珈琲の香りと共に

呉根 詩門

かの者の祈りが届く事を願う

マイルス・デイビスの甘く切ないトランペットの響きが、まるで外の雨音と重なる様に、どことなく、悲しくまた、切なく店内に響き渡っていた。アルバムは、カインド オブ ブルー。マイルス・デイビスがまだ若く、意欲的に力強く音色を豊かに響かせていた頃の一枚だ。そして、今は梅雨時の午前10時、本日の珈琲豆の焙煎を終え、湯を沸かす。本日の珈琲豆は、グアテマラ。コクと苦味が特徴の常連さんには好評の一品。私は、開店する前に必ず一杯、味と香りを確かめる為に本日の珈琲を、淹れる。豆ををミルでゆっくりとひく、粗すぎず、細かすぎない、ちょうどいい加減。そして、ネルドリップでゆっくりとお湯を注ぐ。アンティーク調の年季の入った、薄暗い店内一面に豊かな珈琲の香りが広がった。私は、淹れた珈琲をカップに注ぐと、まずはじめに香りを確かめた。そして一口ゆっくりと飲むと、今日の一杯を味わった。今朝淹れた一杯には微かに雑味が混じっていた。まるで私の心の内が現れているかの様に。

 私は、内心溜め息をつくと、気分を変える様にコップに一杯水を飲んだ。そして、ゆっくりと店頭に出てCLOSEからOPENへとプレート裏返した。そして、空を見上げると、黒く淀んだ空から、更に気が滅入る様に雨足が徐々に強くなってきた。


今日は、お客さんは来ないな


そして、私が店に戻ると知らぬ間にターンテーブルのトーンアームが静かに戻っていた。暗く湿った店内は、ただただ静寂のみが支配しているのみ。私は、ターンテーブルに行くとレコード盤を裏返して再び針を落とした。マイルスのトランペットが再び響き始めると


ガラン、ガラン


と、勢いよく入り口が開く音がしたので、私は、ゆっくりと振り向くと


「なんなんだこの天気は、テレビでは多少雨が降りますって言っていたけど、これはまるっきり豪雨じゃないか。」


「いらっしゃい。信さんもうサボりに入ったのかい?」


今、入ってきたお客さんは普段から、くたびれたスーツを着ている上に恐らく歳は40代。多分会社ではうだつの上がらないイメージのある常連客である信さんは、普段より更に雨に濡れて惨めな格好で渋い顔でぶつぶつ言いながら店の中に入ってきた。


「こんな天気で外回りなんてやってられないですよ。マスター、今日の一杯。」


信さんは、ドカっとカウンター席に座ると、ハンカチを取り出して頭を拭き始めた。私は、カウンターから、サッと乾いたタオルを一枚差し出すと


「信さん、よかったら使って。」


と手渡すと信さんは「ありがとう、ありがとう」と言いながら、頭や顔をゴシゴシと乱暴に拭き始めた。私は、信さんから、雨の匂いを感じながら、棚からグアテマラの珈琲豆を取り出すと慣れた手つきでミルに一杯分計りながら入れるとゆっくりと回し始めた。


マイルスのトランペット、外の雨音、ミルの豆を引く音、それがこの狭い世界に一つとなって広がっていた。


信さんがスーツの裏側に手を差し入れたのを、私は目に留まると、諭す様にゆっくりと


「信さん、前にも、都の条例でここも禁煙になったって言いましたよね、吸うなら外へ出てください。」


「マスター、せっかく乾いてきたのに、また濡れろと言うの?」


恨めしい様に睨んできたが、私は臆することなく、はっきりと


「決まりですから、文句があるなら、信さんが都知事になって変えれば良いんですよ。」


信さん、軽く舌打ちをすると今度は、黙って私が珈琲を淹れる姿をただ黙って見つめていると、出し抜けに


「そう言えば、マスターには、お子さんや奥さんいないの?俺もここ長いけど、今まで一度も話題になって出て来なかったから、気にはなっていたんだよね。」


私はその台詞を聞いた瞬間、豆にお湯を注いでいた手を止めて、ゆっくりと目を閉じた。


武史…茜…


私がよほど沈痛な表情していたのか、信さんは取り繕う様に強張った笑顔を作ると


「マスター、ごめん。なんだか急に立ち入った話で…」


「いや、いいんですよ…全く面白い話ではないんですが…」


信さんは、笑顔から打って変わって真剣な表情でただ黙って私の言葉を待っていた。


「私には、妻と子供がいました。妻の名前は、茜。子供は、男の子一人で武史。」


私は、ゆっくりとお湯を注ぎながら、徐々に珈琲豆が膨らんで、一滴一滴サーバーに珈琲が落ちるのを見守っていた。


「マスター、いた…と言うのは?」


その言葉から私の頭には、茜と武史との様々な思い出が一瞬走馬灯の様に駆けた。


私は、注いでいたコーヒーケトルを置くと、しばらく呆然と宙を眺めた。


あれから、どれくらいの時が経ったのだろう…もう、ありとあらゆる私の記憶を総動員しても、顔を思い出すのにかなり困難となって多くの時間が必要となってしまった。


本当に、現実は、残酷で哀しい事に溢れている。


「マスター、マスター」


呆然としていた私を信さんが呼び戻すと、私は、今まで浸っていた郷愁を断ち切る様に、にっこりと笑って


「この話はこれで終わりにしましょう。本当に楽しい話ではないので。」


と言って、サーバーからカップへ珈琲を注いで信さんの前に置くと


「本日の珈琲は、グアテマラになります。ごゆっくり。」


いつも通りの笑顔を、信さんに送った。しかし、普段なら屈託のない笑顔で応える信さんだが、どこかしら気まずそうな顔でただ一言


「ありがとう。」


と言って珈琲に口をつけた。信さんの様子をら伺うと私の笑顔や雰囲気がかなり曇っているなかもしれない。そんな印象を与えてる私は、接客業失格と言われても文句も言えない。まさに、私の心は外の天気と同じく、終わりのない後悔と寂しさで絶える事が果てなかった。


店内には、沈黙のみだった。ここにあるのはただ雨音とマイルスのトランペット。重い空気の中、いくらか経った頃マイルスの演奏が終わったので、私は気分を変えようと、レコード棚からレナード・バーンスタインのウエストサイドストーリーのレコード盤をターンテーブルに乗せて針を落とした。現実とかけ離れた陽気な演奏が響く中、信さんがもぞももぞと財布を取り出し小銭をカウンターに置くと、再び硬い笑顔を作って


「マスターご馳走様。また来るね。」


ミュージカルの陽気な音楽が響く中、それとは対照的に信さん後ろ姿は、気まずい影が遠く伸びていた。


私は、信さんを見送った後、独り黙って店番をしたが結局、天候もあってかお客さんその後誰も来なかった。


私は、店の2階にある自宅に帰宅すると、とりあえず、牛乳を温めて、アッサムの紅茶をティースプーンで数杯入れてロイヤルミルクティーを作った。それから私は、それにたっぷり砂糖を入れてゆっくりと飲んだ。私は、飲みながら店番している時に始終頭の中に占めている取り留めのない茜と武史の思い出を払おうとするけど、むしろ徐々に膨らんで大きくなっていった。


私は、ソファーに体を沈めると、今にも武史が


「お父さん、見て見て。」


と私の元に駆け寄り茜が


「武史、お父さんは、疲れているから、休ませてあげなさい。」


と、今は亡き2人の影が独りでいるはずこの部屋に今でも生きているかの様に私の目にありありと写った。


私は、何かに突き動かされてる様に、自宅を出ると、雨は止んでいた。そして、閉店間際のスーパーに行き、茜の好きだった紫陽花の花束と武史が好きだった、お菓子とジュースを買って、2人がこの世に最後に存在していた、事故現場へと赴いた。


そこは、見晴らしのいい十字路で事故とは無縁のはずなのに、高齢者が運転する車がアクセルとブレーキの踏み間違いで2人は、何の猶予も容赦もなく無慈悲にこの世から消されてしまった。今でもあの時、私が2人に買い物を頼まなければこんな事にならなかったと、何度も想い悔やんでも悔やみきれなかった。もう、すでに私には、涙が完全に枯れ、ただただ2人の冥福を祈る様に花束とお菓子とジュースを置くと黙祷を捧げた。目を開けて空を見ると煌々と光る朧月夜に、負けないくらいの明るい流れ星が2つぼやけて駆けているかの様に見えた。


私は、ただ独りこの世界に残されて、かけがえのない大切な人を失った虚無感と喪失感が再び襲って来た。私は、もう流れるはずがないと思っていた涙が絶えることなく嗚咽と共に溢れてきた。


その時、私の耳に間違いなく


「お父さん。」


と、何年も聞きたくても聞けなかった一生忘れる事ができないその一言がまるで私を見守ってくれているかの様に空から優しく降り注いだ。私は


「茜…武史…」


と、大切な2人の想いを受け止めるかの様に大きく天を仰いだ。するとまた再び流れ星が流れるのが見えた。例え世界は隔てられても確かに私達の心は間違いなく通じあっている。今この時の感情を抑えきれず祈るかの様に大きな声で叫んでいる自分がここにいた。


「愛している。」


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珈琲の香りと共に 呉根 詩門 @emile_dead

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