(2)
「ただいま」
邸宅内には当然だれもいない。
アンが平坦な声で帰宅を告げても、昼でもどこか薄暗い家の中はしんと静まり返っている。
お屋敷に住んでいるのはダダイ氏とアンと――それからアンルルングと――で、留守を任せている人間もいない。
正確には、「生きている人間は」いない。
この立派なお屋敷は、先述した通りに心理的瑕疵物件――幽霊屋敷というものだ。
昼だろうが夜だろうが、生きていない先住民たちはお構いなしだ。
だがこの先住民たちは、アンとアンルルングがいるあいだは静かになる。
アンルルングからすればそれは当然らしい。
なぜなら、アンルルングは「神の子」だから――。
そんじょそこらの凡百の幽霊たちではとうてい太刀打ちできる「格」ではないのだ、とはアンルルングの弁である。
ダダイ氏はそれを信じているとも、信じていないとも言えない曖昧な気持ちだった。
しかし現実にアンとアンルルングが学校に行っているあいだはこのお屋敷は騒がしい。
昼間だろうとカーテンの下から青白い足が見えていたり、ダダイ氏の耳元に生温かい息がかかったり、洗面所の鏡の前に立てば背後に見知らぬ女がいたりする。
だがそれらもアンとアンルルングが帰宅すればぴたりと止まり、このお屋敷はごく普通の家屋と同じ顔をする。
それはアンルルングが言った通りに、このお屋敷の先住民たちと彼女らの「格」が違うからというのもあるかもしれないが、ダダイ氏が舐められているという側面もあるかもしれない。
ダダイ氏は未だにこれら先住民たちのいやがらせとしか思えない行為に肝を冷やし続けている。
生きていない人間、幽霊相手でも強く出ることのできないダダイ氏をこれら先住民たちが舐めきっている――というのは、ダダイ氏からすればいかにもありえそうな可能性に思えた。
悲しいかな、それでもなおダダイ氏は先住民たちに怒り狂うこともできないのだ。
突然アンの面倒を見るように迫られても、断りきれなかったのだ。
ダダイ氏は正当な文句を言えないほどに意志薄弱……と言うよりは、お人好しでひと一倍自制心が強すぎるのだ。
ダダイ氏の前職はごく普通のサラリーマン。それが、なんやかんやあって今ではアンのお世話係。
天涯孤独の身であるダダイ氏は、実のところ「莫大な遺産を相続して……」という噂の部分だけはあまり現実離れしていなかった。
飽きるほどに財産があるというわけではなかったが、慎ましく暮らして行くにはじゅうぶんすぎるほどの遺産を相続したことは事実だった。
だから、アンの面倒を見る名目で金を積まれてもさほど心は動かなかった。
ダダイ氏が勤めていた会社はさる「財団」のフロント企業というやつで、金を積んできたのはその「財団」の職員だった。
その事実にはさすがのダダイ氏もひるんだものの、未婚な上、ひとりっ子で年下の子供の面倒を見た経験などダダイ氏にはなかったから、普通に断るつもりだった。
けれども――アンがダダイ氏を望んだから。
見た目よりもずっと幼く感じられるアンが、他でもないダダイ氏を望んだから、ダダイ氏は最終的に折れたのだ。
アンは初対面のときからダダイ氏に異様なほどに懐いている。
なぜなのか、その肝心の理由をダダイ氏は知らない。
「先日助けていただいた『神の子』です」というようなことを言われたこともないし、そもそもダダイ氏はアンないしアンルルングを助けた覚えもない。
けれどもアンとアンルルングは一方的にダダイ氏を知っているようだった。
ダダイ氏はそれに対して悪感情を抱きはしないものの、理由のわからない好意を寄せられることに居心地の悪さは感じる。
しかしアンとアンルルングを突き放すことはできない。
特にアンのほうは。
アンルルングは落ち着いた声音の通りに、ダダイ氏とは基本的に一定の距離を保っている。
ダダイ氏も、アンルルングと話すときはその見た目はともかく、大人を相手にしているような気持ちにさせられる。
けれどもアンは実年齢よりもずっと幼い感じがした。
アンはダダイ氏と「お試し」で同居することになった初日の夜に、ダダイ氏の寝室へ無言でやってきた。
寝入りばなにその気配で起こされたダダイ氏が見たのは、ダダイ氏のベッドのすぐ脇の床に自分の部屋から持ってきた毛布を敷き、そこで横になっているアンの姿だった。
犬じゃあるまいし――。
ダダイ氏はそんな感想を抱くと同時に、アンを不憫に思った。
だから最終的に折れたのだ。
アンはダダイ氏に異様に懐いている。分離不安症気味になるほどに懐いている。お陰で薬が手放せない。
どこへ行くにしてもダダイ氏について行きたがる。まるで親の後を追う赤子のように。
……さすがのダダイ氏も、トイレにまでついて行きたがるアンは説得してやめさせた。尊厳が危ういからだ。
しかしそれ以外のことはできるだけ受け入れている。
その効果か、近ごろのアンの精神面は初めて会ったときよりは安定しているようにダダイ氏には感じられた。
美しいアンに好意を寄せられて、ダダイ氏ももっと若ければ鼻の下をだらしなく伸ばしていたかもしれない。
しかしダダイ氏はそろそろ「アラフォー」から足が出るお年ごろである。
自分の評価を高く見積もることも低く見ることもなくなって、社会における己の価値みたいなものをありのまま受け止められるようになりつつある。
だからアンの、ダダイ氏からすると理由の見えない好意に対して、むやみに心躍らせることはないのである。
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