五番目と六番目の”e”
のんぴ
第1章 八山田
第1話 郡山市八山田、楽しくない歓迎会
原口恵眞は苛立っていた。楽しいはずのその場所でひとり苛立っていた。
でもひとりなのかどうか本当のところはわからない。世に晒している表情と心の奥底は一致していることのほうが少ないものだ。
現に彼女も笑っている。本当はここにいる全員が苛立っているのかもしれなかった。何かを隠しているのかもしれなかった。
「俺はあいつらの音楽ってすごいと思うよ」
彼女の視線の先にいるその男性は、大きな声で陽気に語り続ける。
会場にいる全員に聞こえるように。自分が場の中心にいられるように。
「世の中が煮つまっているからね。夢をもてる歌、今日もがんばろうって思える歌が、今ほど必要とされている時代もないと思う。あいつらはこの八山田の誇りだよ」
価値観は人それぞれ。彼と恵眞との間に相違があってもそれは仕方のないこと。
大学の新入生歓迎会。いくつかのサークルの人間があつまっていた。どこにでもあるような居酒屋の座敷席。
気のいい人間が多かったが、一人の残念な例外によって恵眞の心は密やかにささくれだっていた。でも表向きは彼女も明るく振る舞っているので、あたりのものたちは気安く話しかけてくる。話しかけやすいというのは、恵眞がもつ美徳の一つだった。
「恵眞、飲み物は?」
「あ、どうもです。じゃピーチフィズ」
「ほんとに酒強いんだろな。顔色が変わらないのに突然つぶれるやつっているからな」
「大丈夫っすよ。全然大丈夫。でも、つぶれたらやさしく介抱してくださいね」
「そこのごみ収集所にそっと置いておく」
「ひどいっす。先輩」
すでに、こんなだった。
先輩たちにも、同級生たちにも、長い面識があるかのよう。
いつものことである。小中高とずっと小動物扱いだったわけだから、大学生になったからといって突然路線変更ができるはずもない。
本人はそういうポジションを目指してはいないのに、なぜかいつもこうなってしまう。
今夜の彼女のいでたちは、一式おニューだった。わざわざこの歓迎会に照準を合わせて買い揃えた。
インド麻のカラフルなスカートと、首と手首にあわせて四つまかれた木製の飾りは人目を引いた。
もともとエキゾチックな服や小物が好きではあったが、近所に品ぞろえの良い店を見つけて喜んで漁ってしまったのだ。
少し服に負けている感はある。でも大学に入ったのを機に、いままでと違う自分を作り上げたいと思った彼女の気持ちはどうかわかってあげてほしい。
そしてこの夜は、彼女の願いが叶い始める第一歩となった。
二人の人間との出会いによって、それはもたらされることとなる。
恵眞たちが通うO歯科大学のあるこの一帯は、福島県郡山市のなかで『八山田』と呼ばれる地区だ。
昔は一面の田園が広がっていたが、平成に入ってから急速に開発が進み、『ミーハーが住む町』と囁かれることもある、今どきの住宅地となった。
O歯科大学は八山田の町に寄り添うような位置に在る。校舎のすぐ側には磐越西線の線路が通り、一時間に数本程度の電車が横切っていく。電車は二、三両のものがほとんどで、それでも通学の時間帯以外は空席が多い。
郡山市は、地方都市の常として車社会である。毎日電車を利用するのは、猪苗代湖の向こうの会津若松市から郡山の私立高校に通学する生徒たちくらいのものだ。
恵眞はその会津若松市の生まれである。この春までは会津若松市内の高校に通い、つい先日郡山に引っ越してきた。
八山田の東サイド、国道四号の沿線には大きな総合病院が建っている。そんな医科大と病院に囲まれた環境なので、八山田の町内には歯科と個人開業医が乱立していた。
そしてその歯科の群れのどこかに、『彼ら』が身を潜めて日々の生活を送っているという噂は、もちろん恵眞も聞いたことがあった。
恵眞はグラスの底に残っていた綺麗な色の飲み物をくいっと空けて、離れたテーブルでいまだ語り続ける男性をちらっと見た。
初め彼の姿を見かけたとき、恵眞はなんとなく好感を持っていたのだ。黒いシャツに濃い茶色のパンツ。細身で背が高く、艶のある少し長めの髪の毛の下にのぞく目は落ち着いていて、やさしそうで。
それだけに惜しい。
男性の名前は佐伯敏雄といった。
彼がさきほどから褒めちぎっているのは、日本の若者ならば百パーセントその名前を知っている、四人組のボーカルグループだ。
曲は売れて売れて売れまくり、映画の主題歌にも抜擢され、カラオケでも定番となっている。今現在、日本音楽業界の頂点に立っていると言って差し支えないあの『彼ら』。
『彼ら』はO歯科大のOBなのだ。四人とも。
出身は福島県ではないのだが、この学校で出会いグループを結成した。小規模なライブや、駅前のCDショップへの地道な売り込みから始めて、やがてこの地にいながら全国区へと彼らは羽ばたいた。
そしてこの奇妙なグループはここ八山田にいまでもいるのです、多分。もとい、多分ではなくいるのだ。この辺に。本当に。
すでにメンバーの四人は大学を卒業して、歯科医の国家資格を取得している。そして歯科助手や大学の事務局に勤めながら、郡山での歯科開業を目指していた。
それは、貴方が突然奥歯の強烈な痛みに襲われて、近所の歯科に駆け込んだら、マスクをした桑田佳祐に「どうしましたあ」とたずねられるような状況である。
どうしてそんなドッキリみたいな事態が成立するのか。普通に考えたらできるわけがない。でもできるのだ。なぜなら顔を世間に一切公表していないから。
テレビに出たこともなければ、雑誌の取材にも写真はNG。
ライブでも夏フェスでも姿を見せない演出で押し通す。
珍妙なプロモーションビデオが以前あった。彼らの歌をどこの誰だか分からない外国人さんたちが吹き替えで熱唱しているのだ。
これはデビュー当初から『音楽活動はしたい。しかし顔を晒してしまったら歯科医の業務にどう考えても妨げになる。歯科医は歯科医で、必ず成し遂げたい夢のひとつなのだ』と彼らが考えていたことにより選択された活動形態だ。そのやり方で何年もやってきた。
凄いことである。近しい人はもちろん彼らの正体を知っている。しかしそこから先には広がらずやってこられたのだ。インターネットが浸透して、誰もがカメラ付き携帯電話を持っている状況で、これこそが何よりもキセキである。
よく喋る黒シャツの佐伯も本校OBの歯科助手だ。
「つい先週も、あいつらと一緒に飲んだんだ。駅前のバーで。周りのほかのお客は気付くはずがないんだけど、俺ばっかりどきどきしちゃったよ」
「いいなあ。わたしも今度連れてってくださいよ」
「うん、そのうちね。あ、携帯聞いていい?」
「はあい」
その女の子は笑顔で携帯電話をかざす。男性もそれに自分の携帯を重ねて、赤外線通信でアドレスを受信した。
「写真はないんですか?」
「携帯に入ってるよ。でもやっぱ俺にも友達としての責任があるからさ、こんな大勢の前で見せるのはちょっとね」
彼は尚も語り続ける。
こういう、大事な秘密をべらべらと喋ってしまう、重要な仕事をとても任せられない人間というものは、どんな集団の中にも一定数は必ず含まれるものだ。
恵眞がもしボーカルグループの大ファンであったならば、彼女は目を輝かせて話に聞き入るというよりは、眼前で展開される破局の危機にどう対処すべきか知恵を巡らせたことだろう。この男には消えてもらう必要があるのか、とまで。
でも別にファンではなかったので恵眞はただ静かに軽蔑に満ちた視線を彼に向けて投げかけていた。
彼女とて音楽は好きだ。はやりの音楽をひととおりは聴いている。しかし本当に好んで聴くのは、和洋は問わないのだが、あまりヒットチャートに上ることのないような音楽である。
ノイズのような個性あふれすぎる領域までは、まだたどり着くに至っていないのだが、地味でも、土曜日の午後の小雨のように、心に静かに染みこんでいくような音楽が恵眞は好きだった。
派手好きな一面も備わっているようであるのに、一方でこうした嗜好の持ち主である自分を不思議に思うことが恵眞にもあったが、それが人間てものだろうと納得させていた。
そんな彼女から見ると、佐伯は売れているからには優れているのだと盲信して、その前提をもとに軽い理屈を積み上げているだけのように見えた。
歓迎会は九時でお開きになった。まだ飲み足りない人たちは、個人の部屋に転がり込んで朝まで飲むつもりらしい。
恵眞も誘われたが断った。酒が強いというのは嘘でもないのだが、ペース配分を多少誤った。足元がふわついている。
挨拶を済ませてみんなに背を向けたとき、佐伯に声を掛けられた。
「恵眞、今日はあんまり話せなかったね」
確かにさほど話していない。なのに呼び捨てとは。
「あ、佐伯さん。そうですね、またの機会に」
彼は新入生たちにまんべんなく話しかけて、恵眞を除く全員の連絡先を入手していた。男女問わず。
彼の自慢話に吸い寄せられなかった恵眞だけが蚊帳の外だった。
コンプリートを目指して恵眞に近づいてきたのだろう。
自分が切手かなにかと同列に扱われている気がして、恵眞は腹が立った。
彼女は愛想笑いを浮かべて会釈すると回れ右してつかつかと歩み去り。後ろで佐伯がまだ何か言っていたようだったが無視した。
充分離れてから、「人を安く見るんじゃねーよ」と忌々しげに言葉を吐き捨てた。
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