65 結言
──三年前。
詩乃は響子から見てもよくできた子だった。
そして当たり前のように、響子が通った小学校にお受験をするという話になった。小学校専門の受験塾で定期試験がある度に、塾の壁紙に詩乃の名前がいつも張り出されていたのを覚えている。
響子は
そしてきっと、それを詩乃も気づいていたのだと思う。
「ママ」
「なあに? 今晩は詩乃の好きなおいもさんよ」
「うれしい。でもね、ママ」
「どうしたの?」
「おむかえに来てくれるの、お姉ちゃんじゃなくってママがいい」
「お姉ちゃんじゃイヤなの?」
「ううん。でも、お姉ちゃんもいろいろいそがしいかなって」
響子はこの会話を聞いて詩乃に
九歳も離れた妹にそんな
そんな風に周りが見えている妹も
分かっている。妹は今年が
塾から国立小学校の受験も
響子は偶然そこにいるだけ。
毎月の定期テストの点数を見れば、火を見るより明らかだ。詩乃に掛けた方が優秀な子が小森家から出る。とくに名だたる名家でもない分、優秀な娘は
「響ちゃん」
「……どうしたの?」
ひた、と冷たいフローリングの床を
受験は秋。
響子は詩乃と会話することが怖くなっていた。
「だいじょうぶだからね」
響子は
中学二年生の響子よりはるかに大人びた
なんて情けないんだろう。
乗ったことのない私鉄の改札をくぐって、一番遠くへ行けそうな『急行』列車に乗り込んだ。時刻のわりに人は少なくて、あまり乗車人口も多くないのだろう。
夏服に変わったばかりの白いセーラー服の紺のスカートに手を伸ばして、ひだを気にせずに握り込む。荷物は学校指定の
がたん、と車内が大きく揺れた。
「どこに向かってるの?」
ぱっちりとした二重目蓋とその中に
「……えっと」
隣から問われた声に、
車内で誰かに話しかけられるとは予想していなかったのだ。手の中にある鞄をぎゅっと抱きしめる。
「この電車、海にでも着けばロマンチックなんだけど……残念ながら山行きなんだよね」
「……じゃあ、山登りします」
「その制服、
彼女は響子の思ってもいない返答を無視して尋ねてきた。
見覚えのある顔だ。案外テレビ越しと直接見るのとでは印象が変わるらしい。
「はい」
「わたし、そこに通う予定だったんだ」
何とリアクションすればよいのだろう。響子は浅く頷いておく。
「今は都内の私立に通ってるんだけど」
「じゃあ、なんでこの電車に……?」
「
そう言ってにっこりと笑う。
次は鍵島。
そんなアナウンスに、彼女は顔を上げた。ポシェット一つに
「降りてみない?」
「……」
「鍵島。目立つなにかはないけどさ、いいところだよ」
響子が鍵島に出会ったのはこの夏初めだった。
「どうして……どうしてお姉さんは私に話しかけたんですか?」
「『どうして』?」
鍵島の街並みはすごく普通の住宅街。こんな二度見してしまうような芸能人でも、何の前触れもなくどこにでもポンと生まれてしまうものなのだろう。
「……きみが寂しそうだったから、かな」
響子よりも年上だったはずだけど──この歳なら年齢は関係ないか──背の低い彼女は振り向きざまに答えてくれた。
「遠くに、誰も知り合いのいないところに、行きたそうにしてた」
乾いた笑い声が
「これ」
そうそう、と思い出したように彼女はポシェットの中を弄り始める。彼女の手の中にあったのは、彼女の雰囲気に似つかわしくない一冊の文庫本だった。
「電車に忘れてたよ」
「私のじゃないです」
「忘れてたよ」
『向日葵の咲かない夏』
初めて見る。
いや、本当に初めてだろうか。
見覚えがあるような気もしてきた。本屋の店頭にでも並んでいるのを見たのだろうか。
まじまじと表紙を眺めて、ぱらり、と一ページ目を開いてみる。
「考察の
彼女は白いワンピースの裾を翻しながらくるくると回り始める。軸のブレない綺麗なターン。バレエ仕込みらしいそれは誰でも
「わたしはその本、だいっきらいなんだけどさ」
「……嫌いなんですか?」
「だって結末が
そんな毒舌を吐いて、なおも彼女は笑みを顔いっぱいに湛えていた。女優とはこんなに恐ろしい生き物なのだろうか。柔らかい雰囲気を
「でも、一回くらい読んでみてもいいかもしれないね」
すたすたとまっすぐ伸びる道の先を歩いて行ってしまう。
置いて行かれる気がして、でも、置いて行かれていいような気がした。とりあえず今日は帰ってみよう。
「あの、私」
「なにー?」
「またあの電車に乗ったら、会えますか?」
ドラマのワンシーンのように、ワンピースの裾をつまんで舞台の挨拶みたいに頭を下げて。彼女は少しまぶしい日光を背にはにかんでいた。
──いつかね
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