第53話 ……
「姉ぇ……!」
私は叫んでいた。
突然の大声に衆目の眼を集めてしまうが構うモノか。
目的であった二人にもこちらへ目線を向けさせられたのだから。
「どういうこと?
姉ぇ、彼氏いたよね?」
っと、私は声をなるべく落ち着けようと音量を努力して抑えながら、しかしズカズカと前に出る。
そして躊躇いを覚える、姉ぇの前に立ち。
――パシンっ!
乾いた音が地下中に響いた。
張られた左頬に手を当てながら、眼を見開いて私を観てくる姉ぇ。
何が起きたのか理解していない、そういいたげである。
解らせる必要があると、怒りの火が灯った。
「さいてー!
また姉ぇは私がやりたいこと、手に入れたいことを後からやってかさらってくの⁈
いつもいつもいつもいつも!」
そう言い放った私は姉ぇの胸倉をつかみ、今度は逆の頬を張ろうと手をあげる。
誠一さんから貰ったうさぎのねいぐるみが床に転がる。
だが、その手は姉ぇを叩けなかった。
「……なんで!」
私の手を抑えた誠一さんに声を向ける。
その顔は悲しそうだった。
その表情の意味することが理解できず、やりきれない気持ち、何をどう向ければ判らない声色で誠一さんに叫びをあげる。
「誠一さん、この姉ぇは彼氏がいるんです!
貴方とは別で、二股をしているんです!
士道さんという方で、マジメそうなメガネの方です!」
「……これは君の為にならない」
「庇わないでください、この女は最低な事をしたんです!
彼氏が居るにもかかわらず、人の恋路を奪おうとしている!
そしてあなたに対しても裏切りの行為をしている!」
嗚咽で言葉が続かなくなる。
グチャグチャになった感情が私を突き動かす。
「高校の試験の時もそうだ!
私が志望したのを観て、自分もと、そして奪った!
いつもいつもいつも!」
「そうじゃない」
ポツリと呟いた彼の表情、それはとても申し訳なさそうな顔をしていた。
悲しそうな、それでいて苦しそうな顔をしていた。
「……これは俺が謝るべきだ。
初音、いいな」
「……っ」
強い口調の誠一さんの言葉に姉ぇが唇を噛んだ。
「士道・誠一、これが僕のフルネームだ」
そして彼の背が不意に小さくなった。
「申し訳ない」
「へ……?」
縮みこんだ彼の姿は見事な土下座だった。
経験したことのない場面に遭遇し、唖然にとられてしまう。
そして水をぶちまけられたかのように私の頭は冷静になり、今、与えられた名前を咀嚼していく。
「士道……しどう……しどー君……?
つまり、姉ぇの彼氏さん……?」
理解できない。
いや、したくない。
だが、彼がカバンから取り出した眼鏡は見たことが有る物で、
「そうだ」
「あ、あ……」
あるべき所に添えられ、土下座から見上げてくると見たことある顔がそこにあった。
「しどーさん……?」
髪型こそ違えど、間違いなく、しどーさんだ。
様々な点と点が繋がってしまう。
姉ぇが彼の下のサイズが大きいことを知っていたこと、そして誠一さんの彼女公認であったこと。
「つまり……姉ぇの彼氏に横恋慕しようとしたのは私……?」
目の前が真っ暗になる感覚。
「最低なのは私だった……?」
怒りを覚えた理由は、姉ぇが初恋相手を私から奪いとろうとしたからだ。
ただ、真実は逆だった。
私が姉ぇから彼氏を奪い取ろうとしていた。
今、感情のまま姉ぇに向けた言葉が、ブーメランのように突き刺さってくる。
「え……あ……」
現実から逃げ場を求めた私は姉ぇを観る。
その顔は私が見たことのない顔だった。
いつも、自信満々のキラキラで、前向き行動的。
黒い性格が出ることもあるけど、こんな……こんな……。
「……別にいいわよ。
横恋慕ぐらい……。
私は妹が大切だし、私はビッチだし……それに」
そう悲し気に、幽霊のように存在感がない姿は初めてだった。
姉ぇを叩いた手を観る。
赤くなっており、痺れが残っている。
まるでそれは心を痺れさせるように、頭を混乱させてくる。
「言い訳はしないわよ……。
まだあんたが殴りたいなら殴ればいいわ。
知っていて、黙っていたのは確かだし」
「初音、それは……!」
「いいの、私の我儘だもの、付き合わせてごめんね。
しどー君。
こんな私じゃ彼女失格よね、うん」
っと、私を観る、私に似た姉の顔。
「しどー君……妹にとっては誠一君か。
彼には罪が無いの。
それだけは判ってあげて?
嫌いにならないであげて?」
姉の顔は真剣だった。
私はそれを受けきれず顔を背けてしまう。
私が悪いのに、何でそんな悲しげな表情をしてくるのだろうか。
「……誠一さん、姉ぇは何でこんなことをしたの?」
その姉ぇには聞かない。
気持ちだけが先行してしまいそうだからだ。
受験の合格発表の日から、何か月も冷静になれなかった私だ。
それが私自身に向いても、姉ぇに向いても誰かが不幸になる気がする。パパママは間違いなく不幸にしてしまう。
「これは言い訳だ。
君の初恋を壊したくないからと、初音と共謀して正体を明かさなかった。
君が性欲に依存する傾向を見せたと聞いた際、それを治すべきだと同意した。
軽挙に出ないように順々に手順を追って、良い思い出にするつもりだったからだ。
騙していた、いや、黙っていたのは確かだ」
「……ぇっと」
「初音は君が自暴自棄になることをもっとも危惧していたんだ。
自身が成ったようにな。
僕も初音の暴走は知っていて、危ないところで取り戻せた。
それと同じ事態を手の届く範囲なのに見過ごしたくなかったんだ」
感情のやり場が無くなる。
姉ぇも誠一さんも善意だ。
私の感情がぐちゃぐちゃになる。自身に怒っていいのか、悲しいのか、良く判らないのだ。
「姉ぇ……、一つ聞きたい」
「どうぞ」
「私をからかうつもりはなかったんだよね?」
「無いわよ」
そして、呼吸を整えて呟くように言ってくる。
「学校の件だって、妹と同じ学校行きたかっただけだし……陸上の件だって、一緒にいたかっただけだし」
「はぁ……」
ぬいぐるみを拾いながら、どうしてくれようか悩む。
怒りは完全に否定したし、発作も完全に収まった。これは姉ぇに対しては当然で、自身に対してもだ。
私が悪いことも理解している。
姉ぇにも基本的に悪意のないことは判っていたはずなのに、はぁ……。
とはいえ、感謝は沸かない。
ただただ、真実を理解したのが今だ。
「とりあえず、移動しようか、人が見てるし」
そう言い、人だかりをかき分けるように私は、誠一さんと姉ぇの手を引っ張った。
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