『ハンナ』の真実
桜田 優鈴
『ハンナ』1
この時間の部室に居るのは、今日も俺ひとりだった。
パーティー開けのポテトチップスやら、封を切られて放置されたマシュマロやらが散乱した部屋に、キーボードを叩く音のみが響く。
その音が、ぱったり途絶えた。
数秒後、タイプ音の代わりに発されたのは、発狂する男の叫び声だった。
先に述べた通り、現在この部屋には一人しかいないため、必然的に声の主は特定される。
ここで俺自身の保身のために弁解を許されるとするならば、断じて頭がおかしくなったのではない、とだけ主張しておく。俺は至って正常だ。正常なまま発狂しているということが、果たして正常なのかはさておき。
「あー。また煮詰まっちゃってんの?」
誰もいないはずの背後から声がし、俺は椅子に座ったまま、頭だけを後方へと向けた。
レイバックイナバウアー。それは俺と、某フィギアスケート選手の得意技であった。ちなみに、最近の採点法では全く加点されないらしい。俺のこの業は生かされずに散っていく。
このとき俺は、自分がスケートなど一度もやったことなんてないのを綺麗さっぱり忘れていた。
上下が逆さまになった世界で、全身黒尽くめの男が立っていた。……残念ながら、彼は別に闇の組織の方でもなんでもなく、ただ黒が好きな大学生だ。
「今日の授業の分のノート、ここ置いとくぞ」
ポテチの隣に向かっている。
「ストオオップ!俺の手の中に入れてぇ」
ばたばたと両手を振ると、ついにバランスを崩して椅子から転げ落ちた。
強かに腰を打ちつけ、床に伸びる。
「馬鹿じゃないけど、馬鹿なんだよなお前」
ぽすっと、頭に何かが乗る。顔の前まで引っ張り下ろすと、先ほどのノートだった。
「この体たらくを他の真面目な学生さんたちが見たら、卒倒しそうだね。不動の一位が、まさかこんな奴なんて」
親友の言葉を右から左へ受け流し、今日の分のノートを見る。
「なぁ。まだこんな範囲やってんの?ここ確か、俺が高校のときに勝手に勉強しちゃったんだけど」
俺は別に、天才でも何でもなかった。
その代わり集中力が異常なまでに発達していた。
高校三年間、俺は勉学に没頭した。理由なんて特になく、ただ勉強しようかな、という気分にまかせて机に向かっていた。
その結果、大学の範囲までいってしまった。それだけのことだった。
現在、俺は過去の自分に感謝している。おかげで、大学では勉学ではないものをすることができるから。
脅威の集中力は、短所でもあった。同時に二つのことができないのだ。勉学をしつつ何かをする、なんてことは俺には不可能なのだ。
大学に入ってから、集中の対象になったもの。それは。
「まーた、コメントし辛いクオリティーだな」
振ってきた親友の声に、身をこわばらせた。
「大体この話、主人公は誰なんだ。人物多すぎて訳がわからん」
「学園ものを書きたくてぇ~。どうせならクラスみんなに出番あげたいな、と。ほら、仲間外れはよくないよーって」
精一杯、可愛い顔を作る。
「その顔何、キモイ」
一蹴された。
毎度のことだった。俺が小説を書くたびに、親友のシュンに読んでもらっては、没られる。その繰り返し。
そんな日常も今年で三年目。
大学生になって俺が集中したのは、小説の執筆だった。大学在籍中に大きな賞をとって作家になる。それが俺の目標だ。
しかし、俺は気づき始めている。……いや、とうの昔に気づいていた。
俺には才能がない。
書いても書いても、いい物語は紡げない。
考えても考えても、アイデアは浮かんでこない。
「俺もそろそろ、進路とか決めないとだよなぁ」
呟いたとたん、シュンが倒れたままの俺の肩を揺すった。
「ケン、頭打ったか」
大真面目に心配されてしまう。
「だってさ、もう三年生なわけじゃん。流石に諦めが肝心かなーとか思っちゃったりしちゃったりもする」
高校時代に勉強した貯金があるとはいえ、そろそろ就職のことを本気で考えなければ危ない。
「お前でも、諦めることってあるんだ」
認めたくはないが、今回ばかりは仕様がない。
萎れる俺に、シュンは不敵な笑みを浮かべた。
「まぁもう少ししたら、ケンに理想と現実の差を教えてやろうと思ってたとこだから、俺に言われる前に自分で気づけてよかったんじゃん?」
耳が痛い。
「明日から、また勉強かぁ」
溜め息ひとつ。
「そんなケン君に、楽しいイベントのお誘いです」
倒れたままの俺を引き起こしつつ、シュンが明るい声を出した。
「イベント?」
「そう。実は一人足りなくてさ。今日の六時から、浦賀女子大と合コンがあるんだ」
俺は一度も、合コンとやらに行ったことがなかった。
「シュン、それは俺のためじゃなく、人数合わせたいお前らのためだよな」
「あ、バレた?」
あっさりと認めやがった。
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