65 結言

──三年前。


 詩乃は響子から見てもよくできた子だった。利口りこうで、親がこうしろと言えば要望通りのことができる。

 そして当たり前のように、響子が通った小学校にお受験をするという話になった。小学校専門の受験塾で定期試験がある度に、塾の壁紙に詩乃の名前がいつも張り出されていたのを覚えている。

 響子は滅多めったではなかったが詩乃を迎えに行くたびに、あのお利口さんの姉にしてはという目を向けられていたと感じていた。


 そしてきっと、それを詩乃も気づいていたのだと思う。


「ママ」

「なあに? 今晩は詩乃の好きなおいもさんよ」

「うれしい。でもね、ママ」

「どうしたの?」

「おむかえに来てくれるの、お姉ちゃんじゃなくってママがいい」

「お姉ちゃんじゃイヤなの?」

「ううん。でも、お姉ちゃんもいろいろいそがしいかなって」


 響子はこの会話を聞いて詩乃に気遣きづかわれているんだと思った。

 九歳も離れた妹にそんな芸当げいとう、普通出来るだろうか。本当に六歳?

 そんな風に周りが見えている妹もにくらしかったけど、なにより何も見えていない母親にも苛立いらだちがあった。


 分かっている。妹は今年が正念場しょうねんばなのは。これが人生のすべてを決めるわけじゃないけど、一部をいちじるしく変えるのだということを響子は理解していた。

 塾から国立小学校の受験もすすめられている。妹はある意味、人格形成の時期をどんな環境で育つのか自分の手で決めさせられている。そして両親はその方向性をできるだけ矯正きょうせいしている。


 響子は偶然そこにいるだけ。

 毎月の定期テストの点数を見れば、火を見るより明らかだ。詩乃に掛けた方が優秀な子が小森家から出る。とくに名だたる名家でもない分、優秀な娘は財産ざいさんになる。


「響ちゃん」

「……どうしたの?」


 ひた、と冷たいフローリングの床をみしめる。

 受験は秋。

 響子は詩乃と会話することが怖くなっていた。


「だいじょうぶだからね」


 響子は下唇したくちびるを噛みしめて自室にけ込んだ。白い布団をかぶって、涙を押し殺す。

 中学二年生の響子よりはるかに大人びた配慮はいりょの言葉。


 なんて情けないんだろう。




 乗ったことのない私鉄の改札をくぐって、一番遠くへ行けそうな『急行』列車に乗り込んだ。時刻のわりに人は少なくて、あまり乗車人口も多くないのだろう。

 夏服に変わったばかりの白いセーラー服の紺のスカートに手を伸ばして、ひだを気にせずに握り込む。荷物は学校指定の革製かわせいの手持ちかばn一つだけ。ローファーの先をり寄せて足をぴったりと閉じた。


 がたん、と車内が大きく揺れた。


「どこに向かってるの?」


 ぱっちりとした二重目蓋とその中に鎮座ちんざする黒いひとみ。吸い込まれそうだった。


「……えっと」


 隣から問われた声に、律儀りちぎにどこかの駅名を答えようとして口ごもる。

 車内で誰かに話しかけられるとは予想していなかったのだ。手の中にある鞄をぎゅっと抱きしめる。


「この電車、海にでも着けばロマンチックなんだけど……残念ながら山行きなんだよね」

「……じゃあ、山登りします」

「その制服、羽鳥はとり学園の?」


 彼女は響子の思ってもいない返答を無視して尋ねてきた。

 見覚えのある顔だ。案外テレビ越しと直接見るのとでは印象が変わるらしい。随分ずいぶん、年齢相応らしい無邪気むじゃきさをそなえている。


「はい」

「わたし、そこに通う予定だったんだ」


 何とリアクションすればよいのだろう。響子は浅く頷いておく。


「今は都内の私立に通ってるんだけど」

「じゃあ、なんでこの電車に……?」

帰省きせい本能、ってやつ?」


 そう言ってにっこりと笑う。

 次は鍵島。

 そんなアナウンスに、彼女は顔を上げた。ポシェット一つにすその広がったワンピース一枚の彼女はそっとひるがえすみたいに立ち上がる。


「降りてみない?」

「……」

「鍵島。目立つなにかはないけどさ、いいところだよ」


 響子が鍵島に出会ったのはこの夏初めだった。




「どうして……どうしてお姉さんは私に話しかけたんですか?」

「『どうして』?」


 鍵島の街並みはすごく普通の住宅街。こんな二度見してしまうような芸能人でも、何の前触れもなくどこにでもポンと生まれてしまうものなのだろう。

 へいの上に寝そべる白に黒いぶちの猫に手を伸ばそうとする、彼女の背中を見つめながら尋ねる。


「……きみが寂しそうだったから、かな」


 響子よりも年上だったはずだけど──この歳なら年齢は関係ないか──背の低い彼女は振り向きざまに答えてくれた。


「遠くに、誰も知り合いのいないところに、行きたそうにしてた」


 乾いた笑い声がれる。笑いたいわけでもないのに、これは一種の防衛本能だろう。


「これ」


 そうそう、と思い出したように彼女はポシェットの中を弄り始める。彼女の手の中にあったのは、彼女の雰囲気に似つかわしくない一冊の文庫本だった。


「電車に忘れてたよ」

「私のじゃないです」

「忘れてたよ」


 有無うむを言わせない圧を感じながら、響子はそれを受け取った。


『向日葵の咲かない夏』


 初めて見る。

 いや、本当に初めてだろうか。

 見覚えがあるような気もしてきた。本屋の店頭にでも並んでいるのを見たのだろうか。

 まじまじと表紙を眺めて、ぱらり、と一ページ目を開いてみる。


「考察のはかどるミステリーだよね」


 彼女は白いワンピースの裾を翻しながらくるくると回り始める。軸のブレない綺麗なターン。バレエ仕込みらしいそれは誰でも釘付くぎづけになる。


「わたしはその本、だいっきらいなんだけどさ」

「……嫌いなんですか?」

「だって結末が曖昧あいまいだし……もやもやするし。事件があって解決するからこそミステリーっていうんじゃないの? 小説だから、人の手が加わっているものなんだからはっきりとした答えがあるだろうに、現実世界みたくあやふやにして本当の正解は作者すらも分からない、とか言っちゃってさ」


 釈然しゃくぜんとしない。


 そんな毒舌を吐いて、なおも彼女は笑みを顔いっぱいに湛えていた。女優とはこんなに恐ろしい生き物なのだろうか。柔らかい雰囲気をまとっているのにとげが見える。


「でも、一回くらい読んでみてもいいかもしれないね」


 すたすたとまっすぐ伸びる道の先を歩いて行ってしまう。

 置いて行かれる気がして、でも、置いて行かれていいような気がした。とりあえず今日は帰ってみよう。


「あの、私」

「なにー?」

「またあの電車に乗ったら、会えますか?」


 ドラマのワンシーンのように、ワンピースの裾をつまんで舞台の挨拶みたいに頭を下げて。彼女は少しまぶしい日光を背にはにかんでいた。


──いつかね

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