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家に帰ると、父さんが居間にちゃぶ台を置こうとしている所だった。短く刈り込まれた白髪頭が電灯の白い灯りに照らされて輝いて見えた。
父さんは僕の姿を見て、「おう、帰ったか」と言いながら、母さんが作った料理の皿をちゃぶ台に並べている。
お前も手伝え、と雰囲気で言われた気がして、僕は鞄を壁に掛けて料理を並べるのを手伝う。母さんは窓の方を向いて洗い物をしているらしく、顔は見えなかった。
妹が傍から出てきて、「にいちゃん、見て」と言う。見ると、小さな戦隊物の人形が、赤と黒の絵の具で出来た新しい衣装を着せられていて、その人形の顔は少しばかり不服そうに見えた。
桃色のフリルの付いたワンピースを着た妹の小さな頭を僕は撫で、「いいな、格好いいな、その服」と言った。妹は嬉しそうな恥ずかしそうな笑みを浮かべ、母さんの方へ走っていった。
父さんが料理を並べ終え、酒瓶を脇に置き、飲む準備をしている。そうしていながら僕の方をとても注意深く意識しているのが伝わってくる。
僕は振り返って、玄関に置かれた自分のさっき脱ぎ捨てた靴と、壁に掛けた鞄とを見て、さて、どうしたものか、と思った。
何となく何かを言われそうな予感がしていた。するとやっぱり、食事が始まるとすぐに父さんが口を開いて、僕に向かって言った。
「学校の方はどうだ、足人。もう慣れただろう」
僕ら家族は数ヶ月前、遠くの国からカザンの端にあるこの田舎街に引っ越してきた。遠くで行われていた戦争が近くまで迫っていたので、そのまま残るわけにも行かなかったのだ。少なくとも父さんはそう判断したし、数ヶ月経った今、僕達が住んでいた国は侵略国との戦争に敗れ、火と瓦礫に埋まっているらしかった。とても沢山の、爆弾を満載した空飛ぶ機械が薄まった雷の壁を強行突破して、街は焼き尽くされたのだそうだ。ラジオでそう聞いた。つい最近のことだ。アナウンサーは淡々と、だが仕方なさそうな声でそう言っていた。
僕は胡麻のまぶされた青菜を口に入れようとしていたけど、その手を途中で止めて言った。
「うん、まあまあね。でも学校の授業は元いた所と比べるとすごく遅れてて、だから少し退屈してる」
父さんは酒を注ぎながら、へっ、と言った。
「お前は地頭がいいから、どこへ行ってもそう言うだろうよ。地頭がいいってことは誇れよ、足人。どう足掻いたって頭を良くできない連中がいるんだってことを忘れんなよ。例えば俺みたいにな」
青菜を食べながら僕は言った。「父さんは頭がいい人だと思うけれど」
「馬鹿言え。頭が良かったら佐官なんてやってねえよ。大学行って政府直属の機関で国の為に働けてただろうよ。壁を塗っても、戦争を止められる訳じゃねえ。頭を使った戦略と準備が必要なんだ」
「そうだね」
青菜は美味しい。目を上げて母さんの方を見ると、母さんはぼんやりした目でどこかを見つめたまま、手だけは機械的に動いて、自分が作った青菜を口に運び続けている。何を見ているのかは、僕には分からない。
妹はまだ箸の使い方を覚えたばかりで、まだ食べ物を掴むのに苦労している。僕がそっと食器を持ちやすい位置に移動してあげると、嬉しそうな顔になった。
時計を見上げると、まだ七時過ぎだ。父は最近は早くに帰ってくることも珍しくなく、新しい仕事に慣れてきたということなのだろうか。この国ではまだお酒は比較的安価に手に入り、父は仕事から帰ってくると毎日のように食卓に酒を持ち込むようになった。僕はそのことに何か思うことがある訳ではないけれど、何故か分からないけど、言いようのない胸の騒めきを覚えることがあった。
僕がぼんやりと時計の方を見ていると、妹の声がして僕は驚いた。
「にいちゃん、どこか行くの? 行くなら私も行きたい」
「どこにも行かないよ。ただ時計見てただけ」
「そうなの?」
「そう」
「ふうん」
小さな居間に沈黙が流れ、僕は少しばかり気まずさを覚える。
父は何も言わなくなり、一人で黙々と酒瓶から酒を注いで飲んでいる。
僕は青菜を食べ終え、焼き魚を食べ始めた。魚の肉を骨の間から抜き取って口に運んでいく度に、時間が黙々と過ぎていっているのを感じとる。
茜は今頃、あのあばら屋で一人で夕飯を食べているんだろうか。
それに、墜落したっていうあの空飛ぶ機械。軍はすぐには動かなかったし、操縦士は子供だったっていうじゃないか。
この街の人間だけかもしれないけど、敵機かもしれない機械が墜落したっていうのに、誰も気にしていないみたいだった。それってやっぱり異常なことなんじゃないのか?
少なくとも、元いた国の人々はいつも雷の壁のことを気にしていた。まるで、少しでも目を離したらその間に怪物が壁を食い破って入ってくると思っているみたいに。
この街は、農業と小規模の機械加工産業がある他は、特に目立った特徴のない、穏やかな街だ。
カザンの首都は赤煉瓦と煤煙、機械工場が密集していて、人もこことは比べ物にならないぐらい多いと聞いた。茜は昔、少しの間だけどそこに住んでいたことがあるらしい。もっと小さかった頃の話だが。
ある日間違って街に砲弾が撃ち込まれたことがあったらしく、その時の音が忘れられないと、茜は言っていた。他には何も覚えていないのに、その音だけは鮮明に覚えていると。
気がついたら、魚の肉がほとんど消えてしまっていた。父の皿を見ると、まだ料理の殆どは手付かずのままで、魚が少しつままれたぐらいで、味噌汁はもう湯気が上がっていない。
「戦争なんて実は、起こっていないんじゃないか」僕はそう何気なく口にしていた。その時、母さんの箸を持っていた手が微かに震えるのを、僕は見た。
その後、父から怒声を矢のごとく浴びせられたが、僕はその声を無視し、魚と味噌汁を食べ終える事に集中した。
その夜僕は、茜の家に電話をかけることを決めた。
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