老いを生きる

@tkj-tkj

第1話

冷蔵庫にあった財布を返そうか無くしたことも忘れた亡父(ひと)に


ヒダリ/ミギどちらから靴を履けばいい?立ちすくむ亡父(ひと)に声を荒げる


母親の下顎呼吸がいま止まるその手はとうに冷たいままに


動かなくなった母親まえにしてあなたは生きていたのだと知る


亡き母の水道を止め、ガスを止め……独り暮らしが抜け殻になる


抜け殻のあちらこちらで亡き母の残した無数の言葉に出会う


「平均余命」余りにしては長過ぎる人類未踏の老い(みち)にさまよう


寝たきりも認知症にもなりたくないでも本当は死にたくないな


おう確かにひしゃげた薬缶ではあるが水も漏れずに湯も沸くのだよ


夕暮れて怠惰になったか手も足も指示を出さねば動こうとせぬ


いつになく「何を食べてもいい」という医者の言葉に背がうそ寒い


記憶には無数のひとが生きている一緒に死んでいただきますね


人生の最後の仕事はこればかり孤独のなかに己(おのれ)を探す


「いずれ死ぬ」という事実からわたくしは目を背(そむ)けるようにつくられている


着るたびに気付いているが取れそうな喪服のボタン夕暮れごころ


涙目をぬぐうときには人生の悲哀を感じたふりをしてみる


「若い頃はよかったよな」とみな言うがそんな記憶はとんとないです


二時間しか寝ないんだという爺さんは「じきに眠れる」と言わせたいのだ


またひとつ己(おの)が弱さを思い知る夜を迎える老いのアンニュイ


振り返り振り返りして眺めてもこれ以外の道などなかった

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