99 タブラ・ラサ(5)

 須田夢は音楽番組の一コーナーで謝罪を述べた。そして、ほたるに向けられた誹謗中傷を咎める一言も。どうやら「人の傷つくことを平気で言う人はゆめのファンじゃない」と言い切ったらしい。曖昧に生きていた夢の今までで一番はっきりとした意思表明だった。

 ただそれからはどちらのアイドルグループも触れることをせず、ファンやその他の人間も興味を薄くしてSNSの表面上からは消えていった。今は両者ともにそれぞれ仕事ごとを全うしているらしい。

 特に、『ポップエナジー』は辻村美緒の月曜九時のドラマ出演が決まり、話題はそちらに集まっていたらしい。どうやら清楚系ヒロインという役どころらしい。世間としては意外な役どころに興奮冷めやらぬと言った感じだ。


 半ば上の空だった郁人は数学のテキストを閉じて、大きく伸びをした。パイプ椅子がぎし、と音を立てるのが一人の生徒会室では随分響いて聞こえる。

 袖をまくり腕の包帯を解いて、傷痕を指先でなぞった。まだ抜糸前のために糸の方が物々しく見えてしまう。

 夏服ということもあって、郁人は包帯の上からわざわざカーディガンを羽織っていた。いくら冷房が効いているとはいえ、ガーディガンの纏わりつく感覚が湿度相まって不愉快になっている。

 一人だけの生徒会室で郁人は優等生にも前を閉じていたカーディガンのボタンを外していく。

 クラスメイトに包帯を巻いているという余計な不信感を抱かせるのも申し訳ないので、体育では長袖を着用していたり配慮はかなり面倒なものだった。


「いやがらせか?」


 ノックなしで入室する優は開口一番そう言った。


「文句は俺に言わないでくれる?」


 傷のある右腕を机の上に投げ出して、郁人は窓に向かって頬杖を突く。


「そんなに知りたいのか、って聞いてんだけど」

「……なんか、知らなさすぎるかもって思ったんだよ。それだけ」


 優が手に持っているのは、郁人がCプロの事務所で見つけた自分宛の手紙。花房さくらからの手紙で、裏には優に数年前の事件を尋ねるように書いてある。


「こいつの文面、笑ってるのが気に食わねえんだけど。字もきったねえし」

「佐倉は俺の推論、聞いてくれるってこと?」


 目の前に腰を下ろした優は、手紙を郁人に押し付けると足を組んだ。居座ってくれるなら会話をしようということだろう。


「カルテには出鱈目でたらめ書けねえから、全部の話が推察で進んでいく。一番有力な説は本人と重要なメンバーにしか共有されない」


 優は郁人と目線を合わせるみたいに頬杖をつく。


「郁人もそのメンバーに入りたいって言ってんの?」

「……それで研究が進むならね」

「じゃ、聞こっかな。俺の寿命を延ばすのに一役買ってくれるわけだ」


 優はピアスの穴の閉じてしまった窪みだけの耳たぶをいじっている。郁人は頬杖をやめて座り直した。


「佐倉優と、花房さくらは同一人物だ」


 郁人の発言に優の表情から真剣さだけが残る。無意識なのか、優は頬杖をついていた手をパイプ椅子の後ろに回して組んだ。


「多分、この世界っていうのはたくさん平行に重なり合っていて、花房さくらはそのどれかからやって来た人間。俺みたいに。……あの先回りするような態度も、俺みたいに察しのいい何かを持っていたらできることかもしれないって思ったんだ。それに、花房さくらには十二歳より手前のこの世界で生きた形跡がない」


 そう、花房さくらは突如として現れた人間なのだ。

 どこの小学校の在籍記録もなく、戸籍を取得したのは十二歳の公開オーディションの直前。両親や兄弟姉妹、親類の情報もない。独立した存在。

 一つ疑問なのは、いくつもの世界でそれが連鎖的に起きていて、この世界で連鎖が止まっているのか。それとも同じ状況が世界の半分──つまり半分が花房さくらのような加害者で、もう半分が優のような被害者──で起きているのか。しかしそれは今の問題の重要な点ではない。


「決定的なのは、DNAが一致してるってこと。数年前、佐倉が押し掛けたことによって『保安局』が花房さくらに協力を要請してる記録があった」

「結構知ってんじゃん。まだ俺から聞くような事、ある?」

「あるよ。なんで花房さくらをマークしたの?」


 カルテから関連の資料にまで、それについてだけが記載されていなかった。

 どうして花房さくらに押しかけようとしたのか。その目星をつけた理由はどこにもない。


「簡単な話。父親が花房さくらをすごく気に入っていたから」

「……父親?」


 優の口から家族の話を聞くと言えば兄か母親だ。優に甘い兄と、脚本家の母親。データとして父親がテレビ関係者らしいことは知っていたが。

 郁人の疑問に優は目を伏せがちにしながら頷いた。


「そう。もうしばらく家には帰って来ていない俺の父親は、テレビ番組のディレクターをやってる。あのときの『ポップエナジー』の公開オーディションの枠を採用したのは俺の父親。花房さくらはそれまでの非公開オーディションに参加していなかった異例の人物だったんだよ。花房さくらを誰が連れてきたか、それは多分Cプロのスタッフの誰かだろうけど……あのオーディションの進行の権利は半分父親が握ってたんだ」


 つまり、優が言いたいのは。

 飛び入りで参加することになった花房さくらは、半分の権利を握る優の父親にも気に入れられる必要があった、という話。暴論だがない話ではない。参加しなかった非公開オーディションを、製作者側の人間に気に入られることで乗り越え、参加権を得た。


「俺の身体に変化があったのは公開オーディションの数日前、公開オーディションの参加メンバーが世間に公表された日だった。それまでスタッフ数人にしか知られていなかった花房さくらが世間に露出したことにより、認知度のせめぎ合いが発生して俺は負けたんだよ」

「それで、押しかけたってこと?」

「実は父親から溺愛できあいされて育ったからな。恨みは結構デカかった。自分そっくりの女に投資してるんだぜ。キモいだろ」


 優はやっと、と言った感じに浅く笑いを含んだ表情で投げやりになる。


「玄関裏で出待ちして胸ぐら掴んでやった。お前のせいでめちゃくちゃだ、って言ったらあいつ笑ったよ。あの時は薬も体に合ったやつじゃなくて、今より体の変化に追いついてなかった。息絶え絶えになって訴えたら、あの女は軽快に笑い飛ばすんだぜ。殴らなかった俺をもっと褒めろよ」

「……笑った、って。それって花房さくらも同じ目に遭ってたってこと?」

「それは知ったことじゃない」


 郁人は先入観から、他世界から人が飛んできた場合、その世界の同一人物は自動的に他世界に転送されてしまうものだと思っていた。

 しかしそれは違うのだ。偶然、この世界にいたはずの郁人は、同じタイミングでどうやった手順でか別世界に飛ばされていたということだと気づく。


「佐倉の殴り込みを花房さくらはどう思ってるんだろう」

「さあな。俺はあいつが何をしたいのか、全くわからない。いっさい、さっぱりな」


 郁人は少しだけ目を伏せながらうなだれた。

 郁人の腕の傷を一瞥いちべつして優は立ち上がる。


「こんなところでいいか? 郁人の推察を肯定してやったわけだけど、何か進みそう?」

「……わからないけど」


 優は足を止める。


「わからないけど、何かの指標にできるよう努めるよ」

「……熱心なのもほどほどに。どうせ他人の話なんだから、忘れた方がいいぜ」


 やはり他人事のように言うと優は部屋を出て行く。

 愛が憎しみに変わる時、大きさはそのまま反映される。優は花房さくらより、父親への複雑な心情の方が大きそうだ。おそらく優は父親に見捨てられた、辺りに思っているのだろう。それが真か偽かわからないが、少なくとも父親は優に酷いことをしたのに間違いはない。

 郁人は顔を上げて夕日を眺めた。チクリとまだ痛む右腕をなぞって、包帯を折りたたんでポケットに入れる。

 そしていつものノックを待っていた。

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