【中編】ヤンデレギャルを治すラブコメ

夏目くちびる

病む前

 身長の高い女というのは、得てして思春期に自分の体について悩みを抱えているモノらしい。



 冷静に考えてみれば、なぜ恵まれた肉体を持って生まれる事に悩む必要があるのかと平均的な体格を持つ僕は思うのだが。それはやはり、恋する男よりも大きい自分が、相手のプライドを著しく傷つけてしまうのではないかという心配から気苦労に繋がっているのだと愚考する次第である。



 もちろん、僕からすれば恋愛ってそんなに大切なモノかと甚だ疑問に感じてしまうのだが――。



「いかんいかん」



 頭を振って、すぐに自分の決めつけを振り払った。



 そんな中で、同じ二年B組に所属している鯨井くじらいメグは清々しいほどに人生を楽しんでいるように思える。百八十センチくらいの長身もさることながら、健康的に日焼けした肌と銀色のボブカットが特徴。シャツも第二ボタンまで開き、スカートに至っては「それはやり過ぎじゃね?」と思うほどに短い。



 というか、たまにパンツ見えてる。もちろん、それは男子高校生的には「どうもありがとうございます」の一言に尽きるのである。



「もう、エッチ」



 ただでさえ目立つ彼女が際どいギャルファッションに身を包めば、その注目度合いは休日のショッピングモールで芸を披露する大道芸人クラスは下らないワケで。やはり、カースト的な序列でもトップに君臨してしまうワケである。



 デカい女のよくあるらしい悩み事を、その陽キャっぷりで少しも気にせず生きていそうな鯨井の笑顔は、うっかりすれば思わず虜になりかねない魅力を持っていた。



 ……けれど、僕は知っていた。



「なにを?」



 一年前。



 鯨井が初恋を散らし、その翌日からギャル化したということを。彼女は自分の身長を気にしていないワケではなく、気にしないように生きようと開き直ったということを。



 彼女のキャラクターは決意表明である。一つの青春にピリオドを打った儚さは、鯨井メグを語る上で外すことの出来ない要素だと言えるだろう。



「えぇ? そうかなぁ?」



 以下回想。



 その日、僕は所属する文芸部室にて一人で推理小説を読んでいた。確か、ジョン・ディクスン・カーの"火刑法廷"だったと記憶している。世の中には、こんなにも読者を騙すことの出来る文章が存在しているのかと驚いて考察サイトを読み漁ったから、記憶に間違いはないだろう。



「なるほどなぁ」



 余韻を噛み締め、ようやく感心し窓の外を見下ろすと、そこにはまだ一年生だった鯨井メグと、恐らくバスケットボール部の先輩だったのだろう。名前は存じないが、少し開いた窓から「■■先輩」と鯨井が顔を真っ赤にして呼びかけていたのが聞こえ、その二人が、人目につかない放課後の校舎裏で向かい合っていたのだ。



 考えるまでもない、あれは告白イベントだった。



 僕の人生にはあり得ない非日常的なラブコメディを見せつけられ、現実感も無いまま、なんとなく鯨井を応援しながら結末を見届けていたが、その結果は遠目にも芳しくないことが分かった。



 勢いよく頭を下げた鯨井は、先輩の返事の後にゆっくりと力なく姿勢を直して、指先で髪の毛をチョイチョイと弄ってから涙を流し、すぐに走り去っていった。実に切ない青春の一ページだ。まったく、運動部には女子に告白されても断れる余裕があるようで羨ましい。



 まぁ、それはさておき――。



「おはよっ!」



 翌日。



 スポーティなキャラだった鯨井が、そういえば元々色黒だったことに気が付いたのはその時だ。みんな、バッサリ切ってしまった派手な銀髪の方に目がいっていたが、僕の注目はスカートから伸びるムチムチの太ももだったということを告白しておきたい。



 『どういう心境の変化があったのか』と、クラスメートは口々にそんな質問を投げる。そんな彼らに、鯨井は「なんでもない!」と笑えるくらい明朗な嘘をついた。



 ハッキリ言って、僕は強い女が好きだ。



 母親以外に好きになった女性のいない僕には、イマイチ失恋の苦しみは理解出来ないが。それでも、想いが届かなかった無念や喪失感が心を苛むであろうことは想像に難くない。



 にも関わらず、一片の卑屈さもなく嘘を語った彼女は間違いなく強い女なワケで、だから、僕は密かに憧れを抱いた。もしもまた彼女が恋することが出来たのなら、是非とも成就のために力を貸してあげたいと思ったほどだ。



 もちろん、元々あまり接点もなく、日がな一日読書ばかりしている僕には彼女と関わるような機会も訪れないので無意味な妄想に過ぎないとこの時は思っていた。



「こんにちは〜、ここって文芸部ですか〜?」



 しかし、現実とは僕程度の生み出す想像を大きく越える出来事がなんの前触れもなく訪れるモノらしい。



 また翌日の放課後。



 相変わらず読書をしながら、「島田荘司の小説はスケールがデカくて展開が読めないなぁ」と一人で時間を過ごしていると、他でもない鯨井メグが文芸部にやってきたのだ。



「あれ、鏡花きょうかじゃん。キミって文芸部だったんだ」



 鏡花とは、僕の名前である。鈴木鏡花。特に接点のない彼女が僕を下の名前で読んだのは、平凡なセカンドネームに対して、聞けば中々忘れられない珍しいファーストネームだったからというだけの理由だろう。



「こんにちは、鯨井。なにか用事でも?」



 内心、憧れのクラスメートの来訪にドキドキしっぱなしだったのだが、しかし僕は気持ちをお首にも出さず冷静を装った。あまりキョドってキモいと思われてしまうのは、この上なく望むところではないからな。



 まさに、これが正しい意味でのドキドキ文芸――。



「この部室に人助けの名人がいるって保険室の高町センセに聞いてきたんだけど、もしかして鏡花のことだった?」



 そんな称号を美人の高町先生に頂けていることを知って、照れくさくなった僕は否定も肯定も出来なかった。



「だったら、どうだって言うのさ」

「あたし、好きな人にフラレちゃったからさ。こう、何か失恋を忘れられる方法を知りたいなぁと思って。それをセンセに相談したらここを教えられたの」



 高町先生からなにを聞いたのかは知らないが、ほとんど顔見知りの僕へ素直に葛藤もなく打ち明けるとは意外だ。それとも、ここへ来る前に葛藤は済ませたのだろうか。



 いずれにせよ、僕は昨日に現場を目撃していたことは言わなかった。



「あいにくだけど僕に恋愛は分からない。それに、恋愛相談と言えばそれこそ高町先生がご意見番だって聞いてるけど」

「でも、そのセンセが文芸部に行けって言ったんだもん。何も無いなら帰るけど」



 なんとなく、ここで鯨井を帰してしまうことは僕の一生の後悔になるんじゃないかと思った。心の中で密かに誓った『力を貸す』という妄想を、結局ビビって叶えられないとなっちゃ僕自身に嘘をつくことになるからだった。



「まぁ、せっかく尋ねてきてくれたんだし考えてみるか。鯨井、話せる範囲でいいからあなたのことを教えてくれ」

「あなた(笑)」



 どうやら、鯨井と先輩は中学時代からの知り合いだったらしい。そんな彼を追っかけて高校に入学すると、背の高い彼女は女子バスケ部に入部するよう熱烈なオファーを受け、結果、同じ場所で放課後を過ごせるようにプレイヤーとなったようだった。



「でも、フラれちゃったからやめた。別にバスケが好きなワケじゃないし、先輩が見てくれないならやる意味ないもん」

「タイミングの問題じゃないのか? 大会が近いとか、今は恋人がいるとか」

「……うぅん、タイプじゃないって言われた。まぁ、何となく分かってたけどさ」

「なるほど」



 同情はするが、個人の価値観は尊重するべきだ。確かに僕は鯨井に憧れているし、幸せそうに笑っていて欲しいとは思うが、だからといってその責任を大して彼女に思い入れのない先輩に押し付ける気はなかった。



 というか、直談判するほどの熱血でもないし、仮にそんな行動力があるのなら僕が幸せにすると意気込むことだろう。



「一つ疑問があるんだけど、鯨井って最初からギャルだったのを隠していたのか?」

「う〜ん、どうだろ。まぁ、先輩が清楚系の方が好きっていうのは知ってたからはっちゃけなかった感はあるよ」

「なら、妙な呪縛から解き放たれて好きな化粧を楽しめるようになったたんだからプラマイゼロなんじゃないか?」

「それはそれ。というか、吹っ切れてないから無理矢理ギャルメイクしたんじゃん。みんなには言わないけど、あたしだって傷付いてるんだから」



 鯨井は、テーブルに付くと妙に不貞腐れたような表情で頬杖をつき窓の外を見た。瞬間、なにかに気が付いたように僕の方へ向き直る。理由は単純明快、ここから告白の瞬間がバッチリ見えていたことを知ったのだ。



「昨日の放課後、鏡花はここにいた?」

「いや、用事があっていなかった」



 大して仲良くもない男に泣き顔を見られていただなんて、彼女も知られたくないだろうからな。



「なんで、クラスで黙ってたの?」

「だから知らないって」

「……ふぅん、そっか」



 鯨井は、なぜかシャツのボタンを一つしめた。僕の視線の行く先が気になったのなら、大変失礼なことをしたと思う。



「とにかく、失恋を忘れたいっていうなら予定を詰め込むのがよろしい。バスケのせいでやれなかったこと、他にも色々とあるだろ?」

「うーん、あんまりないなぁ。別に部活やりながらでも友達と遊んだりはしてたし」

「だったら、放課後はここに来なよ」

「……え?」



 鯨井は、素っ頓狂な顔をして首を傾げた。



「やりたいことが見つかるまで、ここで読書を楽しむがいいさ。僕以外に部員もいないから好きに過ごせるし、たまに鯨井みたいに相談に来る奴もいるし。退屈凌ぎにはちょうどいいだろう」

「なにそれ、もしかして口説いてんの?」

「少しだけ」

「ぷははっ! え、やばーっ! てか、鏡花ってそういうキャラだったんだ!」

「意外性で言えば、一夜にしてギャル化した鯨井の方が上回ってるでしょ」

「まぁ、それは言えてるケド。ぷくく……っ」



 小馬鹿にするような態度を取った割に、やはり暇を持て余していることは確かだったようで。翌日より、彼女は文芸部室へ足を運ぶようになったのだった。



 というワケで、以下のシークエンスは一ヶ月後の出来事になる。



「そろそろ、あたしが前を向くための素晴らしいアイデアは思いつきましたかな?」

「残念ながら、恋愛のことは分からないってば」



 むしろ、僕が教えて欲しいくらいだと思った。この日もいつも通り、彼女は長テーブルの真ん中で、僕は部屋の隅っこで本を読んでいる。



「なぁんだ、頼りにならないのねっ」

「ただ、悩むなら予定を詰めろというのは僕の変わらない結論だよ。要するに、人は暇な時間があるから悩んだり悲しんだりするワケで、やることがあるなら下手に思考を働かせたりしないから」

「あ、なんか頭の良さそうなこと言ってる」

「思考って、極論方法を生むこと以外は娯楽だから。つまりは、鯨井の今の趣味が悩むことになっちゃってるってこと」



 彼女は、部屋の隅っこのパイプ椅子に座る僕の隣にベンチを動かして座ると、僕よりも少し高い座高から水晶玉みたいに透き通った瞳でジッと見つめてきた。



「なんだよ、ガン付けるなんて趣味悪いぞ」

「違う、鏡花の言ってることが面白いだけ」

「変な奴だな、こんな能書きに関心を持つなんて」



 少し離れようと思ったが、隅っこなのでズラすスペースもない。吸い込まれそうな表情から目を逸らして、僕は本に栞を挟みパタリと閉じた。



「仕方ない、僕が忘れさせてあげるよ」

「あっは! なにそれ! あたしのこと好きにさせるってこと!?」

「それが出来れば一番手っ取り早くはあるんだけど」

「……ほぇ?」

「僕はそんなロメオじゃないから、鯨井のやりたいことを探すって話。他の部活、見に行こうぜ」

「あ、あぁ。なんだ、そういうことですか」



 そんなワケで、僕は鯨井と共に部活動を見て回った。ただし、ぶっちゃけ今更新しい部活に入って何かをしようだなんて気になるとは思っておらず、探しているのは鯨井が憧れられる男だ。



 新しい恋をすれば、彼女もきっと気分が良くなるだろう。つまるところ、傷を埋めるのは同じ栄養だけということだ。



「鏡花はあたしのこと埋めてくれないの?」



 一時間くらい適当な雑談をしながら見回って、僕たちはオレンジ色になった狭い部室に戻ってきた。



「からかうなよ。というか、スポーツマンに惚れる女子の心を僕が埋められるとは思えない。タイプが違い過ぎる」

「別にバスケやってるから先輩を好きになったワケじゃないケド」

「じゃあ、どこに惚れたのさ。顔?」

「まぁ、広義で言えばそういうことになるのかな。スターって、キラキラしてるからかっこいいんだし」

「だったら尚更無理でしょ。控えめに言って、僕のツラはそこまで上等な代物じゃないし、何かに打ち込んでいるワケでもない」



 それに、顔に惚れたと言うのなら他の男を探すという方法は合理的だ。……的なことを懇切丁寧に説明すると、彼女は立ったまま壁に寄りかかる僕を見上げて前髪をチョイチョイと弄った。



「……ねね、鏡花は身長の高い女子って好き?」

「急になにさ」

「いいじゃん、答えてよ」

「好きだけど、そういう匂わせ系の発言は勘違いしそうになるから控えていただきたいな」

「じゃあ、あたしのことは?」



 ……そうか。



 考えてみれば、人は承認欲求が満たされることで心の余裕を生むのだから、同様に心の傷だって回復するだろう。そして、こんなことを聞く鯨井の傷とは、きっと手に入らなかった不満よりも不必要とされた切なさなのだろうから。ある意味、彼女に愛を伝えられるのであれば誰でも治してあげられるのかもしれない。



 そして、その適任となる男がいるならば、そいつは間違いなく彼女に憧れている男子に他ならなかった。



「好きだよ。だから、文芸部に居て欲しいと思った」



 もしかすると、高町先生は僕のこういう性格を見抜いて鯨井をここへ送り込んだのかもしれない。自分は誰にも好きになってもらえない。そんな不安を取り除く男子として、口が固く冴えなくも言いたいことは素直に言う僕は客観的に一つの正解に思えるからな。



 仕方あるまい。



 僕が、鯨井メグの承認欲求を満たしてあげようではないか。幸い、僕には彼女を褒めるような言葉は幾つだって出てくる。聞き続けて生理的な嫌いが出てくれば、それはそれで失恋の悩みから解放された証拠になるだろうし。



「……カノジョいるの?」

「いないし、いらない」

「なんで?」

「鯨井みたいに、僕を頼ってここへ相談に来る奴が少しだけいるって言ったろ。そして、もしもそいつが自分じゃどうしようもないくらい追い詰められてるとして、その時にこの部室が空いてないようだと可哀想だ」



 すると、鯨井は静かに鞄を持ち、ゆっくりと立ち上がって部室から出ていった。帰りの挨拶も言わなかったところを見るに、僕の発言が気に食わなかったか、もしくは部活見学の時に気になる男子でも出来たのだろうと思っていたのだが――。



「やっほー、鏡花」



 翌日の彼女は、掃除当番の僕よりも先に職員室で鍵を貰って部室で僕の読みかけの本をペラペラと捲っていた。



「なんだ、鯨井。また部室に来てくれたのか」

「うふふ。だってあたしが来ないとヤでしょ?」

「いてくれると嬉しい」



 半分は本当のことなのでセーフだ。



「なんか、こうして放課後だけ二人で会って話してるとイケない関係みたいじゃない?」

「あなたは部活動を何だと思っているんだ」



 彼女の反応がおかしくなっていったのは、明確にこの日だったと記憶している。まず最初に気が付いたのは、いつも長机の真ん中にポジションを取っていた彼女が少しずつ僕の方へ近づいていることだった。



「それ、面白い?」

「ユニーク」

「本ばっかり読んでて飽きない?」

「飽きない人間だから文芸部員なんだよ」

「あはっ、それ言えてる。鏡花って、『確かに!』って思わせるの上手だよね」

「それだけが僕の取り柄だからね」



 彼女は、会話が終わったあともその爛々とした目を向けてニヤニヤと僕の顔を見ていた。僕の脳内を巡る感情は、恥ずかしさ50パーセント、疑問45パーセント、嬉しさパーセントといったところだった。



「あたしのこと、好きなんでしょ?」

「好きだよ」

「どこが好きなの? ねぇ、どこが好き?」

「見た目など」

「など(笑)」



 ちょっとした言葉遣いでケラケラと笑ってくれる鯨井が魅力的に見えるのは、僕よりもカーストが上の人間が認めてくれているからなのか、それとも頼ってきた彼女が悩みから遠ざかっていく達成感なのか。そこのところは、自分でもよく分からない。



「クラスでもそんな感じだったら絶対に人気者になるのにね。もっと明るくなったら?」

「それは、例えばダンゴムシがもっと可愛ければメジャーなペットになれるのにってくらい不可逆的な仮説だよ」

「うははっ! でも、そっか。鏡花はダンゴムシかぁ。確かに、暗くてジメジメしてるところに住んでる虫が明るくなれるワケないもんね」

「その通り」

「でも、ダンゴムシが好き人もいるかもよ? マニア的な!」

「ショコタンみたいだ」



 あの人が好きなのはダイオウグソクムシだ、などというツッコミを鯨井に求めるのは流石に酷だったらしい。彼女は、一人で「マニアかぁ」などと自分の発言にヘラヘラと笑ってユラユラ揺れていた。



「ねぇねぇ、ダンゴムシ君はあたしのこと好きなんでしょ?」

「好きだよ、身の程知らずにも」

「もしも付き合ったら、どうやって守ってくれるの? お姫様だっことか出来ないよね?」



 鯨井は、守ってもらいたいタイプだったようだ。



 強い女が好きだとは言ったものの、そういう女子らしい女子らしさという要素の一つや二つは、まるで白シャツのワンポイントチャームのように見どころだと思える。シンプルでありながらの遊び心、これがギャップ萌えの真髄といったところだろう。



「やってやれないこともないさ」

「嘘ばっか、絶対に無理だよ」

「無理じゃないってば。ソファで寝てたら、ベッドに連れて行くことだってきっと出来る」

「じゃあ、やってみせてよ」



 そんなワケで、鯨井は僕に向けて両手を広げてきた。これ、勘違いとかじゃなくて絶対に僕のこと好きだろ。なんて思いつつ。ギャルという生き物は、割と誰とでもハグくらいしていそうだからお姫様だっこは延長線上のスキンシップか? などと考えつつ。しかし、ならば、最近ギャルになった彼女にその法則は当てはまるのか? と悩みつつ。



 彼女の妙に柔らかい脇と膝裏に手を通すと、僕の首に手を回して準備した彼女を持ち上げて思い切り踏ん張った。



「ふぎぎ……っ」

「あはっ! 頼りなっ!」

「い、いや、いけるから。全然大丈夫だから」

「揺れちゃお、ほれほれ〜」

「ぐお……っ! への突っ張りはいらねぇ……っ!」



 二人きりの狭い部室で、自分よりも大きな女子を必至の形相で抱き抱える男子の姿とは、果たして傍から見た時どれほど滑稽に映ることだろう。



「きゃははっ! ほら、もっと頑張らないとあたしのこと守れないよ!?」



 ……あぁ。



 鯨井がギャルになってなければ、少なくともこの時に僕のことが好きだろって思い込めただろう。たった少しの差だけれど、もしもそうだったのなら、僕たちはこんなに拗れた関係にはならなかったかもしれない。



「まぁ、合格にしたげるねっ!」



 その翌日だった。



「文芸部室って、ここですか?」



 鯨井以来、初の女子の訪問者だ。



 彼女は、二年E組の成瀬菜々子なるせななこというらしい。話を聞いてみると、彼女は書道部でパフォーマンス書道なるものをプレーしていて、しかもスタープレイヤーのようだが。最近は納得の行く文字が書けず、しかし同じ部員には褒められるばかりでフラットな意見が聞けなくて困っていると高町先生に相談したようだ。



「なら、実際に見てみようか。僕は何も知らないけど、パフォーマンスっていうくらいだから書くところから競技なんでしょ?」

「うん、ありがとう。ところで、その子は? 文芸部は一人だって聞いてたけど」

「彼女は借りぐらしの鯨井さんだ。あなたと同じ文芸部への相談者で、まだ未解決」

「なら、私はあとでいいよ?」

「いいや、彼女は少し特殊なんだ。先にあなたを解決するよ」



 体育館に行ってバスケ部の練習を、もっと言えば鯨井をフッた先輩の練習をぼんやり眺めていると、袴に着替えた成瀬が巨大な筆を持って現れた。日常生活では見慣れない姿は、筋斗雲に乗って空を飛び回り釈迦の指に文字を書く孫悟空のようだと思った。



 もちろん、彼女の容姿が猿とは程遠い魅力的なモノだったことは注釈しておくがね。



「……鏡花?」



 鯨井、回想に割って入ってくるのはやめてくれ。どっちの時間軸のあなたが喋ってるのか分からなくなる。



「ご、ごめん」



 成瀬のパフォーマンスは、ダイナミックに動いて豪快に線を描く素晴らしい代物だと思った。しかし、やはり彼女は浮かない顔をしている。スランプに陥ったと言うのなら、前と比べて何かが変わってしまったことだけは確かだ。



「成瀬、今撮った動画と見比べるから競技シーンを撮影した映像を貸して欲しい」

「いいけど、他のみんなは全然変わらないって言うから違いが見つかるか分からないよ?」

「構わない。それだけ真剣に取り組んでるんだ、僕も出来ることはする」

「……ふふっ。そっか、ありがとう。鈴木君って、高町先生の言った通り優しいんだね」



 家に帰って何度も成瀬の映像を見比べてみたが、素人目にパフォーマンスや文字の仕上がりのレベルはむしろ上がっているように見えた。しかし、なるほど。道理で、同じ書道のプレイヤーには分からないであろう違いが一つだけ見つかったのだ。



「その違いとは?」

「成瀬が笑ってない」



 翌日。



 僕は、部室へやってきた成瀬にノートパソコンとスマホで動画を再生し状況を説明した。鯨井は、いつもは僕が座っている奥の席でちんまりと三角座りをしながら僕の読みかけの本をパラパラと捲っている。



 テーブルの上に挟んでおいたハズの栞が置いてある。地味に困るイタズラだと思った。



「昨日の成瀬は鬼気迫る表情って感じで近寄り難いだろう? 対して、昔の大会の成瀬は楽しそうに書いてる。僕には芸術ってモノが分からないけど、技術は上達してるのに楽しくないなら煮詰まって周りが見えなくなってるんじゃないかって思ったんだ」

「……本当だ。私、こんなに怖い顔して書いてたんだね」

「他の部員たちも、やっぱりピリピリしながら自分と戦ってるだろうし、書いてる本人に注目出来なかったんだろう。もっと肩の力抜いて、例えば書道を始める切っ掛けになった簡単な習字でもやってみると初心を思い出せるんじゃないか?」



 すると、成瀬は俯いて何かを考えたあと、僕の手を握ってニコリと笑った。



「ありがとう、鈴木君。私、次の大会までにはきっとスランプを抜け出してみせるよ」

「必ず応援に行くよ、頑張れ」

「うんっ! それじゃ、またね!」



 しかし、当然。僕が思い出すべき出来事はこの後に起こることになる。



「……鏡花ぁ」



 成瀬を見送って扉を閉めた瞬間、彼女は僕の背中からチョークスリーパーを仕掛けた。……と思ったが、力加減と腕のポジションを確かめるにこれはただ抱き着いているだけみたいだった。



「なんだよ、照れるからやめてくれ」



 本当はもっとこうしていて欲しい感も否めないけど。



「いつも、あんなふうに人を助けてたの?」

「いつもじゃない、たまに」

「なんで、あたしのこと好きなクセに他の子にあんな優しくするのよぉ」



 それは、いつものからかうような口調とは少し違う、明るい鯨井には似つかない拗ねたような言い草だった。



「僕一人の部活が存続するためだよ。本来、五人以下の部活は同好会になって部費が出ないけど、こうやって相談室化することで特例的に部の存続を認めてもらってる」

「あんなことしたら、助けた女子が鏡花のこと好きになっちゃうじゃんかよぉ」

「何を心配しているのか分からないけど、そんな前例は一度もない」



 いや、僕も一回くらいはそんなイベントが起きてくれていいと思うのだが、悲し過ぎることに本当に一度もないのである。



「というか知ってるだろ。普段の僕の客は男ばっかで成瀬は珍しいケースなんだ。元々、僕と高町先生で性別の役割がなされてるのは鯨井も知ってるだろ」

「気になってたけど、男子の相談ってなにやってんの?」

「読ませる相手がいないから自作小説を読んでほしいとか、英語の発音練習がしたいから話し相手になってほしいとか」

「……入学してから、ずっとそんなことしてたの?」

「去年卒業したカケル先輩の頼みでね、その人の趣味が人助けだったんだ」

「なんで去年卒業した人のことを知ってるの?」

「中学生の頃に助けてもらったことがあるから」



 すると、鯨井は更に腕に力を込めて僕の体を強く抱きしめた。明確に縋るような庇護欲を誘う力だった。



「ダメ」

「……はぁ?」

「人を助けるのは百歩譲って許すけど、あぁいう好きになっちゃいそうなのはダメ。特に女子はダメ」

「あぁいうって、どの部分のことさ」

「全部」



 存外、自分よりも大きな身体を持つ人間に後ろから抱きしめられてみると、心は安心と不安がちょうど1:1で反するようらしい。逆説的に、バックハグが好きだという女子は自分が守られる存在であると確信している傲慢な生物なんだろうと僕は思った。



「それは無理な相談だ。全部やめてしまったら、カケル先輩の意志を終わらせることになる」

「なら、もっと考えればいいでしょ!? 頭いいんだから!!」

「……いや、マジで急にどうしたの?」



 一体、鯨井はどんな表情をして僕を見ているのだろうか。徐々に大きくなる吐息と胸の鼓動が感情の昂ぶりを表しているようで、均衡を保っていた僕の心が少しずつ不安に侵食されているような感覚を覚える。



「もう失敗したくない。そう、そうだよ。先輩の時は、あたしがちゃんと好きだって伝えなかったからフラレちゃったんだもん。あんな辛い思い、もう味わいたくないもん。鏡花を好きになっていいのはあたしだけだもん」



 何やらブツブツ呟いているようだったが、残念ながら、すべて耳元での言葉だったので聞こえてしまっているため誤魔化すことも出来ない。僕は、あまりにも予想していなかった角度から訪れる突然の愛の告白に、身を強張らせて次の展開に備えるしかなかった。



「落ち着いて、とりあえず離れて。これじゃまともに話も出来ない」

「そう、落ち着いてる。うん、あたしは落ち着いてるよ。だって、もう失敗したくないもん。頭が冷えてないとまた嫌な結果を生むことになるかもしれない」



 恐らく自分でもなにを言ってるか分かってないだろうに、どこが落ち着いてるというんだか。



「本当のあたしのことを知ってくれてるのは鏡花だけなの。他のみんなは、あたしがギャルになった本当の理由を知らない。だから頼れないし、きっと好きになることが出来ない。そんな鏡花が他の女子のところに行ってしまうなんて、そんなのは絶対に耐えられない」

「他の誰にも話していないだけでしょ。事情を知れば、同じように相談に乗る男だってたくさんいる」

「いなかったから! 絶対に叶わないって安心できる先輩に恋しようとしたんでしょ!?」



 ……僕の二の腕に食い込んだ彼女の爪を見て、今のは僕の人生で最大級の失言だったと思った。鯨井の過去を知りもしないクセに、なんて言葉を吐いてしまったのだろう。



「あたし、鏡花のこと好きになっちゃった。前に高町先生から話を聞いて、もう一度だけ誰かを信じるなら鏡花かも密かに思ってた。だって、クラスの中でも目立たないけど、本当はずっと花瓶に水をさしたり黒板の文字を消してるって知ってたの。きっと、みんな知ってるんだと思う。そういう雑用は鏡花が勝手にやってくれるモノだって勘違いしてるし、あたしもそう思ってた。だから、誰もお礼なんて言わないで当たり前のように教室で生活して、それなのに鏡花は文句も言わないで――」



 ズレている。

 


「それが、本当の意味で優しいってことなんだって気付いた。だから、誰よりも優しい鏡花のことが好き」



 なぜなら、僕だって教室で授業を受ける一人であるし、僕や鯨井の知らないところで役に立ってる生徒だっているだろう。確かに、僕は他人の機微に気がつくスキルが高く、だからこそカケル先輩に認められてここにいるワケだけど、それだって精々高校生レベルだ。



 そういえば、カケル先輩も褒められるとよく「買いかぶり過ぎだ」なんて言ってたけど、あの人もずっとこんな気持ちだったのだろうか。



 ……なるほど、今なら彼の気持ちがよく分かるよ。



「だから、ね? 不安にさせないで? せっかく相思相愛なんだから、あたしの言うことも少しくらいは聞いてくれていいでしょう?」



 わかった。



 鯨井メグという女子がどういう人間で、どんなコンプレックスを抱えていて、それを認めてもらえることがどれだけ嬉しかったのかよくわかったよ。



 ……ならば、僕がやってあげられることは一つだ。



「なぁ、鯨井。多分、あなたが先輩にフラレた理由って身長のせいじゃないよ」

「……え?」

「重いんだよ、愛が」



 僕は、ふと緩んだ彼女の腕を離して立ち上がると椅子に鯨井を座らせて見下ろした。



「重すぎ。そんなふうに好かれたら、普通の男は疲れちゃうよ。ましてや、先輩はバスケに夢中なんだから別のことでストレスを抱えるのを嫌うのは当然のことだ」

「でも、鏡花は違うでしょ?」

「違わない。僕は本来、一人が好きな人間なんだ。今みたいに重たすぎたら、いつか重荷に感じた時にあっさり離れる。そうやって僕は面倒な人間を遠ざけてきたし、これからもそうやって生きていくつもりだ」



 そこまで説明して、今度は腰を落とし目線を合わせる。



「だから、そうならないように治してあげる。今みたいに、認めてくれたって思う人間に縋らなくて済むように自信をつけさせてあげる。鯨井は決してダメな奴じゃないって思わせてあげるから」



 僕は、僕よりも背の高い女子の頭を撫でた。



「明日からもここへおいで。一緒に頑張ろう」



 こうして、僕と鯨井の関係は始まった。いつもの人助けとは少し違う、きっと彼女の今後の人生を左右するような大仕事が幕を開けたのだ。



 回想終了。

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