ。

 それから俺は、喉黒さんがあの日、ただの一時の遊びだったという事を証明する為、喉黒さんの潔白を証明する為に、喉黒さんの調査を始めた。

 ある日の夜、俺は喉黒さんを呼び出した。

「どうしたんだ、辻林。俺に何の用だ?」

「喉黒さん。お願いがあります」

「ん? なんだ?」

「……自首してください」

「さて何の話だ?」

「市原組。この会社は知っていますよね?」

「ああ、すぐそこの地元の建設会社だな」

「喉黒さんは、市原組と別会社が不正入札をして不正な利益を得ている事は、知っていますか?」

「ほう。そうなのか。お前が調べたのか? よくやったじゃないか」

「……もうとぼけないでください。喉黒さん。あなたも気付いていた。そして市原組の社長を脅迫して、裏金を受け取っていた。そうですね?」

「おいおい、何の冗談を言っているんだ」

「証拠ならパソコンの帳簿のデータを押さえました。それから喉黒さんが受け取った裏金の使い道であるホステスへの贈り物やキャバクラでの料金に充てていましたね。その金額は、とても警察官の給与内で遊ぶような金額じゃない」

「なるほど。言い逃れできないように証拠もそろえて、そこも調べてあるのか。ふっ、やるじゃねえか」

「どうして……」

「さあな。お前にトカゲの話をしたことがあっただろう。あの時、部屋の中にトカゲがいて可哀想に思った。その時、俺も同じだなと思った。俺もこの警察という狭い部屋の中で一生閉じ込められて飼われている存在だ。自由になりたかったのかもしれないな」

「喉黒さん。自首してください。今ならまだ罪は軽くなります」

「お前は馬鹿か。今、お前は犯罪者を詰めてるんだろう。自首してくださいなんて甘い言葉をかけるな。情けをかけるな。犯罪者に肩入れするな。警察官としての職務を全うしろ。ほら、早くワッパかけろ」

「うっ……ううっ……。喉黒さん……。どうして……」

 俺は思わず泣いてしまった。

「馬鹿野郎。犯人目の前にして泣く奴があるか。ワッパかける手が震えてるぞ」

「は、はい……」

「馬鹿野郎。何もたもたやってんだ。しっかりワッパかけねえか。何度も手錠のかけ方教えただろうが」

「うっ……ううっ……ぐすっ……すみません」

「ほら、文言」

「ぐすっ……五月六日。うっ……ううっ……。十六時三十二分。喉黒浩二。贈収賄及び脅迫の容疑で逮捕する」

「泣くな。お前は警察官だろ。犯罪者を捕まえたんだ。誇りに思え」

「はい」

「ほら、連れてってくれ」

「自分で歩いて下さいよ」

「年寄りにはきついんだよ」

「都合の良い時だけ年寄り気取りですか」

「フッ、厳しいねえ」

 それから喉黒さんを連れて行き、パトカーに乗せようとしたところで喉黒さんが振り向いて言った。

「髪型、乱れてるぞ。警察官ならちゃんと身なりを整えておけ。トイレ行って鏡見ておけ。それからな、お前の連れ。あれは加減を知らずに飲みすぎるようだ。まあお前は限度を守ると思うからそんな心配いらないと思うが、酒は程々にしておけ。後、友達は大切にしろよ」

「は、はい」

 俺とあいつが尾行していたことに気づいていたのか。さすが喉黒さんだ。でもどうして。どうして尾行に気づいていたのに、何も警戒しなかったんだ。まさかわざと俺に捕まった? そんな事を考えながら、俺はトイレに行って髪を整えようと鏡を見たが、髪なんて乱れていなかった。人前で泣きそうな俺を見て、喉黒さんがひっそりとトイレで泣けって意味で言ってくれたのだと後で気が付いた。俺はトイレの個室に入り、思いきり泣いた。この時からトイレは、俺の安息の地になった。

 それから俺は、新人で上司の犯罪を見抜いた事で周囲から信頼できる男だと言われるようになった。期待の新人だと言われるようになった。

 どうやら俺は、警察官なら犯罪者にならないと決めつけていて、視野が狭くなっていたようだ。結局は、あいつの言うことが正しかった。喉黒さんを捕まえられたのは、あいつのおかげだ。いつも無茶ばかり付き合わされて酷い目に遭わされるけど、今回ばかりは、あいつには感謝だな。そう思った。

 目を開けた。瞑想が終わり、散々迷惑かけられっぱなしだったあいつに感謝の気持ちも出てきたところで、自分の心が穏やかになったのだと感じた。あいつがうっすらと見える。 あいつがこっちに向かって微笑んでいる。そうか、ありがとう。お前も良い奴だったんだな。人間、悪い奴なんて本当はいないんだ。皆、時間はかかるけど、いつかは分かり合えるんだ。そうだ、警察官を定年まで勤めて退職したらお坊さんになろう。それでお坊さんになって、日本全国を回って、罪を犯した人達に寄り添って説法しよう。もうひとつ夢ができた。生きる目標が出来たよ。ありがとう。お前も早く成仏しろよ。

「長旅だったなあ」

「……えっ?」

 まだあいつの幻覚が見える。しかも今度は、声まで聞こえてきた。

「いやー、お前が俺の姿を見て泣くまではよかった。だがその後、突然瞑想を始めるものだから、面白そうだし黙って見ていた」

「は?」

「しかも消えろ煩悩なんて突然叫びだして、もう吹き出しそうになったぞ」

「……カズ……なのか?」

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