ギャップ・ガール
琴葉 刹那
ギャップ・ガール
小さい頃、僕は妖精に会った。
山奥の、小さな小さな田舎村。そんな過疎地帯の、無駄に広い公園だった。なぜか夕暮れ時に現れたきみは、……とてもきれいだった。思わず見惚れてしまうほどに。
『きみはだれ?』
漸くして、ぼくは問いかけた。
少女はニコッと笑って歩み寄った。
『さあ? 誰だと思う?』
その笑顔はとても魅力的で、寂れた村の少年の意識を、容易く釘付けにした。
『……妖精』
『妖精?』
知らずと零れた一言を、少女が拾う。次いで、殊更に面白そうに、喉を震わせた。
『ふふふっ。そう。私は妖精さん。この山の、森の妖精さん』
『妖精さん?』
『そう。妖精さん』
『山の? 森の?』
『どっちもよ』
オウムの合唱とともに、影法師が伸びてくる。太陽が、ぼくらの頬に乗り移る。
カラスが鳴いた。〝もう帰るよ〟とでも言うかのように。〝ナニカ〟を予期したかのように。
『それよりもほら、遊びましょ?』
『でも、もう帰る時間だよ?』
首をかしげるぼくに、彼女はコロコロ笑う。その鈴の音とともに、ぼくらの頬から、街灯へと色が移る。足元では、影法師がひしゃげたスクラップのように、姿を変えていた。
『大丈夫よ。だって夜は長いもの』
少女が顔を上へ向ける。つられてぼくも上を見た。そこには星々が在った。海よりもなお濃く、深く、蒼いカーテンの下で、〝これからはぼくらの時間だ〟とばかりに、輝いていた。
『……月は無いね』
ぼくがそう言うと、彼女は言葉を焼き直した。
『大丈夫よ。だって北極星があるもの』
何が大丈夫なのだろう。
訝しさが顔に出ていたのか、少女は自ら言葉を引き取った。
『月はその光で地上を照らすけど、道標にはなってはくれない。だって月は、太陽を求めて動いちゃう』
〝けれど〟と。彼女は言葉を続ける。
『北極星って、ずっと位置が変わらないの。いつも北の空にいて、いつもみんなを見ている』
だから問題ないのだと、言い聞かせるように云う。
どこか憂いを伴う虫の音とともに、再び顔を上向ける。北極星と目が合った。
北極星は動かない。それゆえに道標となり得る。
では、他の星はどうであろうか。
ぼくは目を細めた。
周りの星は動いている。北極星と違って。
ぽかんと空く
『睦月ー!』
ふと自らを呼ぶ声が辺りに響く。
もう十二分に宵の中。それゆえこれは必然のこと。
『ごめんね』
彼女はかぶりを振った。
『ううん。大丈夫。でも、今度会ったら、あそぼ?』
『うん!』
首肯し、またね、と踵を返す。
『
向けた背に届くコトバ。
急ブレーキを踏みしめ、振り返ると、そこに彼女の姿はなく。
一輪の彼岸花と、飛び立つモンシロチョウの姿があった。
『睦月!』
お父さんが走り寄り、見るや固まった。
『お父さん?』
信じられないという顔をした父は、反射のように
ぼくを見る。
『……因果、か……』
小さく何事かつぶやくと、『……帰るぞ』と、ぼくの手を引いた。
この時の父が、泣きそうな、哀愁を漂わせていたことを。
◇◇◇◇
それからというもの、彼女は、いつもぼくの前に現れた。
あの公園で、山で、川で、そして神社で。ぼくらは遊んだ。
彼女が現れるのは夕方。必然、遊びは夜にも渡る。
けれど、お父さんは何も言わなかった。お母さんは怒るけど、お父さんは何か、遠くを見ていた。
ある日のことだった。ぼくは、ある決心を持って、公園にいた。
『やぁ』
辺りが夕焼けに染まるや、彼女が現れる。しかし、その顔は翳っていた。
まるで、何を告げられるか、分かっているかのように。
『今日は何をして遊ぶ? 鬼ごっこ? 隠れん坊? それともカンケリ?』
早口で捲し立てる彼女に、ぼくは深く息を吸う。同時に、山のささやきが、耳に入ってくる。
――ああ、くそ。
察して、震えを正そうと、再び息を吸う。彼女のじっと睨む眼が、随分苦しい。
漸く吐き出した言葉は、この上なく、重かった。
『……ぼく、来月、この村を離れるんだ』
『……そう、』
ぼくの覚悟を、彼女は冷鋭に切り捨てた。
……次いで浮かべる、思い出したような、とってつけた、笑顔。
『うん、じゃあ、向こうでも元気でね』
突きつけられた言葉に、突き放された気がして、ぼくは慌てて言葉を紡ぐ。
『きみも一緒に来ない? 麓っていろんなものがあるらしいんだ。遊びも物も人だって――』
ぼくは息をのんだ。
なぜなら、すさまじい怒気が、ぼくを襲ったから。傍目で見ても、分かるほどに、彼女が憤怒を抱いていたから。
『ふざけないでよ』
より一層、内臓のあたりが重くなる。
『私が
吐き捨てると、限界とばかりに踵を返す。
その腕を、ぼくはつかんだ。
『待って!』『触れないで!』
どこにあるのか、強靭な膂力で振りほどくと、彼女はキッとぼくを睨んだ。
『なんでみんな行っちゃうの!
『っなんで――』
――なんで、お祖父ちゃんの名前を知っているの?
彼女は動きを止め、涙目でこちらを見る。頬は赤い、目は赤い。けれども雫は、一滴も流れてこなかった。
『……ずっと、見ていたから……』
ぽつり、と。零れた言葉。その瞬間、ナニカに支配されたかのように、ぼくは彼女の背後を見た。目に映ったのは神社と、宵の始まりを告げる
『なんで子供たちは降りちゃうの? どうしてここを捨てるの?』
ぼくは声をかけられなかった。けれどたぶん、答えは分かる。
都会は眩し過ぎるのだ。月から、北極星の輝きを隠すほどに。
たとえ、その先が破滅だとしても、顧みられることがないとしても、月は太陽を求める。
――それが、街灯に無数に群がる蛾と、同じとは知らずに。
空が宵の色を帯び始める。北極星が、『こっちが道だよ』と煌いた。
『……私は妖精。この山と、森の妖精であり、みんなの……道標。……みんなが帰る場所を護るモノで、……目印。だから――あなたも安心して、行ってらっしゃい』
最後に、温かな笑顔をたたえて、彼女は消えた。
この日から、いつも
彼女は、いつの日か帰ってくるみんなの為に、ずっとあそこで待つのだろう。……人のいない、あの村で。
僕の知る彼女は、空白だった。謎だらけの、女の子。あの悲しみも、苦しみも、あの時初めて知った。
なぜ、もっと早く知ろうとしなかったんだろう。そんな後悔が、僕の心に、ぽっかり穴を空け、居座る。ただ、この穴には、ナニカ別のモノも在る気がする。
来年で十八歳。成人。そうなれば、分かるだろうか。このナニカが。この空白が。
ふと変な妄想が浮かび上がる。十八歳になった僕と、彼女が出会う、都合の良い妄想。
「……ギャップだな」
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