アレルゲン

酒呑み

アレルゲン

 同居人 兼 親友が倒れたと聞いて、大須田 徹(おおすだ とおる)はアルバイト先のコンビニから大急ぎで駆けつけた。

 病室のドアを勢いよく開くと、

「やっほー、徹」

 へらへらとした笑みに出迎えられ、頭に血が上りそうになるのを必死で抑え込む。

「わかってただろうが」

 語気が荒くなるのも、やむ無しといったところか。 

「ほんの少しでも駄目だってわかっていたくせに、何で口に入れたんだよ」

 徹が本気で怒っていることに気づいたのだろう。親友は気まずそうに青い目を逸らすと、細い指先でいたずらに長い髪を弄んだ。 

「あの、すみません」

 ベッドに横たわる親友の傍らに座っていた女が、おずおずと口を開く。その口臭に、徹は思わず身を仰け反らせた。

「私が与えてしまったんです。本当に申し訳ありませんでした」 

 丁寧に頭を下げる女は、小綺麗なスーツに身を包み、髪の毛をぎゅっとひとつに結んでいる。ヒールの低いパンプスに飾り気のない眼鏡。

 勤勉実直を絵に描いたような外見だ。 

 こんな女性が、何故?

 いや、しかし、彼女が喋る度に漂ってくるこの臭いは。

「いえ、貴方は悪くありません」 

 口臭から逃れるように距離を取りつつ、徹はそれでも紳士的な態度を崩さない。 

 目付きの悪い大柄な男なんて、ただでさえ心証が悪いに決まっている。

「アレルギーは、当人が一番気をつけなければならないんです。知っていて口にしたこいつが悪い」

 徹が横目でベッドの方を睨むと、金髪の親友は不貞腐れたように向こうを向いた。

 青白い腕に点滴の管が繋がっている。

「おいクレイヴ、お前アレルギーのこと言ってなかっただろ。迷惑かけたんだから、ちゃんとこの人に謝れ」

 徹に叱られ、徹の親友…クレイヴ・パーカーはのろのろと身を起こした。

 起き上がれる、ということは、然程重症でもなかったらしい。徹は内心安堵したものの、顔には出さないようにした。

「すみませんでした」

 明らかに嫌々ではあったものの、謝らないよりはまだ良いだろう。

 眼鏡の女は、社会人らしい落ち着いた笑みを浮かべながら首筋を掻いた。

「いえいえ。無事で良かったです」

 本当に、どうしてこんな女性がクレイヴのようなだらしの無い男と一緒だったのか。

「失礼ですが、クレイヴとは何処で、その」

「マッチングアプリです」

 徹の質問に答えた後で、女は思い出したように付け加えた。

「顔の傷は、加工アプリで消してありました」

 クレイヴの端正だった顔は、引き攣った薄紅色の傷痕でずたずたにされている。

 昔ホストをしていた頃、客を盗られたと勘違いした先輩ホストにナイフで斬り付けられたのだ。

「あの、本当に気にしていませんから」

 女が、恐縮したように言った。緊張しているのか、しきりと首筋を掻いている。

「クレイヴさんには、お食事代も全て出していただきましたし…お尋ねしたところ、まだ二十歳になったばかりと仰いますし…」

 この野郎。

 徹が再びクレイヴを睨むと、クレイヴは今しがた急に具合が悪くなったような顔をして布団に潜り込んだ。

 クレイヴが若く見えるのは認める。だが、こいつは徹よりも年上だ。

 その上徹が渡したスマートフォンでマッチングアプリに登録し、徹がやった小遣いで女に奢り、挙げ句アレルゲンを口にしてアルバイト中の徹を病院まで駆けつけさせたわけか。

 全く、せっかく時給の良い深夜枠で採用されたというのに。 

「大丈夫だと思ったんだよ」

 病室の白い布団の中から、クレイヴが一冊の本を取り出した。

「プラスマイナスどころか、モザイクやキメラまで網羅しているやつだったし」

 表紙に書かれた『占い』の文字を見て、徹は大きく溜息をついた。

「占いってお前…科学的根拠、って言葉、知ってるか?」

「でもさ、ほら。このページ見てくれよ」

 クレイヴが開いたページの文字を目で追ううちに、徹はどんどん憂鬱な気持ちになっていった。 


 変わり者。

 世間からずれている。

 社会に馴染めない。


 あまり、というか、全く有り難くない言葉ばかりが並んでいる。

「要は社会不適合者、って意味だろ。徹にぴったり当てはまってるじゃん」

 確かに、26歳のフリーターは世間的に負け組なのかもしれない。

 だが、クレイヴにアレルゲンを与えたこの女性は。いかにも真面目そうな、きちんとした企業の社員にしか見えな女性は。


「その女だって、似たようなもんさ」


 クレイヴが鼻で笑って、眼鏡の女を見やった。女は口を噤んだまま、がりがりと首筋を掻き続けている。皮膚は赤くなり、細い引っかき傷には血が滲んでいる。


「気に入らない部下や後輩をいじめ抜いて、今は会社をクビになって無職だって。あんた、酔っ払って話してくれただろ」

 

 クレイヴの言葉に、女はひゅうっと息を飲んだ。目は見開かれ、顔色ほ真っ青だ。首筋に爪を立てる、がりがりという音が大きくなる。爪が皮膚を破り、流れ出した血がスーツの襟を染める。

「おい、あんた…」 

 徹が声を掛けるのも聞かずに、女はバッグを掴んで病室を飛び出して行った。


「どうしました? 大丈夫ですか?」

 廊下で看護師の声がする。徹も女を追いかけたが、目に飛び込んで来たのは赤い血溜まりだった。

「痒い、痒い、かゆい痒いかゆいかゆい…!!」

 眼鏡の女はうずくまったまま、両手の爪で首筋を掻き毟っていた。指先が肉に食い込んでいる。ぼとぼとと滴っていた血が、やがて噴水のように吹き出した。

「誰か! 先生、先生を呼んで!」

 どうにか女を拘束しようと奮闘する看護師の叫びを聞いて、医者が白衣をはためかせながら走って来る。

 徹はそっと病室に戻ると、後ろ手に戸を閉めて言った。

「お前、あれって」

「あれも一種のアレルギーだよ」

 クレイヴがいたずらっぽく笑った。赤い舌の上で、真っ白い尖った牙がきらりと光る。

「ニンニクを食べた直後に噛まれると、人間はあんな風になる。唾液に反応するのかな。俺には何の影響もないのに、不思議だよね」

 なるほど。

 あの女の口臭の理由がわかった。

「そもそもさ、スペインバルに行きたい、って言われた時点でげんなりだったよ。アヒージョなんてニンニクのてんこ盛りだし」

 金色の長髪をかき上げて、クレイヴは嫌そうに右手を振った。徹が呆れたように眉をひそめる。

「お前、ニンニクも駄目だろ」

「自分で食べなきゃ平気。臭いだけでゲロ吐きそうになったけど」

 クレイヴが口にできるのは液体だけだ。固形物を食べられる体ではないことを思えば、食の楽しみが減ってしまったのは確かに気の毒である。

「赤ワイン好き、って決めつけるのも偏見だよな。俺、ワインよりチューハイ好きだし」

 軽口を叩くクレイヴの横で、徹はぱらぱらと本のページを捲った。

 日本中の偏見と思い込みを詰め込んだような、医学的な根拠が何も無い空虚な内容だった。

「Оが駄目、ってだけで大分詰んでるのにさ、純粋なAもBも駄目、よくいる方のABも駄目とか。もう、どうしろって話だよ」

 クレイヴを斬り付けたナイフは、純銀だった。クレイヴの仲間たちは、先天的に銀に対する強いアレルギーを持っている。

「命が助かっただけでも奇跡だったんだ」

 徹は、クレイヴの顔に残る酷い傷痕を見つめた。

「くだらない占いの本なんか信じて、死にかけてんじゃねーよ」

 銀アレルギーは、傷痕以外にも厄介な置き土産を残して行った。

 後天的な食物アレルギーだ。

「腹減ってねーか? ほら」

 徹がシャツをずらして、首筋を露わにする。クレイヴは青い目をきらりと光らせると、


「いただきます」


 脈打つ血管に深々と牙を突き立てた。


 AB、Rhマイナス。

 クレイヴが唯一接種できる、貴重な栄養素。

 

「飯なら、俺が好きなだけ提供してやる」

「好きなだけ、は無理だろ。徹が貧血で死んだら困るし」


 きっと、クレイヴなりの気遣いだったのだろうと徹は思う。

 徹と同じ型の人間を見つければ、徹の負担を減らせると考えたのだろう。 

「徹が、俺をこんなにした先輩のこと、ぶん殴ってくれた時さ。実は結構嬉しかったんだ」

「おかげで、黒服のバイトはクビになったけどな」

 人間の社会では、全く必要とされない徹でも。クレイヴの生きる糧になっているのだと思えば、死なない為の言い訳になる。

 クレイヴが女でなくて良かった。

 恋愛は、どろどろとしたものになりやすい。友情ならば、爽やかだ。

「あの女、ABでもマイナスでもなかったんだろ。結局何だったんだ?」

 徹の問いに、クレイヴは血管に吸い付いたままの姿勢で本を捲った。


 A。

 生真面目。

 ルールを守る。

 協調性がある。


「全然当たってないじゃねーか!」


 勢い良く本を閉じると、病室の鈍い明かりが表紙を照らした。


『血液型占い 完全版』


 クレイヴが退院したら、この本は古本屋にでも売ってしまおう。

 そう心に誓いながら、徹は血を吸われるくすぐったい感覚に身を委ねた。


 

 


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アレルゲン 酒呑み @nihonbungaku

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