ヤンデレオムニバス
ホノスズメ
第1話 守り傘
「大丈夫?」
天からうねる豪雨がビール傘を打ちつけてくるなか、わたしは橋上で足を止めた。全身がびしょ濡れになった幼い少女だった。目を伏せ、泥水のあふれそうになっている川を見下ろしていた彼女は、私に気がついてこちらに視線をよこしてくる。
「はい、ちょっと考えごとしていたので……」
————ゆえに気にせず消えて。
細々とかえしてくれたものの、そっぽ向いて明らかな拒絶で仕切りをたてた。それが不快というわけでもなく、雨に心をそそがれていた私は気にも留めず鼻歌を歌ってその場から去った。
それからというもの、雨の日にはときどき彼女と居合わせるようになった。
ある冬の小雨の日に、バス停で雨宿りしている彼女は柱に身を任せ、頬を濡らしているところに交差した。
「大丈夫?」
「ぐすっ、あなたは……大丈夫です。どっか行ってください!」
「はいはーい」
にらみつけてくる彼女にひらひらと手を振ってその場を発つ。あれならまだまだ頑張れそう。かすかな憂いをかき消した。
ある晩春の葉桜道で真っ暗な夜空を見上げているとき、糸雨のむこうからとぼとぼと彼女が歩いてきた。身長も少し伸びて、顔立ちはあどけないが体つきはやや丸みを帯びてきているようだった。制服が体にはりつき、もう幼女とは言えなくなっていることに人の成長の早さを感じて目を細めた。
「大丈夫?」
「あなたは……大丈夫です。気にしないでください」
「そうかい、それは僥倖」
深く息をついた私は、彼女とのすれ違いざまに自分の持っていた黒い傘をするりと手渡す。
「あ、ちょっと……行っちゃった」
身綺麗になってもやつれていることに変わりない彼女は、どうにも哀れだった。だからか自分の半身を渡すなんて……馬鹿みたい。雨音静かに嘲笑した。
その日から、雨の日には必ずと言っていいほど会うようになった。
ある時雨の日、焼けた夕雲と昏い水平線を堤防の上で胡坐をかいて観察していると、寄る辺のない不安げな声をかけられた。
「あの」
「……また会ったね」
少女とはもう言えないように育っていた。短く切りそろえられた艶やかな黒髪、血の気が戻り瑞々しい色白の肌。さぞ学校では慕われていることだろう、それならもう私が……。
我知らず寂しい笑みがもれた。
彼女は黒い傘を手にここまで来たようだった。あの町から数里は離れているのに、なにをしに来たんだろうか。ま、きにすることでもないか。傘を回しながら海へ視線を戻す。
「いつもは町にいるのに、どうして今日はこんなところにいるんですか?」
薄黒いカーテンが凪いだ海原をおおいつくし、彼女の足音がすぐ後ろまで近づいたのが分かった。
顔を向けることなく、傘で彼女から見えないように遮る。
「どうして、ねえ。気分としか言えないよ。それよりも、もうすぐ雨が止むから傘はいらないよね?」
「なんですか急に、おかしいですよ今日のお兄さん」
いぶかしむ彼女がぎゅっと持ち手を握りしめたのが、見えずとも感じ取れる。満たされた気がして鼻を鳴らした。
「もうその傘は必要ない、なら返してもらっていいかい?」
「嫌です!」
透き通るような美声とともに、なにかが傘に押し付けられて持ち手に力をこめる。
次第に雲に切れ目が入り、深青の青天井から天使のはしごが降りてくる。
「駄目だよ」
きっぱりと余地なく私は
「さ、もう夢路はもう終わり」
「い、いやっ。お願いだからそんなこと言わないで!」
手を差し出して夢の橋立を渡すよう催促する。かぶりを振る彼女からそれを奪わなければならないのは心苦しいが、やむを得ない。
傘を消して後ずさる彼女に歩みよる。
「っぐす、これだけは……どうか」
「ごめんね、でも君に私は必要ない」
「そんなことない!だからぁ」
私の胸板を掻き抱いて額を押しつけてくる彼女になにも言えず、むせび泣く
だんだんと体の境界線がなくなっていく。それは存在としての命題を果たし、道具としての意義を失いつつあることの証左だ。
ああ、こんなにも温かい涙を……。
「背理はできないね」
彼女は私の体が薄れていっていることに目をうるわせ、背中に手を回してこれでもかと締めつけてくる。
「……ごめんね。一緒に居てあげられなくて」
「いや、いやぁ……ああ、あああああ!」
その場にはもう、空を震わせる慟哭だけが響き渡っていた。
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