第5話
「わたし、泥棒なのに、捕まえないのね」
女の子が言った。私は微笑む。
「だって私は君から何も盗まれていないから」
「……それもそっか」
女の子はベッドの上に寝転がり、あー、なんでだろ、とこぼした。コップから溢れてしまった水のような、何気ない独り言だ。
「この街はとても治安が悪いの。わたしは誰の子どもかわからない。父親と名乗る男がいて、母親と名乗る女がいて、兄弟を名乗る子どもたちがいる。わたしにはそのどれが本当で、どれが嘘かわからない」
それは、一つ隣の街の出来事なのに、別世界のことのように感じられた。私のいた街はとても平穏だった。教団は怪しいとか胡散臭いとか散々言われていたけれど、街を覆うほどの不穏ではなくて……誰にでも雨風の凌げる家があり、好きなものを好きと言って良い環境があった。
それがどれだけ恵まれていることなのか、この子を見ればわかる。家族を自称する優しくない者たちに囲まれて、犯罪に手を染めるより外ない世界だなんて。
けれど、それも確かに生き方の一つである。それを私は否定できない。何かを信仰することで、その他の全てを否定するなんて、してはいけない。幼い頃、祖母に言われたことだ。
「他人のため、なんて余裕、わたしにはないの。今だって、人のお金だからこんな宿にいる。でも、私の証言一つで、あなたは誘拐犯になるわ」
普通なら、「恩知らず」とでも言うのだろうか。けれどそれは恩を売っている人物の言葉だ。私は恩など売り歩いていない。
「さがしものをしよう、と言っただけだよ」
「探しているものなんて、お金くらいしかないわ。そう言ったらあなたはお財布の中身、全部くれるの?」
「それなら、働き口を探すよ」
女の子はむうっと膨れた。
「……そんなの、あるわけない。まともな仕事ができるのは、まともな環境で育った人だけ」
「それなら、君はこれからまともになればいい」
女の子が、わけがわからない、という表情をする。
「わたしが、今更? 今更まともになんてなれるの?」
「君は君が思うよりずっと幼い。まだまだこれからの人生がある。いくらでも変われるよ。変わりたいと望むのなら」
私がそう告げると、女の子は困惑しながらも、考え込んでいるようだった。それは変わりたいという気持ちが少しでもあるということだった。
けれど、選ぶのは彼女だ。変わりたいなら変わればいい、なんて、他人が軽々しく口にしてはいけない。
「毎日、私の身の回りのお世話なんて、飽きないんですか?」
蘇るのは優しい声。キミカさまが、窓から射し込む日だまりの中で私に問いかけたときのことだ。
私は、あまりにも当たり前のことすぎて、返答が遅れた。飽きるわけなどなかった。
「そういえば、私が昔、あなたの隣で入院していたときも、似たようなことを言っていましたね」
「あはは、懐かしいです。一週間も二週間も、同じ絵本を読んでいたときでしたね。子どもらしくて愛らしかったのをよく覚えていますよ」
そのような話まで、きっちり覚えられていて、私は嬉しいと同時に恥ずかしくなった。
幼い自分はどこまでも無垢で無邪気で……迷惑だっただろうか、とも考えた。
「飽きないですよ。私はあなたのことが好きなんです。夏にふと風鈴を揺らしてくれるような涼やかな声も、日の光を浴びたひまわりのように朗らかな眼差しも、少しだけ手の届かないところに落ちてしまったコインを拾ってくれるような気遣いも、あなたを感じられて、私はとても嬉しいんです」
「ふ、ふふ。あんまり褒められると照れちゃいますね」
キミカさまと言葉を交わせることがとても嬉しかった。けれど、キミカさまはそれを気に病んでいらした。
「私という存在が、教団の皆さんやあなたの人生を縛りつけていやしないかと、いつも思うのです。私自身に何の力もないのに、誰かの人生を強いるような影響があるのが……私は怖いです」
だから、とキミカさまが私に告げた言葉はこうだった。
「あなたはいつ心変わりしてもかまいません。私は神様ではないのですから、罰なんて当てませんから。変われるときに、変わってください」
人は変われるときにしか変われない。変わろうと思わなければ変われない、とあの方は仰っていた。あの方は人への影響力が凄まじい方だったけれど、人に変わることを強制しなかった。だからこそ、教団は在り続けたのだろう。
その精神を私は尊いと思った。だからそれに倣って、彼女が自分で決めるのを待った。
彼女は変わりたいと思っている。でも、変わろうと思えるだろうか。仮初めでも、家族がいるのに。
私は家族を捨ててでも、変わることを選んだけれど。
「わたしね、結構あなたのこと、好き」
「え」
唐突で真っ直ぐな一言に、私はきょとんとした。
「あなたはわたしに痛いことをしない。嫌なことをしない。意見を押しつけない。だからとても、気が楽なの」
それから、少し戸惑いながら、彼女は告白した。
「わたし、今までの生活が辛かったのかも」
「……そっか」
彼女がどんな生活を送ってきたのかは知らない。けれど、痛いことをされ、嫌なことをされ、意見を押しつけられて生きるのは、苦しかっただろう。
私を好き、というのは、嫌いじゃない、という意味だろう。少しでも居心地がいいと思ってもらえたのなら光栄だ。
「変われるなら、変わりたい。でも、行く宛もないの……だから」
少し俯き、女の子は頬を朱に染めた。次の言葉は躊躇いがちに、恥ずかしそうに紡ぎ出された。
「わたしもあなたについてっていい?」
それが、この子が導き出した変わるための手段。
私はその意志を称えた。
「もちろん」
君の居場所が見つかるまで、よければ私を仮宿にするといい、というと、女の子は初めて、てらいなく笑った。
碧い瞳が宝石のように煌めいた。
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