酩酊と声

 戸田さんは夏の暑さが一番酷くなっていた頃、ちょうど嫌なことも重なったのでスーパーで缶ビールを買ってきて、夕方から飲み続けたそうだ。コレはその時の話らしい。


「あの時は……五百ミリの缶を三本くらいは開けていました。気分はまったく晴れませんでしたよ。むしろ精神的に言えば悪化していたんです。でも……飲まないと嫌でしょうが無い現実を見せられるので止まらなかったんですよ。あの調子で飲んでいたら肝臓なんてダメになるでしょうね。それでも、肝臓を犠牲にしてでも逃げたい現実があったんです」


 彼は重苦しくそう語る。世の中に嫌なことが溢れていることなど周知の事実だが、それでも酒を飲めば一時は忘れられる。解決なんてしなくていい、ただ忘れたい時があると言うのは否定しない。



「よく考えたら三本も開ければ一リットル半ですからね、途中でトイレに走ったかもしれません。記憶にはまったく残っていないんですが、あれだけ飲んで吐かないわけがないんですよ。とはいえ、そこは本筋と関係無いんですけどね」


 それから彼は遠い目をして言う。


「朝起きたら六缶パックが空になっていたんですよ。頭はガンガンするし、頭痛薬を大量の水で飲み込んで横になりました。土日休みというのはありがたいことですけど、土曜日に多少無茶をしても日曜日で回復出来るんですよ。翌日が仕事なら絶対しないんですけどね」


 しかし彼からはまだ怪談を部分を聞いていないのだが……


「起きた時に一つ思いだしたんですよ。昨日飲んで、酔い潰れて、そこの記憶は全く無いんですけど意識が落ちる直前に『無茶しないの』と誰かの声が聞こえたんです。とても良く聞き慣れた声で……その時は誰の声か分からなかったんですけど、朝になってようやく思い出しました。昔婚約までしていた彼女の声だったんですよ。アイツ、もう数年前に死んじゃったんですけどね。どうして俺なんかの心配をするんでしょうか? こんな酒に溺れた人に執着して死後まで面倒を見てもらっているのを恥じたんですよ」


「その……それは酔っぱらっての事ではないんですよね? 人間、泥酔すると記憶から都合の良いものを思い出すと言いますが」


 私は言ってから失言だったかなと思う。彼は本気で信じているわけだし、否定する必要なんて無いはずなのに思わず言ってしまった。


 しかし彼は苦笑して答えた。


「間違いなくアイツの声ですよ。朝起きたらベッドの上に赤いシミがあったんです。そういえばアイツはビビッドな色のリップをよく使っていたなって思いだしたんです。ああ、もちろん自分の所持品じゃないですよ。だからきっと『死なないで』って事なんでしょう」


 今の彼はすっかり素面なので一応聞いてみた。


「それからアルコールは辞めたんですか? そこまで言われたなら断酒したということでいいんでしょうか?」


「ああ、年に一本だけ缶を買っていますよ」


 一本?


「一本とは一体?」


「ああ、アイツの命日に小さな缶ビールを墓前に一本供えているんですよ。そういえばアイツと飲むと必ずこっちが潰れていたなって思い出すんですよ」


 彼は今でも年に一回小さな缶を一本だけ買っているらしい。自分で飲むのは辞めたそうだ。現実が変わったわけではないが、彼女の墓前に立つと気が引き締まると微笑みながら語っていた。

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