1559年 知立神社 奇跡の戦い
織田信長が死んだことで織田信行と斎藤義龍の間にあった協力関係は消滅し、斎藤勢が尾張に侵攻してきた。
これは柴田、森、丹羽、下方等の織田家の有力武将が防衛を行ったことで犠牲を出しながらも撃退に成功。
ただ信行はやはりというか戦に関しては信長より幾分も劣ることが判明。
彼は信長の様な決断力の早さがなければ、ここぞで博打を打てないタイプであった。
命の賭けどころがわからないとも言う。
人望はあるため家臣の統制はできているし、逆に家臣が居るから織田家はなんとか回っているが、信長という強烈な光に脳を焼かれてしまった家臣達は信行様の能力を疑い始めてもいた。
「これは···計算違いですね姉上」
「まぁ仕方がなかろう。信長に天運が無かっただけじゃ」
とある寺にて尼になっていた濃姫は父である斎藤道三と織田信長の供養を日々送っていた。
信長に息子が1人いるのだが、濃姫との子供ではなかったので子供のいない濃姫は尼となる道を選んだ。
そんな濃姫を姉というのは新五郎という斎藤道三の末っ子で、信長に斎藤道三が死ぬ間際に国譲り状を託して織田家に逃がした人物でもあった。
この頃には元服して斎藤利治と名乗っており、織田家の客将という立場で過ごしていた。
「利治はこれからどうするのだ?」
「そうですね、信長様を討ち取った辻鬼の所に行ってみようかと思います。僅かな手勢で城を落とす手腕と油売りから成り上がる姿は父(斎藤道三)を彷彿とさせますから」
「そうか···今川が不穏な動きをしているが」
「それは私も掴んでいます。三河の動乱が治まりつつある今、兵を集めて尾張に攻撃に転じようとしているとか」
「織田は終わると思うか?」
「どうでしょう? 信長様が残した家臣の方は粒ぞろいです。まぁ一番上が暗君ではないですが、凡庸なので美濃を取れるかと言われたら微妙ですがね」
そう言って利治は立ち上がると寺を出たのだった。
一方で佐助は今川が兵を集めていると知って、こちらの兵を集め始めていた。
三河の一揆は信長から資金援助があったことが水野様よりわかり、資金提供が無くなったことで一揆勢力は次々に鎮圧され、信長様の死から半年後には完全に鎮圧された。
永禄2年(1559年)には動員を完了した今川義元が出陣。
その兵力は3万にもなり、斎藤家を撃退したばかりでボロボロの織田弾正家は5000名いくかいかないかという兵力しか集められなかった。
水野様は織田弾正家の体たらくに失望していたが、佐助が必死に繋ぎ止めた。
佐助自身は一応1000名の兵を集め、水野家が攻撃された際に直ぐに救援に向かえるように準備をしていた。
そして今川家の目的がなんなのかの情報を集めると徐々に全容が見えてきた。
白右衛門が各地を走り回り集めた情報を統合すると、今川家の西進の目的は尾張の制圧で上洛では無いとのこと。
どうやら各地から流れてくる流民のキャパを超えてしまいそうになっており、領土を拡張しなければ破綻してしまうのが今川家の内情らしい。
どこの国も流民の扱いに困っており、武田信玄は流民を鉱山に送り、すり潰しながら金の発掘をし、北条家は税収を下げ、各地を開墾させることで対応していた。
今川家は従来のやり方とはまた別のやり方で流民を対応した。
まず仮名目録等の決まり事を細かく決めることで今川家が揉め事に介入しやくすし、罰を与えることで支配を強化、罰して空いた土地や荒れ地に流民を流し込み、治安を悪化させ闇市を作らせ、闇市が拡張してきた段階で闇市の頭を罰して子飼いの部下に代えて闇市を座や普通の市へ変えることで税を取れるようにする。
闇市で物を売るために自然と開墾が進むので座や市になった時に開墾した土地の目録をつけて流民を農民へと変化させる。
こうすることで強い政府が出来上がり、今川家のトップダウン式···絶対服従のピラミッド社会が形成された。
利点として命令伝達が早く、動員兵数も多くなる。
欠点としては頭が潰れたり馬鹿だと社会全体が崩壊するし、流民のキャパを超えると流民による治安をコントロール出来なくなり、大規模な一揆が多発し、国力が大幅に低下する点がある。
つまり?
食物連鎖と同じで一つ狂えば全てが崩れるのである。
従来の王道では東海三国···特に三河統治は不可能(気に入らない上司は直ぐに殺す蛮族の地がこの頃の三河であり、一世紀近く三河は纏まりがない。唯一纏められた松平家も二代揃って家臣に暗殺されてしまっている)であり、今川は覇道によって国を治めることにしたのだ。
そして今川家は武田家と北条家と三国同盟を結んでおり、背後は互いに固めることができていた。
三河の大規模一揆がなければ5年は早く尾張に侵攻していたであろう。
「白右衛門どう動くかわかるか?」
「はい、先鋒は松平元康(後の徳川家康)という若者が率いております。彼の目的は山口親子の鳴海城に物資の運搬を行い、尾張侵攻の拠点を整備することかと。今川本隊はまずは邪魔な水野家を潰しにかかると思われます」
「先鋒隊と本隊との距離は?」
「あまりなく2日ほどのズレかと」
現在織田方と言える三河の勢力は水野家くらいしか残っておらず、奥三河や東三河等の地域は今川家により掌握されていた。
「勝ち筋としては今川義元の首を取ること···か。大軍が細くなる場所を探し、奇襲をかける···それくらいしないと不味いな」
目的が尾張制圧かつ、今回の侵攻が失敗したら今川家は流民のキャパオーバーで自壊してしまうので背水の陣である。
損害度外視で突っ込んでくると思われるので頭を潰すしか勝ち筋はない。
織田の全勢力を集めても今の織田家の求心力では1万に届かいのだ。
信長様が生きていれば1万は超えただろうが、内輪揉めと斎藤家との戦で消耗している中での今川家信仰である。
「斥候を多く放ち、今川家の本隊を探させろ···こういう時に忍びが欲しくなるな」
「生き残ったら忍びを雇いましょう!」
「生き残ったらな」
白右衛門に斥候の部隊を編成させて出陣した今川家の探りを行った。
佐助が覚悟を再び決めた頃、織田領内では今川家と内応する勢力が出てきていた。
熱田の町である
信行側であった纏め役の加藤を信長が見せしめで処刑しており、熱田宮司の千秋季忠は信行と敵対していたこともあり出陣命令を拒否。
この姿勢を見た商人達は織田家が負けると判断し、兵糧の売り渋りや織田家の証文の叩き売りが発生。
これの前に当主になった信行が信長が発行していた証文を認めない旨を行い、信長に貸付けをしていた商人たちが大打撃を受けた報復という意味合いもあった。
この動きに草子と道海が動き、叩き売りされていた証文を捨て値で買い取り、道海が今川家領内で今川の証文の空売りを行い始めた。
二人···いや、佐助達は今川家が負けることに全ベットし、勝てば向こう二十年は金に困らない、負ければ全てを失う大博打を行った。
「吉兆が出ておる。知立神社。天候は不良!」
「気温が下がってきており、ちょうど水野を攻めるためにここに本陣を置く可能性が高いです」
お玉は占いで、白右衛門は斥候した結果から場所に目星を付けた。
松平元康率いる別働隊が鳴海城に入った事も確認した。
「出陣!」
俺は守兵を含めた全兵力···それこそ10歳から7歳までの俺の男子達をも動員した戦であった。
夕方に出発し、夜になると雪が降り始め、夜が更けてくると吹雪となっていた。
雪が積もる前に移動する。
白右衛門が道案内をし、獣道を通ると今川の大軍が知立神社を中心に陣取っていた。
「川の水嵩が浅い···これなら渡れる!」
知立神社の近くを流れる川の水位がたまたま下がっていた為、暗闇の中でも渡河することに成功する。
川から夜襲をかけてくると思っていなかった今川家は川方面の陣が浅く、吹雪で火も消えてしまうので多くの兵が村や町の家屋に避難しているのも幸いし、奇しくも浸透強襲の様な形になる。
見張りの兵士を素早く倒し、吹雪の為に矢が使えないし、足音は薄く積もった雪で消えてしまった。
完璧な奇襲となり、知立神社に居た今川義元他重臣達は軍議を開いていたが、神殿の裏戸が押し倒されて侵入した時に始めて敵襲に気がついた。
雪崩込んだ佐助率いる辻鬼軍は今川家の武将や兵を見つけ次第殺しまくり、今川義元自身は槍を持って奮闘するが、室内だったために木像に槍があたった際に穂先が木像に喰い込んでしまい、その隙を草子の長男(神風)と服部一忠が槍を腹部に突き刺し、首を毛利良勝が討ち取った。
松井宗信、井伊直盛、久野元宗、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳等の主力武将や侍大将、一門衆の多くがが混乱の最中討ち死に。
異変を感じ取った部隊が知立神社に突入するが、雪で思うように動けず、吹雪による視界不良も相まって戦力の逐次投入の様な形になり、次々に今川の兵や将が討ち取られていった。
主要な首を持ち出して佐助達も知立神社から脱出。
吹雪の為逸れて凍死してしまった兵も出たが、868名が水野家の拠点である刈谷城に逃げ込むことができた。
吹雪が止み、水野信元様が刈谷城に駆け込んで首実検を行うと今川家の重臣達や名のしれた将がのけなみ首だけになっていたので驚愕し、今川の軍が崩壊したことを意味した。
この報告は数日遅れて尾張にも届き、今川義元や重臣が多数討ち取られた事、東からの脅威が無くなった事を意味した。
水野様は直ぐに今川軍が大敗したことを誇張し、空城になっていた三河の城を次々に攻め落とした。
この攻略戦に辻鬼軍も参加して幾つも城を落とし、三河から今川勢力を駆逐することに成功。
残っていた今川の兵は次々に逃げ出して今川遠征軍は崩壊。
今川家は家中の柱が折れてしまい、家が傾くと同時に、尾張に乗っこた今川勢が孤立するということにもなった。
その今川勢を数日遅れで今川壊滅の報告を聞いた信行様が諸将を集めて鳴海城等の今川拠点を攻撃。
松平元康等が奮闘するも城の落城と共に戦死し、尾張の今川勢力も駆逐された。
信行様と水野様の間で協定が結ばれ、尾張は織田、三河は水野と取り決めを行い、俺は今川侵攻により挙兵し、鎮圧された服部友貞の領土である河内一帯が与えられた。
この土地は尾張西部で、津島や熱田と近く、土地の広さも1万石近くへの加増であった。
また西部の切り取り自由も与えられて、俺は西に勢力を伸ばす権利が与えられるのであった。
証文は勿論売り捌き、莫大な富を築けたと佐助の日記に書かれており、その額は尾張一国の石高に匹敵する物であった。(50万石程度)
そのお金と広がった領土を家臣達に分配したことで忠誠心を得ることに繋がったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます