アイリスの館にて、あなたの帰りは待ちません
翠雨
第1話 秘密の花
列なる山脈と深い森、穏やかな海に囲まれたレピオス王国は、神の治める国。レピオス王国の平和は、
国王様は
『
お触れが出されると、国民の関心は王子様とその花嫁に集まった。
「王子様って、どんな方かしら?」
「花嫁が、
「花嫁に選ばれたって、どうすればわかるのかしら?」
「心配しなくても、おまえみたいな田舎娘、選ばれねぇ~よ!」
「失礼な! わからないじゃない、そんなの」
「花嫁に選ばれるのって、美味しそうな娘って本当かしら?」
「あれだろ? 神様の生け贄になるとかって」
「嫌だわ、絶対に選ばれたくないわ」
「花嫁って、何人選ばれるんだろうな?」
「一人じゃないのか?」
「前の王子は、次々にご結婚されなかったか?」
「そうだったかな~」
様々な噂、憶測まで飛び交い、小さな不安は、大きな期待に搔き消される。
紙をめくる乾いた音に、判を押す音が続く。窓から差し込む西日が役所の奥まで届き、顔を上げたコーデリアは目を細めた。開け放たれている、扉の向こう。大通りを行く人々は、仕事終わりに飲みに行く相談でもしているのだろうか。疲れのにじむ顔を綻ばせる。
役所のなかは、山積みの仕事に、陰鬱とした雰囲気が漂いはじめていた。
「これ、終わりました」
「こっち、手伝ってもらえますか?」
叩きつけるように置かれた書類の束を受けとる。連日の残業で、不平不満もたまっていた。コーデリアはジャケットの襟を正すと、机に向かい書類を捲りはじめた。
ここのところ、結婚の申請が殺到している。
しばらく婚姻を控えていた反動なのだ。
風説によると、妃に選ばれる条件は、年頃の娘ということのみ。それならば、王子様の妻になれると夢見ることもあるだろう。男性の方も、
それぞれの理由で結婚に踏み切れなかった恋人たちが、
朝から申請に訪れる恋人たちの書類を受領し、不備がないか確認して、住民台帳を書き換えるのは、人手のいる作業だ。
受け取った住民台帳をめくっていると、「こっち、終わりました」と穏やかな声が聞こえた。
同じ部署のヒューゴ先輩だ。
仕事の多さに、イライラとしている役人もいるなか、いつも柔和な笑みを湛えている。仕事もできるので、素早く自分の仕事を終わらせ、嫌な顔一つせずに手伝ってくれる。顔立ちも整っていて、恋人の座を狙っている女性は多い。コーデリアも何人か知っていた。
住民台帳の該当箇所に記入すると、大きく息を吐いた。
思った以上に順調。
これならば、久しぶりに定時に終われそうだと、胸を撫で下ろす。
ガーン、ゴーン・・・
「間に合った~!!」
夕刻の鐘が鳴りはじめるのと同時に、一組の男女が飛び込んできた。
役所のどこかで、ため息が漏れた。
この場は、まだ新人であるコーデリアが対応するべき。疲れている先輩方に、押し付けるような真似はできない。
「私が対応します」
立ち上がると、「皆さんは帰ってくださいね」と、そんな気持ちを込めて微笑む。
コーデリアは男女をカウンターに座らせて、自分もその向かいに座った。
「どうされましたか?」
男の方が、コーデリアをじっと見つめている。
「どうされましたか?」
「いや、あの、その、俺たち、結婚、するんだ……」
歯切れの悪さに、コーデリアは二人を見比べた。男性は、役所の中を見回していたかと思うと、肘をついてその上に顎を乗せ、足を小刻みに動かしはじめた。女性の方は、呆然としていて、心ここにあらずといった様子だ。普段を知らないので断言はできないが、顔色も悪いように感じる。
「俺たち、十日くらい前に出会ったんだけど、趣味があって、意気投合してしまって。こんなに気の合う人は、もう現れないだろうから、結婚しようって話になったんだ。二人で幸せな家庭を築いて、子供は三人くらい欲しいかなって、わははは。まだ、早いな」
十日くらい前ということは、王都が人でごった返していたころだ。王子様の成人の儀が行われ、王宮前広場では、王子様の御披露目もされた。王都は連日祭りのような騒ぎで、王子様を一目見ようと集まった人々は、王宮の前を埋めつくした。運良く王子様を見ることができた同僚は、大変見目麗しい素敵な方だったと頬を赤くして報告してくれた。
「やっぱり、子供は一人がいいかな。色々な習い事をさせて、大事に育てるんだ」
コーデリアが思考の海に沈んでいるあいだも、男性は将来設計をしゃべり続けている。
その間、女性の方を一度も見ない。彼女も、一度も同意を示さなかった。
なにか、おかしい。
コーデリアは、ともするとお節介にもなる世話焼きを発揮する。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、ちょっと緊張しているのかな?」
女性に向かって話しかけたのに、答えたのは男性の方。
申請用紙を取り出して、ペンと共に男性の前に置く。
「では、こちらにご記入していただきたいのですが、代筆も可能です。どうされますか?」
「あっ、えっと。君が書いてくれ」
女性の方へ、用紙を渡した。
「では、その間に身分証を確認させていただいてもよろしいですか?」
「あっ、身分証……。どこだったかな?」
腰から下げている袋の中を、覗き込むようにして探している。
「紛失されているのでしたら、再発行をしていただかないと、結婚の申請は受け付けられません」
身分証は、税金を納めているという証拠でもある。
「あぁ、あった。あった」
男が取り出した身分証は、見慣れないデザインをしている。王領のものではない。
「ファーレン領から、いらっしゃったのですね。王都で生活するのでしたら、転居の手続きも一緒にお願いします」
女性の方は、見慣れない身分証に目を丸くして固まっている。ペンは握っているものの、申請用紙は白紙のまま。
ファーレン領とは、王領から海沿いに東へ行ったところにある。馬車なら順調に行って五日、天気に恵まれれば船のほうが早く到着するだろうか。
そんな遠くから王都まできて、気の合う女性と出会ったとはいえ、十日で結婚まで踏み切るだろうか。
「転居の、手続き…………? って?」
男の顔がひきつった。
「ファーレン領へご自身で申請するほうが早いと思います。郵送でもできますよ。時間はかかりますが、私どもが代行することもできます」
「いかがいたしましょう」という気持ちを込めて微笑めば、男は青い顔に冷や汗をかいていた。
「まさか、ファーレン領に連絡されては不味いことでも?? 犯罪絡みでしょうか? それとも税金の滞納・・」
「あぁあああぁ~。何でもありません!! 失礼します!!」
男は、バンと机を叩いたかと思うと、女性を置いて一人、逃げるように出ていってしまった。彼女の方は、その様子を呆然と見送っている。
「お手柄だね」
いつのまにか、背後に立っていたヒューゴ先輩が、コーデリアの肩に手を置く。
後ろを振り返ると、部長とヒューゴ先輩以外の姿がなかった。他の先輩方は、無事に仕事を終わらせられたらしい。
「どこかにメモを取りたいのですが」
身分証を見て覚えた、男の名前と住所を書き取る。
「おっ! 覚えているなんて、さすがだね。警備部に報告しておこう。・・ところで、彼女は、これからどうするのかな?」
一人取り残された女性へと視線を送る。彼女は、ギクシャクと動き出すと、困惑を口にした。
「あの、私、騙されたんでしょうか?」
男には、「自分は地主の息子で、もうすぐ家の事業を継ぐことになる。忙しくなるから、君のような素敵な女性に支えてもらいたい」と、結婚を申し込まれたようだ。
「先ほどの様子では、嘘であった可能性が高いのかと」
そして、結婚を申請するために身分証が必要なことを、知らなかったのではないかと。
「彼に自宅を教えてしまいましたか? もし、一人暮らしでしたら、しばらくは警戒することをお勧めしますよ」
優しく微笑むヒューゴ先輩に、目を奪われていたようだったが、小さな声で「気を付けます」と呟いた。
しばらく実家で暮らすことにするというので、警備部まで送っていき、実家に帰るまでの警備を頼んだ。ついでに男の情報も報告しておいたので、対応してくれるだろう。
「遅くまで、お疲れ様だね」
「ヒューゴ先輩も、遅くまでありがとうございました」
コーデリアは、小さく頭を下げる。
「ここらへんは治安がいいとはいえ、コーデリアさん一人に警護対象を送らせるわけにはいかないからね。せっかくだし、どうだろう? 久しぶりにディナーでも」
ヒューゴ先輩は、入所当時からよく食事に誘ってくれた。しかし、ここ数日、コーデリアのほうが避けていた。
一緒にいる時間が楽しいと、悲しくなるから。
「あの、いえ、その、ちょっと、用事がありまして……」
「用事?? こんな遅い時間からかい?」
訝しそうに、目を細めた。
すっかり日は暮れ、商店は店じまいをはじめている。賑やかなのは、酒場くらいだ。
我ながら、下手な嘘だと思いながらも、
「ちょっと、用事がありまして……。すみません。失礼します!!」
それだけ言い残すと、小走りで走り去った。
こうなっては、大好きな惣菜の店にも寄ることもできない。
あぁ~。パンくらい、家にあったかしらぁぁ!!
心の中で絶叫する。
角を曲がり少しだけ落ち着きを取り戻したが、一度も振り返ることなく家までたどり着いた。
玄関に入り内側から鍵をかけると、大きく息をはく。
逃げてしまうなんて、変に思われたのではないかと、心配になった。
しかし、先輩にとっても、よくないはずだ。後輩として誘ってくれているだけとはいえ、コーデリアといれば周りには誤解される。迷惑をかけてはいけない。先輩には、幸せになってもらいたい。
テーブルの上には乾燥して固くなったパン。保存容器の中にはチーズが一欠片残っていた。
「昨日の私ってば、ナイス~!!」
小さな鍋にカットしたトマトと千切ったパンをいれる。その上から昨日のチーズを擦ったら、ハーブを散らす。
「こんなもんか」
残りもので作ったにしては、上出来だろう。
「本当は、冷たいレモネードでも、欲しかったんだけどなぁ~。仕方ない。・・・・それにしても疲れた~!!」
愚痴をこぼしつつ、トマトのパン粥をお腹におさめる。
「最後にきた男って、結婚詐偽だったのかしら? 養ってもらう気満々だったとか?」
首をかしげながら、食器を片付けた。
沸かしたお湯で体を清めようと、ブラウスのボタンをはずしていく。スカートのホックを外して、床に落とした。
白くほっそりとした太ももの、内側。くっきりと黒い模様が浮かび上がっている。
とぐろを巻いて鎌首をもたげ、正面を向いた蛇の紋様。鱗までわかるくらい精巧な蛇だ。王子様の成人の儀が行われた、その日に現れた。
蛇の紋様をそっと撫でる。
「普通に結婚して、普通に子育てして、普通におばあちゃんになりたかっただけなんだけどなぁ」
仕舞わずに壁にかけられたライムグリーンのワンピース。
コーデリアの持っている服のなかでは、唯一の明るい色。性格のためか、お堅い職業のためか、落ち着いた色の洋服ばかり買ってしまう。そんなコーデリアが、勇気を出して買った一着だった。
大好きな人に、想いを伝えるため。
先輩が、「明るい色も、似合いそうだね」と言ったから。
父と母のように穏やかな家庭を築くことが夢だった。
大好きな人を見つけられたら、そして、結ばれたら。結婚しても役人として働いていたいけれど、それが叶わないなら自宅で小さなお菓子屋をやるのもいい。そのために初めての給金でレシピの本も買った。たまに開いて眺めるのが楽しみだったのだが、
コーデリアは、王子様の妃になりたかったわけではない。なぜ
実際、現国王の息子である王太子様は、四人の妃がいる。役人採用試験のための勉強の際に知ったことだから、間違いない。
私ではない、
大変見目麗しい王子様だが、暴君だという噂もきいた。
怖い……。
怖い…………。
何よりも、他人に自分の人生が左右されてしまうことが、怖かった。
自分の意思で生きられないのなら、それは……生きているといえるのかしら……。
この状況から、なんとしても抗いたかった……。
役所のなかは、
「そういえば、この前の男。あの、転居の手続きの話をしたら逃げていった男。・・・・他の区で同じことをして、捕まったらしいよ。ファーレン領で税金を滞納していたらしい。ひと安心だね」
コーデリアの隣まで来て、眉間にシワを寄せ、「けしからん」と報告してくれた。
やっぱり、税金を滞納していたんだ……。逃げるんじゃなくて、住民部に相談すればよかったのに……。
「じゃあ、現場、確認してきますね。・・ぅわぁ~!! どうしたんですか?」
ヒューゴ先輩の声が、驚きに変わる。
その声に顔を上げれば、ぞろぞろとエバーグリーンのジャケットを着た集団が入ってくるところだった。政府機関の役人だ。
慌てた部長が、「今日はどうされましたか?」と対応をはじめる。
コーデリアは、膝が震えて背中に汗がつたった。
「
政府機関の役人が、窓口を開設しているのは知っている。その近くを、なるべく通らないようにしていた。
「つきましては、住民部の皆さんが、
役所の入り口から、垂れ幕が運び込まれようとしている。あの中で、女性の役人に調べられるということだろうか。
コーデリアは、音を立てないように、細心の注意を払って席を立った。膝が震えて、棚にぶつかりそうになる。血の気が引いて、顔がひきつった。
お願い。誰も気がつかないで!!
後ろを振り返ると垂れ幕が入り口に引っ掛かってうまく入れられないようだ。ガンっとドアにぶつかり、大きな音がなった。そちらに視線が集中しているあいだに、ゆっくりと、役所の奥に移動していく。
裏口の扉の近くまでたどり着いた。
「それでは、ご協力お願いします」
近くにいる女性から誘導し始める。説明のために、政府機関の役人が背を向けた瞬間に、扉を開けて裏口に身体を滑り込ませる。
音を鳴らしてはいけない。扉を閉める音が鳴り響いたら、見つかってしまう。
ノブをつかんだまま身体を反転し、音が鳴らないように慎重に閉める。その瞬間、振り返った先輩と目があった気がした。
※ この世界での法律です。
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