吸血者探偵・羽賀野なつ

青冬夏

羽賀野なつ

 一

 

 ある日の昼下がり。都内のコンクリートで作られた灰色の五階建てのビルが日光を跳ね返している中、羽賀野なつは最上階に居た。至って普通の内装で、ただ静かに彼女は背もたれに寄りかかりながら革製の椅子に座っていた。

 羽賀野なつの座席からそう遠くない位置に座っていた──女性らしい蒼白な化粧っ気のある肌とキリッとした目つきの男性が自分の上司に目を向けた。その上司──化粧っ気のない肌と、クールな見た目をした羽賀野なつはきょとんとした目つきで波岩奈里人を見た。

 「どうした?」

 「……いや」

 「なんか言ってみれば?」

 「なんかって?」

 「ほら……なんか言いたげそうな顔」

 と言い、羽賀野なつは顎をしゃくった。

 「言いたげそうなって──まあ、色々と言いたいことはあるんだけど」

 「ほう……例えば?」

 「……事務所を開いて二年も経過するのに、どうして誰も入ってこないんですか」

 そう問われると、なつは「ほうほう……興味深い」と顎をなで始めた。

 少しの間沈黙が走る中、彼女は「あそっか!」と声を上げた。

 「きっと場所が悪いんだ!」

 「違う!」

 波岩はなつの言葉に食い入るようにして声を上げ、これまでのこと──事務所に誰一人として客が入ってこない原因をつくった過去を脳裏に思い浮かべた。

 ──今思えば、二年もの間に解決した出来事は全て……羽賀野が個人的に首を突っ込んで解決した事件ばかりだった。ばかり……というより『しか』の間違いだけど。

 ある時は偶々乗り合わせたタクシーで拉致事件が起きて、その事件を解決したり──またある時は、偶々乗り合わせた電車内で毒物による殺人が起きて、その事件の犯人を見事突き止めたり──、そんな感じで、自ら首を突っ込むというより偶々そこに居合わせた結果、事件が起き、そして犯人を見事突き止めることが出来る──そんな感じの過去が波岩の記憶に残っていた。

 「事務所の宣伝をしないからじゃないですか? だから人が来ない」

 今までの記憶をなつに伝えた上、波岩は早口で捲し立てる。そんな様子を見たなつは歯痒い表情になりながらも「……そ、それは……」と答えた。

 「こ、怖いから……」

 「え?」

 「だって、怖いんだもん‼」

 ──何が怖いんだよ。

 内心悪態をつきながら、波岩は色白な額に手を当てる。

 すると──波岩の傍から鈴の音が部屋中に響く。その音に二人は扉の方向──尤も、波岩はすぐ隣を見ただけだが──に視線を向くと、そこには凜々しい顔立ちをした女性がそこに立っていた。耳にはイヤリングをしており、髪型が整っていることから清潔な印象を彼らに与えた。

 「……ここ、羽賀野なつさんの探偵事務所で間違いないですか」

 女性は静かな声で呟いた。

 

 

 「それで、依頼は?」

 となつ。中央のソファで背もたれに寄りかかりながら女性を見つめる。なつの目の前にいる彼女は少し咳払いをした後に話し出した。

 「簡単に言うと……私の兄を調べて貰いたいんです」

 「兄……失踪ですか?」

 横から波岩が挟むと、女性は「ええ」と頷いた。

 「失踪──ということは、貴女と兄の間に何かしらのきっかけがあったんです?」

 「いいえ」女性は首を横に振った。「私と兄──隆司とは何も問題は無いんです。ただ……ただ、最近兄に異常な行動が見られたんです」

 「ほお」

 興味ありげになつは前のめりで聞く体制に入るが、目の前にいる女性は何やらモジモジし始めた。その異変に気づいた波岩は「どうされました?」と声をかけた。

 「……ああ、いいえ」

 「何か言いたくないことでも……あるんです?」

 波岩はそう言い、続けて女性に語りかけた。

 「大丈夫です。本来人に言いたくないことでも、僕たち二人は守秘義務がありますので──どうぞ遠慮無く言って下さい」

 「はあ」女性は躊躇いがちに吐息を吐いた。

 少し時間が経過した後、女性は「あれは──」と細い喉から声を出した。

 「仕事が夜遅くに終わって家に帰ってきたことなんです。帰りは夜遅くになりそうだから先に寝ててって先に連絡してたんですけど、帰宅した時兄の様子が変だったんです。なんかこう……誰かを待ちわびるかのように」

 「でもそれって……普通にあることなんじゃ……」

 と波岩が言いかけるが、女性は「いいえ」ときっぱりと放った。

 「私のこい……兄は誰かに弱々しい態度を見せるような人じゃありません。きっと……きっと何かに冒されている決まっているんです」

 女性は強い口調で言い、波岩を鋭く睨み付ける。そんな様子をなつはただじっと見つめたまあ、「その後は?」と続きを促した。

 「その後……突如、兄は私の首に歯を立てて噛んできたんです」

 「……噛んで?」

 「はい」

 怪訝そうに波岩が疑問に思っていると、なつは「なるほどな」と女性の傍に移動しながら口に出す。女性は傍に座ってくるなつをきょとんとしながら見る。なつの網膜によく通った鼻筋とクリッとした目つきが映った。

 「なんでしょう」

 女性は首を傾げた。

 暫くなつは女性を見つめた後、今度は女性の白くて細い腕を優しく包んだ。その動作を──ただ波岩はジッと見ていた。

 

 「……えっ?」

 

 女性が声に出した瞬間、なつは彼女の手首に歯を立てて噛みつく。その様子を間近で──かつ自分の腕が今まさに噛まれているところを見て、女性は少し嫌そうな感情を表に出す。

 「ご安心下さい」

 女性は言葉の主──波岩に目を向けた。

 「僕の上司──羽賀野なつは探偵でもあり……吸血鬼でもあるのです」

 「吸血鬼?」

 「ええ。そして──彼女は相手の血液を通して過去を垣間見ることが出来るのです」

 まるで紳士のような口調で波岩が話すと、女性は「……そ、そうなんですね」と困惑そうに言葉を出した。

 波岩と女性の会話が終わった途端、なつは女性の腕から口元を離す。一度女性を一瞥した後、彼女はこう言葉を発した。

 「貴女……何か嘘をついてますよね?」

 

 

 「嘘……って?」

 震えた唇で女性は話すと、なつは唇を拭いながら「貴女の兄って恋人のことですよね。しかも──」と話す。続けて、

 「しかも、その相手は話を聞いている限り吸血病に冒されている人であり……狩人にも追われている身でもある」

 「……狩人?」

 波岩が少し首を傾げると、「なんだ、知らないのか?」となつは挑発的に波岩を見た。

 

 ──ムカつくな。

 

 そんな悪態を波岩は内心仕舞う。「そんな波岩の為に解説してあげよう」となつはコホンと空咳をした。

 「狩人とは、吸血病に冒された患者たちを次々に隔離施設へ移送していく人々のことであり、正しくは隔離施設職員なのだが……まあ、彼らが少し厄介なんだよ」

 「厄介?」

 「そうだ。彼らは吸血病患者を人として診ていないことが多く……結果、移送中に亡くなったり、移送された先の隔離施設で亡くなったりすることが多々あるんだ。恐らく、彼らによる虐待が原因でな」

 苦々しい表情になりながら語るなつを波岩は見た後、再度女性の方へ視線を向けた。

 「それで……なんで彼らは狩人って呼ばれているんですか?」

 「え、貴女も知らないのか」

 

 ──少しは配慮をしろよ。

 

 と波岩はなつに対しまた悪態をついていると、彼女は「狩人と呼ばれている理由はだな……」と話し続けた。

 「先に言った通り、彼らは移送中や施設内で吸血病患者たちを虐げているんだ。人間ではない、此の世のものの存在ではない何かを見つめる拍子で虐げる。そして、患者は亡くなっていく。そのことから彼らは狩人と呼ばれているんだ。……それに、もう一つ呼ばれる理由があって」

 「もう一つ?」と女性。

 「ああ。彼らは患者を輸送する時にある物を首に打つんだ」

 「あるもの……あ、薬のこと?」

 波岩は思いついたような口調でなつの言葉に挟むと、彼女は「そうだ」と頷き、まるで首元に注射をするかのような動作をした。

 「吸血病患者は感染源のM細胞に感染した結果、本来人間にはない吸血衝動が現れるだけではなく、異常なまでに身体が強靱化され、かつ動きも俊敏になるんだ。そのため、彼らが逃げられないように狩人たちも人間用の強化薬を首に打ち、患者を捕えるんだ」

 「なるほど……でもなんでそこまで詳しいんです?」

 波岩が問いかけるが、「さぁな」となつは答えをはぐらかした。

 「ともかく……一度話がズレたが、要するに君の兄……いや、恋人。しかも失踪して追われている身である恋人を捜して欲しい。そういうことですね?」

 最後確認するような口調で女性に問いかけると、「ええ」と彼女は頷いた。

 「そういうわけで……この依頼、承った」

 と羽賀野なつは高らかに女性の──波岩の目の前で宣言した。

 

 二

 

 「で、何から調べるつもりなんです?」

 波岩は歩きながら隣のなつに話しかける。

 まだ太陽が空の真ん中に位置している中、羽賀野なつと波岩奈里人は事務所から少し歩き、電車で数分乗った先に着いた場所──千代田区の水道橋某所を歩いていた。日本の政治や経済の中心区ということだけであり──そして、近くには東京ドームシティや後楽園ホールなど観光地が位置していることもあり、平日にも関わらず多くの人が歩道などを行き交っていた。

 「まずはその恋人が吸血病だと診断された病院──まあ正確には違うけどな──に行って、男の情報を集める。その後に知り合いの狩人から男の情報を集め、最後に警察に出向くつもりだ」

 「なるほどなるほ……って、知り合いに狩人がいるんですか⁉」

 波岩が驚く表情を見せると、なつは「なんだ、知らないのか?」ときょとんとした表情になる。クールな見た目とは裏腹に目立つ猫のような大きな目が、波岩の目線を少しズラすことになった。

 「お? この私に恋したのか?」

 目線をずらしたことに妖しい笑みを浮かべるなつに対し、波岩は「違います!」ときっぱりと否定した。

 「ちぇっ……つまんねぇ」

 「つまんなくないです‼」

 唇を尖らすなつに波岩はツッコみを入れた後、横目でなつは「それに、あの時依頼人の血液を通して見たあることが気になるんだよな」と小声で呟く。

 「あること?」

 「いや、気にしなくても」

 

 ──秘密主義……ですか。

 

 羽賀野なつは自他認める鋭い観察力と高い推理力があるものの、その代わりに所謂探偵の見せ場が来るまでに仮説を披露することはない……つまり誰にも組み立て途中の仮説、もしくは出来上がった仮説を嬉々として披露することはない。波岩の知り合いの警察関係者はそんな彼女を秘密主義者の吸血者と呼んでいるらしい。

 一応、波岩は〝なぜ途中で……もしくは完成した仮説を他人に見せないのか〟と当の本人に訊いたことがある。が、彼女は「探偵の見せ場が来るまで」とか、「先に他の人に言ったら推理の醍醐味がなくなるだろ」などと理由を何となくぼかしてきたのだった。

 

 ──何の為に……この人は探偵をしているんだろうか。

 

 そう思っていると、「なにボケッとしてるんだ?」となつから波岩に言葉が飛んでくる。

 「いえ、何も」

 「あ、分かった」

 「……?」

 「私に惚れ込んでいたんだ……」

 「だから違います!」

 

 

 駅から歩いて十数分。目的地の病院──というより、ある保護施設に二人は来ていた。正面入り口には〝ひめゆり園〟と綴られており、二階建ての白い建物が彼らの網膜に映し出されていた。

 波岩がドアベルを鳴らすと、『どちら様でしょうか』と若い女性の声がしてきた。波岩は「探偵事務所の者ですが」と答えると、二秒後には洋風な扉が開いた。

 そこから顔を覗かせたのは、色白で若そうな女性であった。だが──その目の色は左右異なり、所謂オッドアイのような、左目は赤、右目は青といった感じだった。

 「すいません。探偵事務所の者ですが」

 と波岩は慇懃に声を出す。女性──胸につけられている名札にはエリカと綴られていた──が「探偵……?」と首を傾げた。

 「ええ。ある失踪男性についてお伺いしたいのですが」

 と言うと、目の前の女性は表情を曇らした。そのことに気がついた羽賀野なつは「何かマズいことでも?」と波岩を押し退けて問いかけた。

 「ああ……いいえ……別に」

 「なら大丈夫なはずだ。もしもマズい内容であったとしても、探偵には必ず守秘義務がある。その義務がある限り、誰に対して話すことはまずないから安心しろ」

 強気な口調で、かつ鋭い目つきでエリカになつは注ぐ。少しずつ扉が開いていったのを確認した後、二人は施設の中へと入っていった。

 「御協力感謝します」

 波岩が一礼すると、「いえいえ」とエリカはかぶりを振った。

 「何だか……探偵さんって刑事さんみたいですね」

 と柔らかな笑みを浮かべるエリカに対し、なつは「まあ、そうだな」と頷いた。

 「探偵と刑事。仕事は異なるが、基本的に調べるという点においては一緒だ。人から人へ伝わる情報を元に捜査する刑事と、調べる探偵。基本的には同じだが、公務員か否かと言われれば別だ。警察官は公務員だから身分を名乗らないといけない。が、探偵は民間人であるし、任意で……まあボランティア感覚でやっているようなものだから、わざわざ身分を名乗らなくても良い。でも、名乗らずに調べようとすると相手が激昂する可能性だって秘められている訳だし、こうして予め身分を明らかにする必要性があるのだがね……」

 早口で長々となつはまくし立てると、「はぁ」とエリカは溜息をついた。

 

 ──まあ、分からなくもない。

 

 時々羽賀野なつはこうして早口で、かつ長々と解説をし始めるのである。まるでどこかの推理小説に出てくるかのようなキャラクターに似ているなとその都度波岩が感じるほど、その解説する口調には特徴的な響きが残っていた。

 「さあ、話を聞くとするか。──どこで話をしたら良いんです?」

 と言い、なつがエリカに問うた瞬間──後ろから聞き覚えのあるダミ声がなつと波岩の鼓膜を揺らした。波岩が背後を振り返ると、そこにはショートカットでボブにした茶髪の女性と、長髪で脚長、そして目を惹くような豊満な胸など一際良いスタイルを持った女性がそこに立っていた。

 「こんにちは。羽賀野さんと──波岩さん」

 茶髪の女性──鳴田夕海は可愛らしい笑みを浮かべてお辞儀をした。

 

 

 「まさか刑事の二人にここで出会うなんて──事件の捜査か?」

 椅子に座るや否や、茶髪の女性──鳴田夕海と長髪でスタイルの良い女性──池田美桜の二人になつは視線を向けた。前者は「ええ、まあそんなところですね」と微笑むが、後者は肩を竦ませて溜息をついた。

 ひめゆり園の施設内にある会議室。彼らが入った場所は普通職員たちが何か会議を行う為の場所だとエリカから言われているものの、誰かお客様が来た時はこの場所を使用しているという。

 会議室は至ってシンプルであり、カタカナのロのように机が固められており、対面越しになつと波岩、夕海と美桜、そして刑事二人の隣にエリカが順に座った。

 「外部の人に捜査情報を漏らすな──」

 美桜が夕海に対し小さく耳打ちをしたものの、その言葉が聞こえていただろうか──なつは「待て待て。外部の人って──私はもう幾度か君たち警察に協力をしてやったじゃないか」と手を顔の前でパタパタとさせた。

 「……元はと言えば貴女が首を突っ込んだからであって、警察としては貴女に協力を要請した訳ではありません」

 小声で呟く美桜に対し、聞こえなかったのか──それとも意図して聞こえぬようしていただけだったのか、「ん?」とわざとらしくなつはきょとんとした。

 

 ──何言ってるんだ、この人。

 

 波岩は嘆息を吐いていると、「あの」とエリカが声を上げる。その声に部屋に居る全員が反応して視線を彼女に向けた。

 「そろそろ、良いですか」

 「ああ、ごめんごめん。それで、その失踪男性はこの施設ではどういう印象だったんだ?」

 となつがエリカに問う。

 「その方は──光昭さんは、以前はここの施設での職員でした。けど、ある日の夜頃に緊急搬送されてきたんです」

 「緊急搬送……ってことは、その時点で彼は──光昭って言う人は吸血病だと分かっていたのか」

 となつが低い声で言うと、エリカは重々しい感じで頷いた。

 「ええ。それで、搬送されてきた彼はどこか弱っていたのですぐに処置を施しました。もう夜遅かったので光昭さんは処置後ぐっすりと眠っていましたけど、翌日目を覚ました彼は──まるで、私たちのことを異物のように見ているような感じで──」

 「その時、血を吸われなかったか?」

 と初めて美桜が冷静な口調で問う。エリカは少し瞬きした後に「……多分。私たちの間では血を吸われなかった人はいなかったと思います」と自信なさげに答えた。

 「どういうことだ?」と美桜。

 「私たちの間って言うのは……その……あの時、光昭さんの病室から悲鳴と喘ぎ声が聞こえて、何だろうと担当の方が尋ねていったんです。ですが、すぐには開くことなく……暫くして待つと顔を覗かせたのは顔に血をつけた女性で……その方が担当の者が声をかける間もなく行ってしまったものだから……」

 としどろもどろになりながらエリカは話していく。表情に何やら翳りが生じていた。

 「その女性というのは……もしかしてこの方ではないでしょうか」

 そう言い、夕海は手に持っていた手帳からある一枚の写真を机の上に置いた。その写真はなつや波岩にとって見覚えのある女性でもあり──依頼人でもあった人物だった。

 その人物の写真を見たエリカは「うんうん」と頷いていた。

 「そうですそうです。この人が当時逃げるように立ち去った人です」

 「その人がなぜその場所に居たのか、教えて貰っても?」と美桜。

 「いえ、それは……分かりません。すいません……」

 頭を下げて謝罪するエリカに対し、「いえ」と静かな口調で夕海は答えた。

 「では次の質問をしたいと思うのですが──」

 と夕海が言いかけた時、途端に「何か隠してるのか?」となつが問いかけた。

 意味が分からず、エリカは「えっ?」ときょとんとさせるものの、彼女はエリカの隣に座って目を覗いた。

 「目、茶色なんだな」

 「え?」

 「とりあえず、貴女の過去を覗かせて貰います」

 と言い、羽賀野なつはエリカの手首に噛みついた。その一方的に意味の分からない行動に、ただただエリカは首を傾げたままであり、困惑する余地もなかったようだった。

 「……本当に血を吸うんだな」

 と美桜。そんな彼女を波岩は一瞥した後、「ええ、そうですよ」と答えた。

 「彼女はこうして人の血液を介して過去を見ることが出来るのです。一見、普通とは思えないと感じるかも知れないですが──」

 「あ、もうその辺で良いです。二人の活躍は警察に居ると耳にすることが多いんで」

 と言って美桜は波岩の言葉を遮る。途中で遮られた波岩は「それなら」と途中で話すのを止めた。

 暫く時間が過ぎる。

 時計の針が過ぎ去る時を刻む。

 そして、同時に彼らの空間をも揺らしていく。

 なつがエリカの腕から口を離した後、口元から滴れる血を拭った後──彼女の瞳を射貫くかのような目線でジッと見つめた。

 「……あなた、光昭という男と恋人関係だな?」

 「……はい」

 少し間が空いた後、エリカが表情を暗くして呟く。その表情を見た──エリカの隣に座っていた美桜が「なるほど……ということは」と口を開いた。

 「恋人関係にあったあなたを、光昭という男は異物を見るかのような目──つまり、貶んできたということか……。だが、一体何故?」

 と言われるが、エリカは首を横に振った。

 「分かりません。なんであの人が私にあのような目線を向けたのが分からなくて……もしかしたら……もしかしたら……あの事が」

 「あの事?」

 震えた口調で飛び出した言葉に波岩が噛みつくが、エリカは「……いえ」と口を閉じてしまう。その様子に波岩は少し唸った。

 「とりあえず」夕海が立ち上がる。その隣の美桜も立ち上がっていた。「私たちはこれでお暇させてもらいます。私たちは光昭という男を調べてきますので、また何かあったらそちらに連絡したいと思います」

 慇懃に夕海が話した後、二人は部屋を静かに出て行った。その様子を見ていたなつは「……気づいたのか」と独り言を呟いた。

 「気づいた?」

 「ん?」

 「だから、気づいたって?」

 「え? 何の事だ?」

 「……秘密主義め」

 波岩がなつに聞こえないように呟くと、「なんか言ったか?」と秘密主義者が彼の肩に優しく手を置いた。波岩がゆっくりと首を動かすと、なつはニンマリと表情を動かしていた。

 「……何でも無いです」

 

 

 お昼時を過ぎた頃。保護施設を出た後、事務所に戻ると思いきや──次は依頼人の自宅に向かうと言い、昼食を食べないまま依頼人の自宅へと向かっていた。閑静な住宅街だが、路上にダンボールを敷いて座っている人達──主に家を追われた吸血者たちがその場に佇んでいた。

 昨今、世間の人々から迫害を受けた吸血者が住居を失い、また財産を失い、結果的に路上で暮らすこととなった吸血者が年々増加をしている。そのことに頭を抱えた政府が一時期対策を出したものの、ほぼ失敗に終わっていた。

 そんな状況の路上を歩いている最中、なつと波岩の二人は依頼人の自宅の前に到着していた。閑静な住宅街にしてはなかなか豪勢な住宅だったが、隣接されている庭において草が伸びきっているところを見る限り、あんまり手入れはされていないのだろうか──と波岩は思っていた。

 なつが門の前のドアベルを鳴らす。鳴らされたベルに呼ばれたように、住居から依頼人の女性──エリが整った顔で現れてくる。彼女が二人の存在に気づいた後、小走りで駆け寄って門を開けた。

 「見つかりましたか」

 とエリは尋ねる。が、なつはかぶりを振った。

 「そうですか……」

 目の前の女性が肩を落としかけていたものの、「まあ……仕方ないですよね」と無理に口角を上げた。

 「だって、失踪した男性……しかも何の証拠もなしに捜してきて下さいって。私、何を考えているんでしょうね」

 自分を苛めるかのような口調で呟く彼女に対し、なつは「いいや、少しだが収穫はあったぞ」と頷いた。

 「ホントですか⁉」

 「ああ。まあ折角だし、中に入れさせて貰えないか」

 「ええ、どうぞ」

 そう言い、エリは二人を家の中に入らせた。

 

 

 「どうぞ」

 そう言い、エリはなつと波岩の目の前にティーカップを置く。二人は軽く頭を下げた後、エリが対面越しに座るのを見た。

 「それで──分かったことって何ですか」

 と言う。エリの円らな瞳を一瞥した後、なつはゆっくりと唇を開けた。

 「分かったこと。それは君が嘘をついたことだ」

 暫し沈黙が三人の間に降りる。窓の隙間から吹き出る風をなつと波岩は背中で感じつつ、目の前の女性が話し出すのをじっと待った。隙間風が止んだ途端、エリは吹き出した。

 「……ふははは」

 「何がおかしい」

 と波岩。革製のソファから腰を軽く上げると、エリはそんな彼を睨んだ。

 「あぁ~……折角あなた方の実力を見払うつもりだったのに。こんなにも早く、あっさりと見破られるなんて──まあ、こればっかりは自分のせいだし、仕方ないわね」

 そう言い、丸椅子から立ち上がったエリは隣接する台所へと移動した。なつと波岩の二人はそんな彼女を一瞥していると、「どうして嘘なんか付く必要があった?」となつが問いただした。エリは台所でモサモサと作業をしながら、

 「それは〝ある方〟の為よ」

 と言う。

 「ある方?」と波岩。が、隣のなつは小さく歯軋りを立てていた。

 「……あいつかよ」

 「あら、流石察しが早いこと。──まあ、あの方が違法に開発した人体ですものね。察しが早いことは当然のことか」

 そう言い、エリは二人の目の前に再度現れ、首筋に注射針を刺した。彼女の首元に青い液体が注入されていく様子を一瞥した後、なつが「逃げるぞ‼」と後ろの窓から逃げ出した。その後を波岩が追う。

 「逃げるってどういうことですか!」

 走りながら波岩がなつに問う。アスファルトの上を足で蹴りながら、全速力で波岩はなつを追いかける。

 「あいつ……エリは狩人だ! 彼女の記憶を覗いていた時に狩人だけしか扱うことができない薬が映っていたんだ!」

 「それを早く伝えて下さいよ‼」

 大声で怒鳴りながら波岩はなつの背中を追いかける。

 波岩はふと後ろを見た瞬間、追いかけていると思った女性──エリの姿が見当たらず、キョロキョロと見渡す。

 ──あれ、どこ行ったんだ……?

 そう思った時だった。

 「横!」

 なつが怒鳴り声を上げた時、波岩は見知らぬ住居の壁に思い切りぶつかった。衝撃が強かったのか、波岩はその場で怯んでいた。そんな彼の元へなつが駆け寄ろうとした時、「久しぶりだから力加減ミスったなぁ」と聞き覚えのある声が彼女の鼓膜を揺さぶった。

 「……あら、吸血者がこんなところに居るなんて──」

 「おい」

 わざとらしい口調でエリが話す最中、なつは倒れる波岩を背にして立ちはだかった。

 「あら、奇遇ですねぇ。こんなところで何を?」

 「それはこっちの台詞だ。なぜ私たちを騙した?」

 「騙したなんて……そんなぁ?」とエリはぶりっ子のように唇を尖らせ、首を傾げだした。「ただ、私はあなたたちに依頼をしただけなんですよ?」

 「それはそうだな。だけど、君が狩人なんて知らなかったぞ」

 「それは~……まぁ、狩人なんて普通名乗ったら引かれますし。──君のような吸血者とかはね?」

 と言い、エリはなつの紅く染まった双眸を指差した。

 「私たちをどうするつもりだ」

 低い声でなつが尋ねる。

 「嫌ねぇ~……私は出来れば穏便に済ませたいと思ってますよ。そうすれば人間と吸血者の間に諍いなんて生じませんし。ただ──私の上司が君たちのことを良く思っていないそうですし──本当は私もなるべく──殺したくは──ないんですけど」

 と言い、エリは臨戦態勢に入る。右手にはナイフが握られており、なつも腰を落として臨戦態勢に入った。

 「これも全て──あの方の為です。死んで」

 エリはアスファルトを蹴ってなつに襲いかかった。握られていたナイフの刃先をなつの首元に振り翳そうとするも、ギリギリでなつは避けた。

 続けて攻撃を繰り出すエリに対し、なつは躱し続ける。俊敏な動き──しかも薬によって強化された肉体によって繰り出される攻撃は、なつにとって苛酷なものだったものの、エリの隙を突いて彼女の右手首を握った。

 そのまま彼女はエリをアスファルトの上に叩き付け、再度波岩の傍に駆け寄った。既に回復をしていたのか、波岩はゆっくりと立ち上がっていた。

 「大丈夫か」

 なつがトロンとした目つきの波岩に声をかける。彼の双眸には額に汗を掻いたなつが映っていた。

 「……ええ。何とかは」そう言い、波岩は周囲を見渡した。ゆっくりと立ち上がっていくエリの姿を一瞥した後、「あの人は──」と口走った。

 「狩人だよ」

 「でも……なぜ僕たちのことを」

 「さぁな。とりあえず、ここはさっさと逃げるぞ」

 と言い、なつはポケットから丸い玉を取り出す。そのまま地面に叩き付け、眩い光と共に二人の姿はエリの目の前から消え去っていった。

 

 

 依頼人──もとい狩人に襲撃された翌日。なつと波岩の二人は事務所に佇んでいた。

 二人はテーブルを挟んで互いに対面して座っていると、「これからどうする?」と波岩が話し始めた。なつは組んでいた膝を解いて話した。

 「まず、光昭という男性がなぜ失踪したのかを探り、その後にあの女性……エリがなぜ光昭を捜しているのかを考える。──まあ、ほぼ私の中では事件の顛末は分かってるけど」

 「本当なのか? それは」

 と焦り気味に波岩は話す。が、身を乗り出している彼を宥めるかのように、なつは「まあまあ」と掌を見せた。

 「そうは焦らない方が良いよ、ワトソン君。まだ仮説の段階なんだから」

 某世界的に有名な探偵のように話すなつ。その様子を見ながら、波岩は「はいはい」と椅子に深く座った。

 「〝仮説は実証されて初めて真実となる。が、証拠がなければそれは只の推測で仮説だ。〝ですよね」

 「分かればよろしいのじゃ」

 「分かってます。……ただ、その台詞って誰から教われたんですか」

 「……さぁな」

 目線を上の空に向けたなつを見て、波岩は嘆息を漏らす。

 ──いつもこうなのだ。自分から仮説を示さない──というより、証拠が集まらなければ仮説は仮説で、推測だから話さない。この点について僕は同意できるが、なつは自分から自身の過去について話したがらないし、もし問い質そうとしても……殺される。その点について、僕は未だ彼女に同意をしていない。

 一度波岩はなつに〝探偵をしている理由〟について問うたことがある──。が、彼の問いに彼女は答えることなく、それどころか、自分の過去に触れる者が居たらその時はその時で殺す──と明言をしている。

 なぜそういう答えになったかは、波岩は無論知る由なんてない。が、何時ぞや彼はなつが探偵をしている理由──と彼女の過去について知ろうと考えている。

 「言っただろ。私の過去について知ろうとする人は一人残らず殺すって。それが分かったら私の事を詮索するのは止めた方が良いぞ」

 と言い、彼女は椅子から立ち上がり後ろの窓に身体を向けた。その彼女の口調に波岩は「……やめておきますよ」とだけしか答えなかった。無論それは──一度だけ彼女の過去を詮索しようとした、あの時の経験が脳裏に浮かび上がったからでもあった。

 暫し沈黙が降りる。時計の針が十一時を指そうとした途端、事務所のドアが開いて鈴野音が事務所に響かせる。なつと波岩の二人はドアに視線を向けると、そこにはショートカットで茶髪の髪型をした鳴田夕海の姿が立っていた。華奢な体つきをした彼女は一度頭を下げた後、大股で座っている波岩の傍に移動した。

 「どうしたんだ? そんな畏まって」

 そう言いながら、なつは再びソファに腰をかける。その動作を見ながら、夕海は「少しだけ捜査に進展があったんです」と話した。

 「進展?」と波岩。

 「はい。光昭の所在が分かりました」

 「それは本当か⁉」

 なつが身を乗り出して夕海に訊く。が、真剣な面持ちになって「いいえそれが──」と首を振りはじめた。その様子に察した波岩が「まさか」と言いかける。

 「──はい。光昭さんは今朝、屍体で発見されました」

 

 三

 

 「光昭さんは今朝、通行人の通報により河川敷で倒れているところを発見されました。しかし、現着した警察官がその場で光昭さんの生死を確認しましたが──その場で死亡が確認されました。屍体には特に目立った外傷はなかったようですが、首元に注射針で刺されたような痕があり、現在鑑識が調べているところです」

 メモ帳に書かれていることを滔々と読み上げると、夕海は顔を上げ、パタンとメモ帳を閉じた。

 「注射針……ということは、殺害した犯人は医療関係者か狩人のどっちかということになるな……」

 低い声で独り言のようになつが呟くと、夕海は「ええ──私たち警察としてはそのように考えています」と一旦言葉を切り、また話を続けた。

 「ただ、これはあくまで警察としてではなく──私個人の見解として聞いて欲しいですが、今回のコロシ、狩人が犯人だと思わない方が良いかもしれません」

 「……それってどういうことです?」

 少し声量を小さく話す夕海に対し、波岩は首を傾げた。その反応を一度一瞥した後、夕海は再度話し始めた。

 「捜査情報でかつ、まだ帳場に居る上司に報告していない情報ですが──光昭さん、家族に逃げられている最中に狩人たちに追われている……とのことでした。私の他にもう一人刑事がいまして──まあ言わなくても分かる通り、美桜さんですが──、その彼女と鑑取りを進めていたところ、そのような話があがってきました」

 「なるほど……その話って具体的にどういうことだ?」と波岩。

 「よくある話で金銭関係の話だそうで。あとはまあ……その追っていた狩人の一人と板戸恋仲になっていたことぐらいですかね」

 「恋仲?」

 「ええ。狩人の──確か、エリという人だったような──」

 そう言いかけた時、なつが唐突に「その人なら」と声を出した。夕海が「本当です?」と視線を彼女に向けると、「ああ」と頷いた。

 「その人なら私たちに依頼してきたんだが──ついさっき、彼女の家を訪れたばかりだった」

 「な、なるほど。で、それで」

 「それが──襲われたんだよ。あの人に。まさか依頼人が狩人だなんて……思いもしなかったけど、とりあえず助かったんだ」

 「それは何よりです。で、その時に分かった情報があれば」

 とメモ帳を開いてペンを持つ。既に話を聞こうという姿勢が出来ていることが、夕海の隣に座っていた波岩の瞳で分かった。

 「……君たち警察が今し方発見した屍体は違法に人体実験された身体で、〝あの方〟を命にエリという女性は動いていたようだった。恐らく……発見次第処分という名の処刑を下していたんだろう」

 低い声で語るなつを一瞥しながら夕海はメモ帳に記入していく。その姿を横目で見ながら、波岩は「けど、どうして嘘なんてつく必要があったんですかね」と口を挟む。

 「はあ?」

 「え?」

 「そんなの、私たちの口を封じるために決まってるでしょ」

 となつが呆れながら話す。その表情と両手を大きく開いた姿を見て一瞬苛ついたものの、すぐにそのイライラを抑えて「……はぁ」と頷いた。

 「でもなんでそんなことを聞くんだ?」

 となつ。一応聞くんだ。

 「まあ……何というんでしょうか……。〝あの方〟の為だとかは確かに言ってましたけど、何だか自分の為とでも思えるんですよね……」

 「自分の為?」

 「ええ──まあ。あの方──僕たちには正体なんて分かるわけないですけど──の為だとは言っても、目的の人物と元は恋人関係だったと嘘をつく必要なんてあるかな……と思ったんですよ。もし嘘をつく必要がなかったら、なつさんに頼ることなくあの人単独で調べられたかも知れないと思ったんですよね」

 「……となれば、そこに違和感があると?」

 確認するような口調でなつが波岩を一瞥すると、彼は「ええ」となつを見つめながら頷いた。

 「まあ確かにあり得る。狩人たちは独自にネットワークを拡大しているし、吸血者の情報があればすぐに駆けつけてくる人だからな……。──一応、今回関わっているエリという人間を調べてくれないか?」

 なつが顎に手を添えながら呟いた後、目線を夕海に変えて尋ねた。その言葉を聞いた彼女は「そう言うと思って」とメモ帳をまた開いた。

 「調べておきましたよ。じゃあ早速──」

 そう言った途端、「待って」と波岩が口を挟んだ。

 「どうした?」

 「そのことなら必要要らないような気がするんですけど……。ほら、なつさんって血液を介して人の記憶を見ることが出来る能力があるわけですし」

 「ああ、そう言えばそうでしたね」

 夕海は一度波岩と顔を合わせた後、二人でなつに顔を向けた。が、彼女は首を横に振った。

 「いいや。あの彼女の記憶は改ざんされてて無理だったんだ」

 「え?」と夕海。

 「狩人って言うのは──互いに過去を詮索しないルールで、もし詮索されても何も問題が起きないよう、記憶が改ざんされるんだ。どんなに幸せな過去であっても──どんなに不幸な過去であっても──」

 「でもそれって、誰がそんな」

 「さあ」と言い、なつは夕海から視線を外した。「……誰のせいだろうな」

 「……まあそれは置いておいて。私が調べた情報によれば、エリという女性は元々児童養護施設で働いていた方だったそうです。ですが、ある出来事をきっかけにそこを退職する羽目になったそうで」

 「ある出来事?」となつ。

 「ええ。働いていた施設が突如として閉鎖され──そのことについて少し調べましたが、恐らく狩人たちの仕業かと──、その後彼女は路頭に迷うことになりました。そこを彼女からして見れば恩師だという人物に拾われ、今の狩人と呼ばれる職業に就いたとのことでした」

 「──なるほどな。まあ、その施設が狩人たちに潰されたのは大体察しがつくから今は良いとして……とりあえず、その恩師の元へ出向く」

 と言うと、何も指示を飛ばされていない波岩が「はいはい」と立ち上がった。

 「車を出せ、と言うんでしょ。分かってます」

 「気前がよろしい」

 波岩を一瞥しながら、なつは口角をクイッと上げる。その表情を波岩は見た後、自分のデスクに戻っておいてある車のキーを手に取り、ズボンのポケットに入れる。が、「ちょっと待って下さい」と夕海が二人の足を止める。

 「ん?」と波岩。

 「それがその恩師──私が此処に連れてきてるんです」

 「はっ?」

 意味が分からず、波岩となつがキョロキョロとした後、二人で見つめ合う。すると、事務所のドアが開く音が聞こえ、なつと波岩──そしてその恩師を連れてきたという夕海がその扉の先へ目線を向ける。そこに居たのは──。

 「どうもご無沙汰しております。波岩の父の──波岩義彦と申します」

 そのダミ声に──彼の息子は目を大きく見開いた。

 

 

 「なんで親父が居るんだよ」

 開口一番、息子は台詞を吐き捨てるかのように実の父親を睨み付ける。その表情が気に食わなかったのか、それとも単に面白かっただけなのか──その心情は本人にしか知らないが、義彦は「ガハハ」と大きく笑った。

 「まあそんなに怒るなって。単にお前じゃなく──こちらの探偵さんに用があってきただけだ」

 と言い、義彦はなつの顔をチラリと見た。その強面そうな顔になつは一瞬強ばらせつつ、「御用件は何でしょうか」と慇懃に尋ねた。

 「そこの椅子に座っているお嬢ちゃん──いや、女性刑事だったか──その人から聞かなかったのか?」

 夕海のことを顎でしゃくりながら話し続けると、夕海は「ええ」と頷き、その場を立ち上がった。

 「私が呼んだんです。ただ、最初は駅前にお二人を連れてくる予定だったものの……義彦さんが『では私が直接出向くとしよう』と仰り、今こうしてここに居るわけなんです」

 「……そうか」

 と波岩。義彦を見ず夕海の隣に腰を落とすと、同じようになつも夕海と対面するように腰を落とした。そのなつの隣を義彦が座る。

 「ではお訊きしますが……エリという女性はどのような人物だったのでしょうか」

 慇懃になつが尋ねると、義彦は自分の息子に出ていたお茶を勝手に口に含んだ後、小さく舌打ちを鳴らしてから口を開いた。

 「エリは私が拾った女性だ。三年前だとか、二年前ぐらいに路上で困っているところを私が拾い、就く職業も困っていたから彼女を狩人に仕立てたんだ。──あの方の指令でね」

 「あの方……」

 となつが反芻する。続けて義彦が話す。

 「拾った時、とても優秀な方だと一目で分かったよ。後で話してくれたことだが、彼女は以前保育園に勤務していてえらく子どもに懐かれたらしい。そのことを他の保育士たちやその園の園長に褒められていたみたいだった。……まあ、そこまでは彼女にとって幸せな日々だったのだろう、と俺は思う。けど、そこから先は彼女にとって不幸な人生を辿ることになってしまったらしい」

 「不幸な人生……?」

 と夕海。「ああ」と一瞬だけ夕海に視線を合わせた後、低い声で唸った。

 「ある時、同僚の保育士に呼ばれて園長の下へ向かったそうなんだ。その時に話されたのは、金曜の夜ある撮影を行うからこの場所に来てくれないか──と云われたそうだ。当日、エリはその場所を同僚と共に訪れると、いきなり脅されて服を脱がされたそうなんだ──。まあ、ここから先は言わなくても」

 「分かるよ。そりゃ──どんな末路を辿ったなんて」

 と波岩が少し苛ついた口調で話す。表情は真顔だが、口調は怒りの感情が込められていた。そんな息子を目の当たりにした義彦は「ああそうなんだ」とだけ答えた。

 「……で、その事実と今回の事件がどう繋がるんだ」

 なつが低い声で尋ねる。少し間を開けて義彦が話した。

 「そのエリの過去に関わって人物の一人に──今回の事件の被害者、光昭が関わっているんだ」

 「……ということは、光昭さんを殺害したのはエリで間違いない──」

 「ああ、恐らく……というよりほぼ決まりかも」

 となつが呟く。真面目な顔つきになっている彼女を横で眺めつつ、ニヤリと笑った義彦を見て波岩が「何企んでる?」と目を細めて言った。その言葉に反応した義彦は目の前で手を振って首を横に振った。

 「心外だよ。まさか息子にそんなことを言われるなんて」

 「あんたの息子だなんて一度も思ったことはないが?」

 互いに睨み付けている様相を夕海は心配そうに見つめる。すると、「まあ良いよ」と義彦が鉛のように重くなった空気感を破るかのように口を開いた。

 「私をどう思うかは個人の自由だ。好きにしたまえ。──が、今はそんなことをしてる暇はないんじゃないか?」

 「……どういうことだ」

 と波岩が空気を低く揺らすような声で呟いた。

 「これは噂程度の情報だがあまり信用しないで貰いたいのだが……光昭氏の関係者の一人であり、恋人のエリカがつい最近失踪したらしい」

 「はっ?」

 夕海が驚きの声をあげる。その声を聞いた後、義彦は続けて噂の内容を話した。

 「エリカという人物は調べているから分かると思うが……行き場を失った吸血者たちを保護するひめゆり園で働く職員だ。光昭氏もそこの職員であり、互いに恋人関係だったという。が、その関係は──」

 「その関係は、ある出来事をきっかけにして露として消えてしまう……こういうことですか」

 と夕海が義彦の話を受け続くと、「ああ」と彼は頷いた。重力によって垂れ下がっている顎の下の肉が少しだけ震えた。

 「ある出来事はなつさんと波岩さんも知っていての通り、光昭さんが突如として施設に運び込まれ、その場で暴れたものでした。その際に職員一人怪我をしており、エリカさんがその出来事の目撃者でした」

 夕海が一息で話し終えると、テーブルの上にあったお茶を手に取って口に含んだ。その動作を見ながら、なつは「……うーん」と小さな声で唸った。

 「どうされました?」と夕海。その声に気づき、なつは「いやな」と声を出した。

 「なーんか違和感を覚えるんだよ。単純そうで、実は単純じゃない気がして」

 「違和感?」

 と夕海。が、その後に話が続かず、暫しの間事務所に沈黙が降りる。

 波岩親子の間に気まずい雰囲気──鉛より更に重い物質が二人の間に降りたような空気感が降り立つ中、唐突としてなつが「そういうことか!」と声を上げた。その声に反応してその場に居る全員がなつに視線を向けた。

 「何か分かったんですか⁉」

 と夕海。が、なつはシニカルな笑みを浮かべるだけで何も答えなかった。

 

 ──秘密主義者……。

 

 なつはどうしても推理の過程やら、仮説やらを周囲に漏らすことはあまりなく、その時が来るまで、彼女は自分の脳内に推理の結果導くことが出来た結論を示すことはない。そのせいか、いつもワトソン役の波岩が迷惑被っているという──。

 そんなことを思いながら、なつに「なんか思いついたんです?」とだけ一応波岩は尋ねる。

 ──まあほぼ無意味だと思うけど。

 「なんでそんなこと言う必要があるんだ? 折角の楽しみが無くなっちゃうじゃないか」

 ──ほら、出た。折角の楽しみとか言って……本当はあなたが探偵という職業を楽しみたいだけでしょ。後何より、周囲の困惑そうな表情を堪能することも企んでるでしょ。

 内心なつに対する悪態をつきつつ、彼女の出方を穿った。すると、彼女はその場を立ち上がって自分のデスクに戻り、茶色のコートを羽織った。

 「どこに行くんです?」と波岩。

 「決まってるだろ、犯人の元だ」

 「犯人⁉」

 と大きな声を出す夕海。そんな反応を見たなつはきょとんとした表情となり、

 「どうした? そんな表情になって」

 「どうしたも何も……犯人ですよね。私も行きます」

 決意に満ちたような──刑事らしい、まるで犯人を捕まえに行くような表情をした夕海を目の当たりにしたなつはただ黙って頷く。そんな彼女を一瞥したなつはコホンと喉を鳴らし、どこかに向けて声を発した。

 

 「私は読者に挑戦する。これまでに出てきた推理に必要な道筋と、これから提示する新たなヒントを元に推理を行って欲しい。これまでに出たヒントは被害者の光昭氏の関係者には二人ほど事件に関わっていることが分かった。一人はエリという女性で、その人は私たちの依頼人でもあった。が、彼女は光昭氏を殺害した容疑がほぼ確定済みであり、被疑者候補では筆頭候補である。もう一人は光昭氏の恋人であったエリカという女性。彼女は行き場の失った吸血者たちを保護するための施設、ひめゆり園の職員として働いており──そこで起きた事件の目撃者でもあった。

 さて、そこでもう一つヒント。

 これらのヒントでは私たちの依頼人でもあった──エリという女性が被疑者としてその後警察によって逮捕されることでしょう。ですが、もしも──もしも、二人との間にこういう関係性があったらどうでしょうか」

 と言い、なつは顔の傍に人差し指を立てた。

 「──双子という関係性が」

 人差し指を降ろし、なつはまるでスカートの端を──令嬢のように持ち、

 「以上。探偵の羽賀野なつでした」

 と深く一礼をした。

 

 ※

 

 「ねぇ、本当にこれで良いの?」

 開口一番、エリカがエリに対し発した言葉は疑問口調の言葉だった。その言葉はまるで戸惑いながらも犯罪の共犯を行った人物のように思えた。目の前のエリはそんな彼女に対し、顔の目の前で手を振った。

 「良いのよ。あいつを──光昭を殺すことが出来れば」

 被害者のことを憎たらしいと思うような口調でエリは話す。が、エリカは何か不満げに頬を少し膨らませた。

 「なんだ、何か不満でもあるのか?」

 と咥えていた煙草を手に取った。

 「なんだって……。確かに、あの人を葬ったことでお姉さんは満足かもしれないけど……私としてはあの人と恋人関係だったのよ。お姉さんが葬ったところで……」

 「で、それが?」

 「何かって言われても……」

 口籠もるエリカを横目で見ながら、エリは口元の煙草に火を付けた。小さく息を吐いた後、エリは「……そりゃそうだけど」と呟いた。

 「だけどね、そのうちあんたも私みたいな末路を辿るかも知れないのよ。だったら今のうちに始末した方が良いじゃない」

 「始末……始末か……」

 自ら貶むかのようにエリカは笑みを浮かべていると、その様相を見ていたエリはその場を立ち上がった。彼女のすぐ傍に立ち、耳打ちをするかのように小声で言った。

 「あと一つ言っておくけど──私たち、本当の家族じゃないからね?」

 その言葉に──エリカは目を大きく見開き、握り拳を右手に作った。

 

 四

 

 「話って何でしょう」

 エリカは四人──なつ、波岩、夕海、美桜と対面するように椅子に腰掛け、少し首を傾げて話し出した。「この人から直接話したいことがあるんですよ」と波岩は左隣に座っていた黒い服に纏われた女性──羽賀野なつを横目で一瞥した。

 今から二時間前のこと。

 事務所を後にしたなつと波岩、そして夕海の三人はエリカが勤務しているというひめゆり園に向かった。道中、夕海の運転する車の助手席に美桜が乗り込む形となり、結果的に四人でひめゆり園に向かうことになった。

 が、美桜の発する質問──犯人は誰なのか、またはどうしてその人が犯人なのかという当たり前のような質問をなつに向けたものの、波岩の思う秘密主義者の性格が表われ自らの口から説明することがなかった。

 しかしながら──波岩はなつがこれから話すことは大体予想していた。

 まず、この事件は単純のようで単純ではないこと。このことについてはなつも指摘していたが、犯人が一つの動機を持って被害者を殺害したという単純であり──ありきたりな事件ではないことだ。彼女の言うヒントを辿れば──普通はそう思うはずである。

 また、エリという女性がなぜ波岩やなつの元に訪れて依頼をしたなのかが不明である。恐らく実力を測るためだろうと──波岩は半分考えているが、もう半分はどうしてだろうと考えていた。

 そんなことを考えているうちに、正面に居る端正で綺麗な女性が口を開いた。オッドアイの目をキョロキョロとさせており、落ち着かない様子だった。

 「……私の姉のことですか」

 「その通りだ」

 低い声でなつが話す。胸の前で腕を組んでいた。

 「……やっぱり」

 「やっぱり?」

 となつが首を傾げる。恰も先を読まれている感覚だったのか──それともわざとだったのか、は分からないが、彼女は目をきょとんとさせて話の続きを促した。

 「姉──もう知ってるかも知れませんけどエリという女性で──、その姉が被害者……私の恋人を殺したんでしょ? その件で話を訊きに来たんでしょ」

 と少し目を血走らせてエリは話す。

 「ああ。いかにもそうだが」

 「……そうなんですね」

 「まあ、それも重要だが──次に話すことがどっちかというと重要かな」

 「へ?」

 とエリカがきょとんとさせた。なつは一息つき、薄い唇を舌で舐めてから口を開いた。

 

「お前──姉〝も〟殺したな?」



「……な、なんでそんなことを言うんですか」

言葉を上ずらせながらエリカは話すが、動揺を隠しきれなかったのか呂律が回ってないように思えた。そんな様子を一瞥しながら、「そりゃ簡単だよ」となつはニヤリと笑みを浮かべた。

「君が自分の恋人を殺害してくれって頼んだんだろ?」

「何を言ってるんですかなつさん!」

机を叩き、その場を立ち上がった美桜。彼女を見上げ、きょとんとしたまま美桜のことをなつは見つめていると、「どうぞ?」と言わんばかりに話の続きを促した。その動きに若干苛ついたのか、美桜は小さく舌打ちを鳴らした。

「彼女にはまず被害者とは恋人関係なんですよ? 殺すメリットなんて……殺す動機なんてあるわけないじゃないですか! それに、彼女はあの出来事の唯一の目撃者なんですよ?」

「いつ私が彼女のことを──二人を殺害した犯人だと言った?」

「はっ?」

訳が分からず、ただポツンと美桜は立っている。が、彼女の表情は鬼の形相で今にもお借り出しそうな表情となっており──頭の上から湯気が立ち上りそうだった。そんな彼女を見守りつつ、隣に座っていた夕海は「まあまあ」と彼女を座らせた。

「確かに彼女は人を殺した。だがそれは姉のことを殺害しただけに留まる」

「はぁ、それは分かりますが──。たださっき、なつさんは姉〝も〟って言いましたよね。それと何か関係があるんです?」

と波岩が話の間を割って話す。波岩の隣に座っていたなつは「はぁ」と嘆息をついた。

「なにを言ってるんだ」

「へ?」

「だから、何を考えてそうなるんだ。お前の目は節穴かよ」


──いちいち癪に障る。


口から今にも飛び出そうになる不平の言葉を必死に堪えつつ、波岩はジッとなつを見据えた。彼女は一度波岩を一瞥した後、視線をエリカに変えて「はて、本題に移るとしよう」と話し始めた。

「これから私が話すのは全て推測だ。以前君の血液を介して見た過去の記憶と、周囲の話などを参考にして考えた推測だ。間違っていれば遠慮なく話を遮ってくれ」

となつは言う。だが目の前の女性はただジッとなつのことを見つめており、何も口をきくことはなかった。そのことを見越してなのか──なつは「……ないようだな」となぜか少しだけ自慢げに呟いた。

「私が考えた推測はこうだ。

 君ともう一人の女性──エリは元々出会うはずのなかった関係性だった。しかし、ある出来事をきっかけにして、君とエリは次第に姉妹のような関係性になっていた。そこで関わってくるのが、被害者の光昭という男性だ。光昭はエリに接触して一度は恋人関係、ないしは肉体関係を持った。が、エリとの仲を親密にしていくにつれ、実はエリには金銭で悩みを抱えていることに気づいた。その事実に気がついた光昭は彼女をアダルトビデオ──まあ水商売と言った方が良いかもな──に出演させ、金銭を受け取った。が、その金銭でエリと揉めて彼女をあえなく捨てた。──ここまで間違いはないか?」

と確認するようにエリカに問う。エリカは何も答えず、まるでなつが滔々と語っていった推測が事実のように波岩などの三人は思えた。

「その後、光昭は君と出会った。がそれ以前にエリから光昭と金銭で揉め事になっていることを聞いてたのだろうか──それとも悩み相談を受けていたのか──それは分からないが、とにかく彼には何か良からぬ話があることは知っていた。

 しかし、エリは光昭と付き合った。それはなぜかと言ったら──」

「好きだから」

「え?」

と、不意にエリカから発された言葉に思わずなつは首を傾げたが、もう一度エリカは「好きだったから」と言い直した。

「ほお、それはなんでだ? 相手は自分の姉同然の存在を傷つけた存在。そんな人と付き合うのは──」

なつの話を我慢しながら聞いていたのか、エリカは唇に歯を立てて聞いていた。今にも腹立たしいと思っていたのだろうか──それとも、何か理由があってのことだろうか──。

「違う。姉とは無関係なの。私があの人と付き合ったのはただ……惚れたから」

「惚れた?」

「ええ。まだ彼が吸血者になる前の頃──」

と、エリカは当時のことを思い出すように語り始めた。



──あれは私がひめゆり園の職員として働き始めたばかりの頃だった。

あの施設で働き始めた頃の私は働くことにとても意義を感じており、ひめゆり園に入所していた方々──吸血者たちを必死に世話をして働いていた。

そんなときに出会ったのが、光昭という男性である。

彼とは同期であり、普段から話をしているほど仲が良かった。入所者達にとても慕われていたし、周囲の職場の人達からも同じように慕われていたため、私は彼に対し尊敬の気持ちを抱いていた。

そして、そんな彼に対し──私は異性としての意識を持ち、好意を抱いていた。

最初の頃はただの同僚だと思っていた。だけど、次第に彼と日々を過ごしていく中で、人柄の良さや周囲に対しての接し方、そして私への優しい接し方……などで私はいとも簡単に恋に落ちてしまった。

彼は世間に居る男性とは何ら風貌は変らない。寧ろ平凡すぎる程のビジュアルだった。それでも、私は彼に好意を抱き、次第に付き合い始めた。所謂、職場恋愛という形だ。

その後の仕事も、恋愛も、全て順調だった。

順調だった。


──あの出来事が起きるまでは。


あの出来事が起きる時、私は夜勤だった。いつものように入所者たちの世話をしていると、緊急の電話がひめゆり園に入ってきた。その電話は道端で倒れていた男性が吸血者だと言い、身元が分かるようなものを持ち合わせて居なかった為にひめゆり園へ搬送して欲しい──という依頼だった。私はその依頼を受け、当時一緒に勤務していた他の夜勤の人達と夜間の出入り口に向かった。

夜間の出入り口は通常の出入りとは異なり、あまり多くの人が行き交う場所ではない為か──少し狭まった場所であった。が、もしも搬送されることも考え、ストレッチャーが動かせる程の広さはあった。

数分経過すると、目の前の両開きの扉が開く。そこから現れたのはストレッチャーと両脇にいる──所謂狩人の下っ端の男性。彼らは狩人ではないが、狩人になるために一定期間見習いの期間が与えられる。その期間の彼らは行き場の失った吸血者を周辺の保護施設に搬送するという仕事を行う。

私はそんな彼らに近づき、「状況はどんな感じですか」と訊いた。

「特に外傷は見当たらないのですが……記憶喪失の可能性があります」

「記憶喪失……」

そう言い、私はストレッチャーに乗っている男性を見た。その顔に見覚えがあり、脳裏に私が付き合っている男性の姿が霞んだ。

「……まさか」

まさかとは思った。けど、この世の中、吸血病を発症する可能性だって幾分かあり得なくはない。どうして突然発症するかは不明なものの、彼らに血を吸われなければ基本的に大丈夫だという──そんな迷信が私たちの頭の中に入っていた。

「光昭さん……」

「え?」

と近くでストレッチャーを運んでいた人が呟く。その人の名札を一瞥すると、そこにはタダと書かれていた。

「その人、私の恋人でもあり……ここの職員なんです」

そう言った途端、周囲の空気が一気に冷え込んだ感覚が素肌で伝わった。だがそんなことに今は気を取ってはダメだ、そう思って自分の頬をピシャリと叩いた。

早歩きで──私は緊急の個室に光昭をストレッチャーで運んだ。



「それじゃ、また後で様子を見に来ますね」

私は光昭が搬送された病室を後にして、病室を出て行く。その去り際にチラリと恋人の顔を一瞥して頬を優しく触れた。

コツンコツンと夜の廊下を歩く。窓からは一切の光が差し込まず、中の照明だけで廊下は照らされていた。私はそんな無機質な廊下を歩きながら、だだっ広いエントランスを横切る。そしてすぐに右の扉を開け、自分たち職員が使っている部屋へ入っていく。

「お疲れ様」

そう言ってきたのは、一個下で同僚のサカヅキという男だった。肩幅が広いせいか、既定の制服が少しキツく着ているかのように思えた。

そんな彼を私は軽く手を挙げて「ありがと」と呟いた。今は夜勤で頑張らないといけないのだが、少し前の緊急搬送で蓄積した疲労を少しでも回復したかったため、私は窓際にあった革製のソファに横になった。

「大丈夫か?」

とサカヅキが話しかけてきた。私は横になったまま「大丈夫」と声に出した。

「なら良いけど……。今さっき運ばれてきた人、聞いたんだけどさ」

「光昭だよ」

と私は即答した。聞かれることぐらい、分かる。

「あの人……何があったんだろうな。しかもなんで突然吸血病を発症するのやら……」

独り言のように男は呟いた。私は重い身体を持ち上げ、ソファに座り直した。私を見つめてくるサカヅキを視線に据えながら、

「さあ……私には全く。何にせよ、吸血病なんて未知の領域があるからね」

「そうだな。まあそこら辺の研究は専門家に任せるとしよう。俺たちはその分野の専門家じゃあるまいし」

黙々と私は頷いた。

そうして、私は彼と暫くの間雑談を交わした。

もう回復したことだろう──そう思って時計を一瞥した頃、どこからか悲鳴が聞こえた。甲高い悲鳴で時間帯が真夜中だったこともあり、よく聞こえ、はっきり聞こえた。

私は「ごめん」と一言サカヅキに述べ、部屋を出た。

先程来た道を早足で戻る。

なぜか胸騒ぎがする。

どうしてだろうか。

すぐに向かわないと、大変なことになりそう。

予感。

確信ではなく、予感。

予感だけど、確信のような。

そんな気がした。

目的の病室に辿り着く。扉の目の前で深呼吸して、ドアノブを握ろうと手を近づけさせる。すると、中から甲高い悲鳴が聞こえる。女性。

勢いよく扉が開くと、中から飛び出てきたのは女性だった。名札にはミツキと書かれていた。私は華奢な体つきをした彼女に近寄ろうとするが、すぐにミヅキは立ち去ってしまう。その小さな背中を一度一瞥した後、私は部屋を見た。

そこに──光昭がいた。

ただ、それは私の知っている彼ではなく──。

見知らぬ彼だった。

橙色で染まった双眸。敵意に満ちた鋭い目つき。犬のように鋭く生えた犬歯。ゆっくりと顎を上下に動かす彼を見て、私は震えた。

怖かった。彼が──まさか、まさか吸血者になるなんて。それに人を──私を襲おうとするなんて。

想像するだけで怖い。

後ずさりを始めようとした時、私は咄嗟に首を横に振った。


──ダメだ。此処に居るのは私だけだ。彼を止めないで……他に誰がいる。


思い切り頬を叩く。ピシャリと気持ちいい音が廊下に響いた後、私は意を決して彼の待つ部屋に入った。男は依然私を睨み付けたままであり、いつでも逃げられるよう私は腰を落としながら進んだ。

「……光昭」

ポツリと男の名前を呟いた瞬間、男は私に飛びかかった。咄嗟の行動だったが、私はうまく彼の行動を躱した。──が、次の襲撃に私は足を縺れさせて転倒してしまう。その動作を見ていた男──光昭は私に擁護するかのように抱きついてきた。

「やめて! 光昭さん!」

咄嗟に叫んだ。すると、

「……ごめん」

と聞き覚えのある声が微かに耳元で聞こえた。

光昭の声。

だとしたら。

そう思い、私は恐る恐る抱きついている男の目を見た。その目は橙色の双眸ではなく、人間の目である──茶色の双眸をしていた。

そのことに私は安堵を覚えながらも、左肩周辺で感じていた痛みに違和感を少し覚えていた。先程までは感じていなかった痛みだが、今になってなぜか痛みが出ている。なぜだろう、そう思って少し左肩に視線を向けた。

そこに写ったのは、光昭が自らの犬歯を使って自分の血液を吸っているところだった。吸血者で最も代表的な特質である──吸血。その行動を、私は今、間近で見ている。

「……光昭?」

そう呼びかけたが、彼はびくともせず私の血液を吸っていた。

「ねぇ」

「ねぇ!」

「ねぇってば‼」

いくら肩を揺さぶって叫んでも、吸血を止めない。どうしたら良いんだろ……。そう思ったが、私は痛みの後徐々に感じる気持ち良さに心地良いと思っていた。

なんでだろう。吸血と言われて気持ち悪さを感じるのに、いざこうして血を吸われた時に嫌悪感は一切伝わってこない。それどころか、気持ちよくてつい心地良く、ずっと血を吸われていたい──そう思っていた。

頬がほんのりと熱く感じる。


──はぁ……。


彼の横顔。無我夢中になり、彼は私の血液を吸う。

これがいけないことは分かってる。

これが吸血病を発症してしまうことは分かってる。

だけど──。

だけど──。

彼は私にとって恋人だ──。



「つまり、君は光昭という男性に惚れていて──庇おうとしているわけか」

と先程までエリカが話していた内容を一纏めにした後、一言で一蹴した。庇おうとした、と言う言葉にエリカはなつを睨み付け、大きく舌打ちを鳴らした。

「うん? 何か文句でも」

と言うと、エリカは「大ありよ」と間髪入れずに話した。

「あの人に惚れたからなんだっての? 別に私が誰を好きになるかなんて自由じゃないの」

「ああそうだ。自由だ」

「ほらやっぱり。どうせ彼のことを悪者扱いにする証拠なんて……」

「いや、それがあるんですよ。エリカさん」

と波岩は落ち着いた声で目の前の女性に話しかけた。エリカは波岩に鋭い目つきで一瞥して、「ある?」と苛立ちを込めて言葉を吐いた。

「ありますとも。──美桜」

そう言うと、「はいはい、言わなくても出しますよ」と言わんばかりの態度で美桜はテーブルの上に一枚の写真を置いた。そこに写っていたのはどこかの家族写真らしく、そこには両親と一人の子どもが写っていた。その子どもの姿に波岩や夕海はどこか見覚えがあるらしく、首を傾げていた。

「その写真……私の家族写真じゃない。どうしてこんなところにあるのよ」

「それは今から説明することに必要だからだ。──入ってきて良いぞ」

となつはドアの方向へ声をかける。まるでその場にスローモーションがかかったかのようにドアがゆっくりと開き始めると、そこから顔を出したのは波岩にとって見覚えのある女性だった。

「……エリさん⁉」

と声を挙げる。

「知り合い……なんですか?」

と夕海が波岩に尋ねると、彼は「ええ」と頷いた。

「僕たちの依頼人です。彼女が最初に依頼してきたことで、この事件に関わるようになったんです。……ですが、なんでこんなところに?」

と波岩はなつに尋ねる。が、彼女は「少しぐらい考えろよ」と乱暴に言葉を吐いた。その悪態に思わず苛ついてしまった波岩だったが、出かかっていた悪口を引っ込めて「……入れ替わりですか」と言った。

「ああ。私たちに依頼してきた人こそが、〝エリカ〟という女性で、今私たちの目の前に座っている人間こそが──〝エリ〟という女性だからな」



「入れ替わり……というより、正確に言えば一人二役だけどな」

顔の横でぴょこんと立てたなつは楽しげな口調で話す。波岩や当事者二人以外の──刑事二人にとって首を傾げる事態だったが、気にせず彼女は話し続けた。

「どういう訳で一人二役を演じているかは分からんが……まあ恐らく、私たちを攪乱させるための策だろうと思う。特に私を欺く為の──算段だと思うがな」

荒い鼻息をなつは鳴らす。まるで挑発するかのような態度に目の前の女性は顔を歪めたものの、すぐに「何が欺く為の算段よ」と軽くあしらった。背もたれに深く座る様子を一瞥しながら、「ふうん?」とわざとらしくなつは首を傾げた。

「欺く為ではないと言うなら──別の目的が?」

「欺く目的ではあるの。ただ、対象が違う」

「対象?」と波岩。

「ええ。本当は〝あの男〟を嵌めるための策だったけど、隣に居るあいつのせいで対象を変えざるを得なかったのよ」

エリは扉のすぐ近くに居る女性を顎でしゃくる。雑に指された彼女は口を真一文字に結んだまま、ただ棒のように立ち尽くしていた。

「つまり……」美桜が会話に横槍を入れる。「本当はあの男──光昭さんを欺き、殺す為の算段だったけど、急遽計画を変更して私たちを騙そうと」

「そういうこと」

鼻息を荒く鳴らしたエリは椅子から立ち上がった。スラリと綺麗に伸びた脚が波岩の瞳に入る。

「私はあの男が憎くて……憎くて……どうしようもなかったのよ。私をこんな目に──こんな人生にさせといて、あいつは悠々と人生を満喫している。我慢ならなかった。だから殺したのよ」

語るにつれ彼女の右拳が強く振動しているのを、美桜は一瞥した後に「……そんなことで人を殺すなんて」と口を開く。すると、部屋中にピシャリと怒号が飛び交った。その怒号の先を部屋に居る皆が視線をくべると、先程まで棒のように立っていた女性が顔を紅潮させていた。

「あら……何を怒ってると思えば……」

エリは挑発するように口角をシニカルに上げる。が、そんな彼女に目をくれることなく──エリカはエリの元へ大股で向かった。そして──彼女の頬を思い切り、叩いた。

「……何するのよ」

低い声でエリは目の前の女性を圧倒させるものの、エリカはその口調に物怖じともせず、一息吐いて口を開いた。

「私はもう〝エリカ〟じゃない‼ 私は光昭さんの妹で花恋なんだから‼」

「だから?」

「は?」

「だから何? あの男の妹だからなに? それで赦されると思ってるの?」

鼻息を荒くしながら、早口で捲し立てるエリ。その様子をガリガリと頭を掻きながら「お前は何が言いたいんだ」と舌打ちを鳴らしながらなつは話す。

「はぁ?」エリカ──もとい光昭の妹と名乗った花恋はなつとの間合いを勢いよく詰め、椅子に座っているなつを睨み付ける。そんな彼女を見たなつはプッと笑った。

「語彙力失うんだな。お前って」

「……」

「イヤねぇ……私はそんな状況じゃあいつに喧嘩売っても意味ないって言ってるんだ、私は」

「……どういうことよ」

低い声で訊ねた花恋は目をスッと細めた。なつは椅子から立ち上げ、スラックスのポケットに白い手を突っ込んだ。

「あの女に対し、お前──ではなく君は兄を殺したことで恨みを持っていた。それだけではなく、君を利用して兄を殺したことに物凄く腹を立たせていた。そして、エリカという女性もまた──エリによって殺害された。その事実を君は不満として伝えるべきなのではないか?」

「待って下さい。エリカさんって亡くなってるんですか」

夕海が唐突に声を挙げる。きょとんとした表情になつはなるものの、「ああ……しっかりと説明してなかったな」とおどけて見せた。


──いや、そもそも説明の工程もなかったと思うんだけど……。


呆れる波岩をなつは横目で見つつ、彼女はコホンと咳を鳴らした。

「と言ってもしっかりと説明することもないけどな。エリカという女性は此処に居る花恋と同様、エリに恨みを持っていて彼女に対し反旗を翻そうとしたものの──結果として返り討ちに遭い、殺害されたと考えられる。まあ、これはあくまで私の推測で証拠も何もないんだけどな」

少し肩を落とし、なつの簡単な説明が終わる。すると、「証拠ならあります」と花恋が彼らの間にあるテーブルに血に塗れた包丁を置いた。その包丁を目にしたエリは顔を歪ませ──その表情をしっかりと美桜は見ていた。

「その凶器は……エリがエリカを殺害した凶器ですか」

と夕海。全員が分かりきっていることだが、念の為に確認をする。「ええ」と花恋は頷くと、「どこから手に入れたのよ‼」とエリは大声を上げた。

「あれ、意外と視野狭いのね。あなたが家に居ないときを見計らってこっそりと盗んできたのよ」

おどけて見せる花恋に対し、エリはギリギリと歯軋りを立てる。その証拠を白い手袋を嵌めた夕海は「この凶器は私たち警察の方で調べ……」と手に取りかけた途端、エリはその包丁を勢いよく取り、人質として花恋の首筋に当てた。

「動くな‼」

部屋中を轟かせる怒号と共に動きを止めるなつや波岩、そして刑事二人。エリは大きく舌打ちを鳴らして「……どいつもこいつも私の邪魔を……」と包丁の柄を強く握った。人質に捕られている花恋は上手く悲鳴をあげられなかった。

「早まるな」

波岩は一言述べるものの、それは彼女にとって逆効果だったのか──顔を思い切り歪め不快感を露わにさせた。

「あなたに何が分かるのよ‼」

唾を吐き捨てるかのように怒号を飛ばすと、波岩は一瞬だけ耳をピクリとさせた。「あ~あ、怒らせちゃった」というなつの余計な一言が彼の耳に入るものの、波岩は気にせずエリの目を見続けた。

「まあ、分からないよ。君の気持ちなんて。考えなんて」

「でしょ? だったら──」

「だが君の行動には分かりかねないな」

「はぁ?」

大声でエリが不満を露わにする様子を間近で見つつ、なつは「恨むことは別に罪なんて存在しない」と顔の前で手を振った。

「だが、人を恨んで〝殺す〟のは間違いだ。恨んだり……怒ったり……悲しんだり……人間には色々な感情というものが存在する。別にそれらの感情を出すことに異論は無論ないし、人間のある意味生理現象の一種だ。が、感情を出してその後に人を殺めてしまった場合はまた別だ。感情を抑えきれなくなり、理性のコントロールを失った君に何の損得を考えずに人を殺した。光昭という、恨みのある人物でも殺すことはいけないんだ」

「それは分かってる! でも抑えきれない!」

なつの早口言葉をエリは一蹴するが、構わずなつは話し続けた。

「ああそうだ。君はあのような過去を経験したからこそ、感情を抑えきれなくなった。だがな、他の出来事はどうだ?」

「他の出来事?」

少し苛立ちの籠もった口調でエリは首を傾げる。

「ああ。よく考えてみろ。それが君の下した〝判断〟だ」

なつは端的に述べた後、一息ついた。その彼女の言葉に反応したのか──それとも、何か別のことを思い出してのことなのか──は分からないが、彼らの目の前で、エリは脱力するかのようにその場に崩れ落ちた。

そして──彼女の、泣き声が部屋中に響いた。


◇幕間


数日後のこと。事件解決を終え、なつと波岩の二人は探偵事務所で静寂な日々を送っていた。波岩は扉の傍にあるデスクにおいて、淡々と事務作業を行っている中、カランカランという鐘の音が事務所に響かせる。波岩は扉から覗かせた顔を見て、椅子から腰を上げた。

「御報告です?」

「ええ」

と報告に来たスーツ姿の美桜が頷く。相変わらずの色白で透き通った肌を見て、つい波岩は鼻の下を伸ばしていた。そんな彼の様子を一度一瞥したなつは、波岩のすぐ傍に移動し、「なに鼻の下伸ばしてんだよ」と耳打ちをした。

「べべべ……別に伸ばしていませんし」

波岩は咳払いと共に誤魔化しながら、美桜を中央のテーブルに案内する。慣れた手つきを見ながら、美桜は三人掛けのソファに座った。その向かい側のソファになつと波岩が座る。

「事件、無事に解決を致しました。お二人の力のおかげ──」

と慇懃に頭を下げる。

「良いよ良いよ。我々はただ、推理を披露して事件を解決しただけなんだから。お礼なんていらんぞ」

少し頬を赤らめて、顔の前でなつは手を振る。そんな彼女を隣で見ていた波岩は「……照れ屋め」とめちゃくちゃ小さい小声で呟いた。

「何か言った?」

「……聞こえてたんですか」


──相変わらずの地獄耳だな。


呆れつつ、波岩は美桜に話の続きを促した。

「事件の犯人であったエリは全て自白してくれました。動機はなつさんの仰る通り、光昭という男性を恨んでいたそうで、彼が撮影したであろうアダルトビデオの回収を今進めております」

「ふむ。それで、もう一人の花恋という女性はどうなった?」

「彼女については任意で取り調べを継続中です。恐らく彼女については何ら関わっていない──つまり、エリの単独犯として事件の幕を閉じる予定です。まあ、花恋さんのその後のケアについて、本庁としてはあまり考えていないようで……」

「そうか」なつは椅子から腰を上げ、後ろの窓を見つめた。「何もなければ良いが……」

「……どういうことです?」

波岩がなつに問いかける。彼女は波岩に視線を向けず、窓の向こうの景色にずっと見つめたまま話した。

「あの女性が今度犯罪に手を染めるとしたら、エリが危なくなるかも知れない──ということだ。まあ、あくまで可能性の段階だから気にしなくて──」

「気にしないはずがないじゃないですか!」

机を美桜は軽く叩く。その様子になつは軽く口角を上げた。

「なつさんが言いたいのはつまり……恨みの連鎖で、殺しの連鎖でもあると言いたいんですよね。だったら、私はその連鎖を食い止めてみせます」

「ふむ。それで?」

「だから、私は彼女を自宅に招き入れて同居する方針です」

ピシャリと発言した美桜の言葉に、波岩は少し目を見開いた。一方のなつはただ「うんうん」と頷いただけだった。

「えと……それって……前から決めてたんですか」

「そうです」

即答した美桜の姿を見て、なつは「よく言った!」とすぐ美桜の傍に駆け寄り、小さな頭を撫で撫でし始めた。咄嗟の行動に美桜は思わず「なになになに⁉」となつから離れた。

「何するですか」

「何って……ただ頭を撫でただけだけど」

「ハラスメントで訴えますよ?」

「ハラスメントって……同じ女性なのに?」

「あ」

言葉に詰まらせた美桜の姿を見て、なつは「ぐふふ」と気味の悪い笑みを浮かべた。


──何をしてるんだ、この人……。


そう思いながら、波岩は「それではまた」と言い残して事務所を後にする美桜の姿を見送った。彼女の姿を見つつ、彼は自分の座席に戻って椅子に腰を落とした。

時計の針が幾分か進んだ頃、波岩は「あ」と唐突に声を出した。

「なんだ?」

「前から気になってたんですけど」

「どうした? 言ってみろ」

少し乱暴な物言いに口を歪めつつも、波岩は頭の中で引っ掛かっていた質問を口にした。

 「……なつさんが探偵をしている理由って、本当に〝人を殺すため〟なんですよね」

 

 数秒、間合いが空く。

 

 窓の隙間からピューという隙間風が事務所に響かせる中、なつはこう言った。──険しい表情、そして、強い握り拳をつくって。

 

 「ああ、そうだ。俺はあの人を殺したい。そして、自分自身を知りたい」

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吸血者探偵・羽賀野なつ 青冬夏 @lgm_manalar_writer

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