『山下のぼる』について

おくとりょう

知人の本

 最近よく読書会をされている方々がオススメの本を募集されているのを見かけたので、知人の書いた本を薦めた。

 タイトルは『隣人の肌はあまり燃えない』。文芸作品っぽい趣きだけど、ホラーやミステリー、SFともとれるお話。本屋さんによっては、児童書やファンタジーの棚に置いてあることもある。先日、大きめの本屋さんを訪れたときには、何故か写真集の棚にあった。お客さんがテキトーな場所に置いたのかと思ったけれど、一緒にいた友人はのめり込むように読み始めた挙げ句、「まぁ、これも写真集とも言えなくもない」と小さく呟くと、大事そうに胸に抱えてレジへと向かった。

 私の感想も書きたいところだけれど、たぶんネットを探せば、私なんかより深く読み解いて、上手に言語化する人もいるだろう。それにネタバレを避けて書くこともできない。事前情報なしに楽しんで欲しい本なのに。


 というわけで、ここでは「山下のぼらない」のことを書こうと思う。山下のぼらない、本名「山下のぼる」。すごく良い名前だと思うけど、本人は「『山の下』に『のぼる』なんて、親は一体どこに行けというつもりで名前をつけたのか」といつも冗談めかして言っていた。とはいえ、ペンネームにするくらいには本人も気に入っていたのだろう。彼が本を出したと人づてに聞いたときに少しホッとした気持ちになった。


 彼と私は小学校から高校までずっと同じ学校だった。別に親しいわけではない。それどころか、あまり話したこともなくて、ただ何となく知ってる人。腐れ縁というにはあまりに乾いた関係。視界の端に居たり居なかったりする人。ただ、たまに目が合うと、見返してくる黒い瞳が印象的だった。その視線が何とも不思議なんだけど、別に嫌な感じではなかった。

 でも、高3の夏休み。彼が体育館の裏でイジメられるているのに遭遇した。……いや、違う。「イジメられる」というと、少し語弊がある。暴力をふるわれているのに遭遇した。

 言葉で書くと伝わらないかもしれないのだけど、語弊があるというのは、彼の様子がちっともイジメられているようには見えなかったから。普通、他人から暴力をふるわれるのは、心身ともにストレスで、身体の痛みとともにプライドとかも傷つけられるものだと思う。実際、イジメられている人の表情は、逃避か怒りや嫌悪感に満ちている。

 だけど、彼は違った。珍しいものでも見るみたいにイキイキした表情で、頬は恋でもしてるみたいにほんのり赤く染まっていた。ただ、その瞳は真っ黒だった。そこにはキラキラとした世界が映っているようでいて、何の光も感じられない。

 きっと殴っていた子たちはそれが怖かったのだと思う。でも、暴力をふるう度に彼らの顔は歪んでいき、最終的にはどっちが虐めていたのかわからないような顔をして、しまいには「このドM野郎が」と叫んで逃げていった。

「先生には言わないであげてね」

 立ち上がった山下くんはドロドロだけど、どこか充実した顔をしていて、山草採りでもしていたみたいだった。

「何それ」

 相変わらず、どこを見ているのかわからない目をした山下くん。私は何だかその瞳に吸い込まれるような気がして――。


 ひょっとすると、彼の目に映る自分自身を見たかったのかもしれない。もしかすると、殴っていた子たちも私と同じ気持ちだったのかもしれない。


 キョトンした顔で唇をなぞる彼を見ながら、ぼんやりそんなことを思った。

「なんで?」

 と聞く彼に「ごめん」と謝ると、「気にしないで」とすごく嬉しそうに笑った。それから、彼から話しかけてくることが増え、たまに一緒に遊んだりした。新しくできた喫茶店へケーキを食べに行ったり、単館ものの映画を観に行ったり。彼のおかげでオシャレなお店を知り、彼のおかげであまり宣伝されない映画のことを知った。


 だけど、二度とキスはしなかった。あの黒い瞳が期待するように私を見つめることが何度かあったのだけど、その度に気づかないふりをした。彼が何を考えているのか、気づかない方が幸せな気がした。

 そのうち、彼に誘われなくなって、大学はお互い別になって、気づけば彼のことを忘れかけてた。


 ある日、高校の同級生に会った。あの日、山下くんを殴っていたひとりだった。通勤ラッシュのホームで、線路に飛び込みそうな顔をして突っ立っていた彼。思わず話しかけると、泣きそうな顔で微笑んだ。あの日みたいな表情で、土のような顔色をしていた。

 つい懐かしさよりも不安な気持ちが先に立って、とりあえず、側にあった立ち食い蕎麦に一緒に入る。

「あのさ。俺、仕事もう辞めるわ」

 トッピングなしの素そばをすすりながら、焦点の合わない目でつぶやいた。どうやら、仕事で失敗が続いたらしく、酷く落ち込んでいるようだった。ぽつりぽつりと語った後に、「そういえば。山下、本出したんやで」と言って、文庫本を取り出した。そして、「ホンマに本やでぇー」とクスクス笑いながら、人混みの中に消えていった。彼の器にはまだ蕎麦が残っていて、代わりに食べてしまおうか迷ったけど、やめた。ただ、山下くんの本はありがたく読ませてもらうことにした。次に会ったときに返せばいいだろう。

 読む前に、じっと本を眺める。白い雲に浮かんだ青空の背景に紫色の花が撮られた写真の表紙。見たことのある花の気がしたけど、名前はわからなかった。ほんの少しの間とはいえ、友人として過ごした彼が書いた本。何とも不思議な感じがした。表紙をめくると、他の本と同じようにインクと紙の匂いがした。


 ――「そうなんだ」

 読み終わったときに自然とこぼれた私の言葉。乾いているのに、妙に澄んでいて、私の声じゃないみたいだった。本の表紙に色が似てる気がした。

 似てるといいなとぼんやり思った。

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