海へ行こうと思った。
小日向葵
海へ行こうと思った。
海へ行こうと思った。
人気の絶えた駅のホームでその子は泣いていた。時刻はもう二十時を越えている。都内の有名進学校の制服を着ていて、足元には学生鞄が力なく横たわっている。左手で口元を押さえ、右手で時折涙を拭っている。
特に同情したわけじゃない。ただ、声も立てずにじっと噛み締めるように泣くその子を見ているうちに、私の中で何かが弾けたんだと思う。
すぐそばの自販機で甘いレモンティーを二本買ってポケットに突っ込むと、ゆっくりとその子に近づく。
「良かったら」
私は言ってまずハンカチを差し出した。その子ははっとした様子で目を丸く見開き、ひとつ鼻を啜る。
「あり、がとう」
その子がハンカチを受け取って涙を拭き始めたので、私は足元の学生鞄を拾い上げてぱんぱんと埃を払う。
「何があったのか知らないけど、落ち着こうか。ほら、そこに座ろ?」
私は彼女を後ろから抱くようにしてベンチに誘導して座らせ、学生鞄を隣のベンチに置く。その反対側に座って、固く握りしめたその子の左手に、冷たいレモンティーのペットボトルを持たせる。
「甘いもの飲んで、落ち着こう」
私はその子の返事を待たずに、自分の分のレモンティーを開けて飲み始めた。私の様子を窺っていたその子も、おずおずとレモンティーを飲み始めた。
反対側の線路に電車が停まった。働きに出ていた人、学校に行っていた人が戻ってくる。電車が走り去ってしまうと、駅はまた脆弱に包まれた。
「ね、海行かない?」
私はその子に向ってそう言った。
「海?」
「三つ先の駅からちょっと歩くと海なんだ。行ったことないでしょ?もし良かったら、今から行ってみない?」
その子は少し考えて、やがてこくりと頷いた。私は笑って立ち上がる。
「次の電車に乗ろう」
しばらくして到着した電車からは、乗客の半分ほどが降りた。その人波をかきわけて、私とその子は電車に乗る。車内にはまだまだ人が多くて、座席は全て埋まっていた。
ひとつ、ふたつ、そしてみっつ。私とその子は電車を降り、改札口を抜けてもう静かになりつつある商店街を歩いて行く。
真っすぐに抜けて国道を渡り、防風林を越えるとそこには小さな砂浜がある。六月の夜、月に照らされた海はまるで真っ黒に見える。
私は革靴とソックスを脱ぎ、スポーツバッグと共に砂浜に置いて波打ち際へと歩いた。
素足に、海の水が冷たく心地良い。私がその子の方を向くと、その子も靴と靴下を脱いでいる所だった。
「冷たい」
波に足を洗われて、その子は弾んだ声を出す。
「気持ちいいよね」
「はい」
ちゃぷちゃぷと、波を蹴って二人は歩く。
「私、失恋したんです」
「だから泣いてたのね」
「悲しくて、つらくて。いっそ死んじゃおうかなんて思ってて」
月光に照らされた、その子の笑顔はとても素敵に見えた。
「まあそういう時もあるよね」
「でも、こうして海を歩いていたら、そんなことどうでも良くなってきました」
「全ての命は、海から産まれたんだよ」
私も笑う。
「だからね、心が弱った時は海」
「海」
「実際に行かなくてもいいんだよ。波の音を思い浮かべて、心を落ち着けるだけでいい。今日はほら、たまたま近くだったからね」
「ありがとう」
「いいのよ、私も久しぶりに海を見たかったし。きっかけ」
足を拭き、靴下と靴を履いて駅へと戻る。その子は、その別れた彼のことがどれくらい好きだったか、付き合えてどんなに嬉しかったか、そして裏切られてどれほど悲しかったかを歩きながら語った。わずかな時間で駅前商店街は飲み屋とコンビニを除いて店を閉じ、人影もほとんどなかった。
「元気が出ました」
ガラガラの、都心方面に向かう電車の座席でその子は笑う。
「そう、なら良かった。きっとこれからいいことあるよ」
「そうですね、きっとそうですよね」
その子の瞳は、車窓の光も取り込んできらきらと輝いて見えた。ひとつ、ふたつ、そしてみっつ。
「じゃあ、私この駅だから」
「本当にありがとう」
「さよなら、元気でね」
「はい」
私は手を振って電車を降り、そしてゆっくりとドアが閉まる。電車は静かに走り出し、銀色の体をくねらせて赤い光の尾を引きながら遠ざかって行った。
海へ行こうと思った。 小日向葵 @tsubasa-485
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