天国と地獄の(異世界?)生活
裏表日影
【第0章|四人と夕陽と(空飛ぶ?)乗り物】
〔第0章:第1節|絲色宴〕
八月二日。
夏休み真っ只中。昨日は出校日。
南中していた太陽のギラつきが、貫くような斜光へと変わった頃。
橙色に照らされた廊下。
「あっ!」
「ァっ!?」
先に出た声と聞こえてきた声の隙間で、現れた人影を避けようと床を蹴って軽く後ろに跳んだ。が、間に合わず。
鼻に衝撃。遅れて響いてくる鈍痛。
押さえようとした右手と鼻頭との隙間から、掛けていた眼鏡が離脱する。おまけに、数冊の教科書と布地の筆箱が入ったバッグも、抱えていた脇から落ちた。
「ご
相手が誰か知る前に、僕は謝罪を素早く告げる。
「あっ、いや、こっちこそ。……
年頃の女子にしては低い声。威圧的というよりは頑固さのこもったような。
「
視界は
墓終
二年A組。女子生徒。
クラスは違うが同じ園芸委員だ。週に五日、掃除の時間を共有する中。遊びに行ったりデートをした事は無いけど、ただの知り合い程度だけれども、調子の良い喋り友達。
少なくとも僕からすれば。向こうがどう思っているかは知らないけど。
淡い視野の真ん中に、ボヤけていても見慣れた眼鏡が差し出された。ありがたく受け取ると、鮮明になった視界が正解を露わにした。
「あー……久しぶり」
昨日は出校日だったけど、掃除の時間はなかったから顔を見なかった。けど墓終はいつも通り、僕が向けた笑顔に相反するように、悩ましそうで不機嫌に見える、反発するような……絶妙で微妙な顔つきで、僕を見ていた。そして夏休みである今日もまた、相も変わらず、いつも通りの奇妙な髪型をしていた。
頭のてっぺんから編み込んだひと房を、鼻筋と左目の間から後ろ髪と首の間に通して、後ろ髪の下から右耳の下に出た毛先は、そのまま眼鏡を掛けるように右耳に掛けている。墓終はさらに、頭の左半分を回るその円状の編み込みに合わせ、顔の左側は前髪を伸ばして、左目周辺全体を隠している。彼女はその前髪の上から、額を擦っていた。
ひと昔前なら「学生らしくない!」と、前々時代的な思想を持つ大人たちに糾弾されそうなものだけれど、今世においての「個性の多様化」によって、さほど奇天烈な造形には見えていない。
墓終のクラスメイトに詳しくはないが、僕のクラスメイトにも虹模様の髪色の男子だったり、ピンク色の坊主頭の女子だっている。毎日髪型を変える者だって。翻って、僕の茶色めの髪は真っ直ぐには伸びず、必然的に、頑固にカクカクと角張っている。この癖毛さえも、「普遍的だ」と言われてしまうほど、
そして墓終も、その髪型には並並ならぬこだわりがあるようで。
複雑怪奇に見える時はあれど、逢う時は常にこの髪型だった。そして案外頑丈なようで、僕の眼鏡は吹っ飛んだけれど、墓終の髪は少しも乱れていなかった。
「……何してんの?」
落ちたバッグを拾ってくれながらも、彼女特有の攻撃的に聞こえてしまう低い声は、僕に罪状でも問うが如く、訊いてきた。
「ありがとう。——僕、体育祭の実行委員だったろ?」
「何か、聞いた気がする」
「
茶化して訊き返してみたが、
「……反省文、書かされてた」
本当にやらかしていたらしい。
「反省文? なんでそんな、古典みたいな懲罰を?」
「昨日サボったから。ママに連絡が来て、『行け』って言われた」
「家だと、『ママ』って呼んでるのか」
「……母に」
「ママ」
「うっさい」
「可愛いね」
「
ガチトーンで言われた。低い声のさらに低い声。怖い怖い。特に目が怖い。
言いながらも、今は機嫌が良い方らしく、墓終は僕の左脇を拳で小突いた。
肩でも腕でもなく、「脇」だ。
そこに左腕は無かった。
僕に、左腕は無い。
肩口から先、ごっそりと。
変に痛がって悪い冗談にしても良かったが、しかし良くも悪くも、墓終には通用しない気がしていた。昔、この
「あたし、これからバイトだから」
「僕も帰るとこだ。いいねバイト。僕はしたくてもできない」
二人階段を降りる。静かで、閉鎖的だが穏やかな夕方だ。無い左腕を振ってみせる。
「……ごめん」
結果、悪い冗談になって謝らせてしまった。
「ごめんごめん。気にしないで。僕はその分、ダラけて過ごすだけ。貴重な夏休みだし、エアコンの下でアイス食べて、寝そべってテレビ見て」
「テレビって……。あんた年寄り?」
「おや? テレビって結構面白いんだぜ? 墓終って、テレビは
「見たい時に見たい番組見れないし。CMあるし。話題にならないし。動画見るだけならこっちの方が良い」
墓終はスカートの上からポケットを叩いた。携帯画面端末の事だ。
「アンタも持ってるでしょ。そっちでいつでも見れるんじゃ?」
「そりゃ見れるけど。……でも、流れてるその時に遭遇するのが楽しんじゃん? ニュース速報とか、リアルタイムで詳しく教えてくれるし」
「テレビがまともに見れてた世代って、あたしらの親くらいでしょ?」
「じゃ、ママに聞いてみると良いよ」
「黙れ」
三階ほど下ると、公立
「あっ!」
「わぁうっ!?」
鼻先への衝撃が再び。眼鏡の緊急離陸も再び。
追撃に対し僕は、ボヤける前の視界の端にはっきりと、相手が誰なのかを捉えていた。
捉えていたが、鼻は痛かった。
「あっ! あ……ご、ごめんなさい!」
怯え拍子の声。明確な聞き覚えがある。
「
明瞭ではない視界の真ん中に、使い慣れた眼鏡が差し出された。……一度目の攻撃者から。
「ご、ごめんなさい! い、絲色さんっ!!」
小柄ながらも、もう一発鼻を打ちそうな勢いで、頭を大きく振り下げる少女。誠意と怯えのこもった謝罪に、僕は肩を竦めて微笑んだ。
顔を上げた女子生徒。彼女は墓終と同じく、いつも通りの長い前髪で目の周辺を隠していた。隙間から丸い涙目を構え、肩を震わせ、僕に窺う。
彼女の名前は、薇
無造作ながらも襟に届かないほど切られた、短めの後ろ髪。全体的に頭の形に沿っているために、その黒髪は僕より無個性的に見えた。
「大丈夫、大丈夫。ほら……もうなんともないし。本日二度目だし」
今度は無い方の腕ではなく、ある腕をヒラヒラと軽く振ってみせた。
「あっ……えっと……」
墓終はその間、興味無さげに自分の下駄箱に向かうと、センサー錠に左手首のID型の学生証をかざし、「ピッ」という音と共にロックを解除して、自分の外履き靴を取り出した。
近年の技術革新により、二十年くらい前まではカード状であった学生証も、天九ヶ丘高校では腕時計型の「
僕と薇さんも同じように、自分の下駄箱のロックを開けると、履き物を履き替える。因みに校則の指定は無いため——そして実際左腕が無いため、僕は「
因みに因みに、学生証以外の機能としては、時計と時間割と教師からの呼び出しが通知されるという、手が足りてない者からしてみれば、地味に助かる機能性だった。左手の指でしか指紋認証ができませんとかじゃなくて良かった。
「で、薇さんはどうしてここに?」
右手だけで努めて靴を履きながら僕は、既に履き替え終えた薇さんに尋ねる。
「…………」
彼女はぼーっと俯きがちに、何かを小さく呟いていた。
僕は、律儀にも待ってくれている墓終を見る。彼女は気に留めてないように片眉を上げた。
「薇さん?」
「…………」
僕は彼女に対し、個人的悪感情は無い。そして彼女もそうであると思いたい。そして薇字名は、これまたいつも通り——独り言が多い。
墓終を再び見る。確か、少し前に聞いた。一年生の時、二人は同じクラスだったと。
「ずっと白昼夢でも見てんじゃない?」——そんな事を言っていた。
ガンッ!
僕がもう一度口を開く前に、墓終が拳で下駄箱を叩いた。軽く響いた金属音に、薇字名はビクッとして顔を上げた。
「は、はいっ! ご、ごめんなさい!」
彼女は墓終を見て、僕にしたのと同じような謝罪をする。顔を上げた薇字名。墓終は僕へ視線を流す。僕ら二人に絡まれたみたいな構図になり、なんだか哀れに思えてしまう。
「失礼な事考えてない?」
まさか。そんな事は。絶対に……無いはずでございまする。眼光が夕陽よりも鋭い。
「薇さんは、どうしてここに?」
「あっ……えっと…………か、帰るところ、です……」
「絲色が訊いてるのは、今日なんで登校してんの、ってとこ」
正直、それほど細かい事は考えて無かったが、まあそんなとこでも良い。
「どっちでも良いけど、あたしバイトなの。行くなら早くして」
薇さんは補習だと言った。
「あたしも受けたけど、期末テストの補習って学期末じゃなかった?」
墓終は訊き返した。
「あっ……が、学期末は……が、学校に、来てなかったので……」
クラスが違うとその辺の事情は知らない。つまり僕は、その理由を知っていた。墓終からの視線を受けて、代わりに口を開く。
「家の事情で、七月中は登校できなかった、んだよね?」
「あっ……そ、そうです……」
薇さんの家は、この辺りでは有名な「名家」だ。
薇一族。
薇字名はその
「そういえば、去年もそんな事あった気がするわ」
僕ら三人は正門に向かっていた。
運動部の部活も、今日のこの熱射の下では行われていない。夕方になっても活動できるのは精々水泳部くらいだが、プールは校舎から対角線上の隅にあり、その喧騒はここまで聞こえてこない。
「でも補習受けたって事は、あんた、試験の点数悪かったんだ。そもそも頭、そんなに悪かったっけ?」
「あっ……は、はい……。い、いえ……えっと……し……集中力が……な、無くて……。それで……ご、ごめんなさい」
「別に。誰に謝ってんのよ」
「あっ! えっ……ご、ごめんなさい」
校舎の角を曲がる。
「さんどめッ!?」
「あれ〜っ!」
一度目が頭突き。二度目が体当たり。
今回は誘惑だった。
幸か不幸か、柔らかくて温かい何かが僕を押し倒したが、後頭部には鼻より強く鋭い衝撃をもろに受けて、両目から星が飛び出さんばかりの痛みを覚えた。さらにそのまま、ほのかに甘く良い匂いに潰され、息ができなくなる。
「ご、ごめん! ごめんね! 大丈夫?」
真っ暗だった視界に、ボタンと襟のある白いブラウス、黒いスーツのジャケットが遠ざかる。手足を絡ませるように僕に乗っかってきたのは、女子生徒じゃなくて女性だった。
前髪を斜めに切り揃えた黒のミディアムヘアと、スーツ姿のよく似合う純粋そうな丸い顔立ち。
八の字の眉が僕の顔を見て、僕の上から急いで立ち上がる。顔の下、左腕が無いのを見て……
「ぅわぁ!?」
と。さも自分の所為のように、口元を両手で覆った。
「いや、最初から無いから」
冷静なツッコミが入り、僕は笑いながら立ち上がった。
「えっ……そ、その、ごめん。大丈夫?」
僕は女性に左肩を向け、無い腕を振って見せた。
「大丈夫ですよ。柔らかくて良い匂いだったので、あと何回かお願いし」
背後から左肩に、パンチが一発送られてきた。
「こいつは大丈夫。流石に、同情するけど」
続いて同情を受ける。
女性はスーツの砂埃を払い、僕と二人の女子生徒を見て、「気を取り直して」といった感じで、笑顔で挨拶をし始めた。
「ごめんね。私は
と、カバンを肩に掛け直しながら、琴石九留見先生はそう告げた。
苗字が琴石九、名前が留見、と。
教育実習生。教育を実習する生、と。
「名前を訊いても良い?」
「絲色
「二年A組。墓終結空、です」
「……ぜ、薇字名、です。二年C組、です……」
「絲色さんと、墓終さんと、薇さん、ね。みんな二年生だね。ちょうど私も担当は二年生なんだ」
「二学期からなら、なんで今日ここに?」
墓終は、琴石九留見先生に尋ねた。同級生からも教師からも、その印象や評価があまり良くないのは、怖いとか冷たいとか言われそうな、その喋り方が一因だろう。隠れ切れてない、気性が荒そうな性格からかもしれない。
「また、失礼な事考えてない?」
……とはいえ、それも彼女の魅力なのだろう。きっと。たぶん。少なくとも僕はそう思います。はい。
けれども流石は教師見習い。
琴石九留見先生——くるみ先生は人当たりの良さそうな笑顔を墓終に向けた。
「本当は一学期末に、全校朝会で挨拶する予定だったんだけどね……システム上の手続きに問題があったらしくて、登録自体が結局昨日になったの。でも昨日は昨日で、乗ってた電車が止まっちゃってさ。結局来学期に挨拶する予定になったんだけど、物理上の事務手続きだけ今日済ませる、って事になっちゃって。でも昨日の遅延の影響で結局、今日もまたこんな時間になっちゃった」
急いでいた焦りか、思わぬところで生徒と接する事になった緊張か、くるみ先生は捲し立てるように早口で言った。
最後に照れ笑いを見せ、ひと息吐く。
「ところで墓終さん。二年生の職員室ってどこかな?」
「……まず受付に行くべきでしょ」
「じゃあ受付って、どこかな?」
「……こっち、です……」
墓終に任せっきりも良くない気がしたけど、慣れない人に強めに来られている墓終は、割と珍しい……なんでもないです。
歩き出すと、くるみ先生は墓終の隣に並んだ。薇さんと互いに見合って、示し合わせたように僕らは、二人の背後に付いて行く事に。
天九ヶ丘高校の構造は少し複雑だ。今歩いているのは、正門と平行に構えられた校舎の前方。正門と校舎——その間には何故か、池が二つある。薄く藻が張っており、奥には小さな亀と金魚が数匹いるはずだ。くるみ先生は正門から入ったのか、或いは西門から入ったのか、どちらにせよ、受付は東側の奥にあるため、その池を大きく迂回した先まで行かなければならない。正門と池の間には、行事や備品の搬入に使われるための、小さな車が入れる程度のちょっとした幅の地面しかない。他の学校もよくは知らないが、学校の正門前にしては、その幅はかなり狭い気がする。その上、裏門からの出入りの方が、職員室や各学年の玄関は近い。
「ごめんね。大丈夫だった?」
くるみ先生は振り返りながら、僕の左肩を見て言った。
「大丈夫です。今日は三度目なんで」
「三度目?」
「墓終と薇さんはついさっき、それぞれ僕に日頃の恨みを仕掛けて来ました。今日はそういう日なんです、きっと」
くるみ先生が二人を見る。片眉を上げた方は、ジトッとした視線で僕を見る。視線が見えない方は、僕に大きく頭を下げた。
「……いじめ、とかじゃないよね?」
「あはは。まさか。今日はたまたまです。……たぶん」
「たぶん?」
「二学期毎日そうなったら、いじめの可能性を考えます」
「その時は、ちゃんと相談するんだよ?」
冗談めかして言ったつもりが、それなりに心配をされてしまった。
開かれた正門がすぐ右手側に。左手側には、正門に向かい真っ直ぐ構えられた校舎が。
——ッ!?
口から声は漏れなかったが、背筋がゾワッとして上を向いた。
——僕らに影が差した。
それはゆっくりではなく、とても素早く。
三人の生徒と、教育実習生の頭上を越えて。
横回転する大きな物体が、緩やかな放物線を描いて通り過ぎた。
赤いボディに、黒い底。
乗り物だ。
乗用車。
金属の塊は、軌道の先に構えられていた校舎の真ん中に、けたたましい破壊音を響かせて突き刺さった。
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