10


 外へ出る前に、茜が持っていたハンカチで僕の手を結んでくれた。ハンカチはすぐに僕の血で真っ赤に染まってしまった。茜は気にしていない風に見えたけれど、僕はこのハンカチが彼女の大のお気に入りと知っていたから、とても申し訳なく思った。


 僕が茜のハンカチが結ばれた自分の掌をじっと見つめていると、窓の方から少年、ガイルが怒ったような口調で言ってきた。


「おい、いつまでそうしているつもりだ? さっさと行くぞ。それとも、今になって心変わりでもしたか? 今からでも警察か軍に突き出すつもりか?」


 僕はかぶりを振って答えた。


「そんなことはありませんよ。ただ少し、考え事をしていただけで。じゃあ、行きましょう」


「おう。慎重にな」


 慎重に……それはそうだ。窓に手をかけると、布越しでも鋭い痛みが走った。先程までは少しも痛みは感じなかったのに、今になって。


 何かが僕の中で起こって、僕の感覚を麻痺させていたんだ。あの時の行動はそうとしか思えないものだった。


 とにかく僕は窓の縁を掴み、外に出て、軒に足を下ろした。ガイルと茜がその様子をじっと見てきていて、僕は指を非常階段の方へと向ける。


「帰りはあそこのパイプを伝って、二階の窓まで降りる。それから柵を利用しながら何とか降りてみよう。二階まで降りれれば高さはそれ程じゃないし、多分行けるはず」


 僕が先を指し示しながらそう言うと、二人は黙って頷いた。何故か息がピッタリだ。


 僕は先に排水パイプのところまで行き、それを掴んで二階の窓まで降り、その軒の足を下ろして柵を掴む。僕が来るように合図する前に、ガイルは音もなくスルスルとパイプを降りてくると、僕の側で止まった。信じられない程滑らかな動きだった。


「君は何か、特殊な訓練でも受けてきたの?」


 ガイルは何も言わず、僕の傍に立つと、そのまま下を見下ろして他人事のような口調で言った。


「この世界で一人で旅をするってことは、それなりの覚悟と素養が必要な訳さ。俺は旅を続ける中で、色々な経験をした。これぐらいどうってことないってだけさ」


「そう」


 見上げると、茜が恐る恐る二番目の窓に向かい、漸くパイプを掴んだ所だった。僕が見守っていると、彼が「先に行くぞ」と言い、そのまま柵と室外機を踏みながら、それでも全く音を立てず、地面に着地した。振り返って彼は鞄を掛け直しながら言った。


「お茶の子さいさいだ」


「どういう意味?」


 苦労しながら降りて僕が言っても、彼は答えようとしなかった。そっぽを向いて、既に沈んでしまった太陽のあった空の辺りを見ているようだ。


 僕も無事地上に降り、見上げると、茜が最後の柵を掴もうとしている所だった。僕は小声でがんばれ、と言い、茜は無事に柵を掴んで二階の窓から一階の窓へと降り、それから室外機を踏んで降りてきた。


 僕は密かに胸を撫で下ろして、二人とも無事なのを確認した後、ここへ来た時の薮へと向かった。二人は何も言わずに後ろに付いてきた。


 薮を通り抜け、あちこち擦りむきながらも、結局誰にも見つからずに帰ってくることが出来た。奇跡と言っていい。正直、こんなに上手くいくとは思ってもみなかった。窓に鍵が掛かってたり、手を怪我したことは別にして。


「で、これからどうするんだ? 俺には行く当てがないぞ」


「とりあえず、僕の家に来たら? 学校の友達ってことで」


「学校の友達……」


「ちょっと、そんなの家の人にすぐにバレるでしょう? チクられたら終わりよ?」


 僕は手を振りながら言った。


「大丈夫だよ。もし親が通報したとしても、匿ってたことに変わりはないんだから、皆捕まる。その事が分からない父さんじゃないから。だから、疑いはしても通報はしないと思うんだ」


 茜が溜息をついた。


「あんた、親を信用してるのかしてないのか……いや、この場合は信用してないってことか。……まあいいわ。私はここで別れる。早く帰って宿題しなきゃだし。家の人もうるさいし」


 茜は手を腰に当てて、最後に言った。


「いい。明日、この人から聞いた話は全部、聞かせてもらうわよ。あそこまで手を貸してあげて、何も聞かされないなんて考えられないもの。好奇心には誰も敵わない、でしたっけ? 私もあんたと同じ病気よ。いい? 約束して。絶対私に話すって。まあ、あなたが話してくれるんでも私はいいんだけど……」


「二度手間は御免だ」


 ガイルは腕を組みながらそれだけを言い、またそっぽを向いてしまった。

茜が再び溜息を吐き、


「あっそ。あんたらいいコンビになりそう。じゃあ、私は帰るわ」


 茜は来た道を通り、帰っていった。公園の時計を見ると、もうすぐ十八時半になりそうだった。


 僕は彼の方を向いて言った。


「じゃあ、僕らは僕の家に行くということで。大丈夫。皆、良い人達だよ。妹は可愛いしね」


 彼は黙って、既に日の沈んだ山脈の見える遠くの空を眺めていた。彼の呟くような声が聞こえてきた。


「そうだといいがね」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る