第1章 会田愛菜 3

<1日 夜>

昨日受けた蹴りのせいで、一日中動けなかった。

口にしたのは、昨日汲んできた水だけ。

あの後、意識を失ったまま、気が付くとやはりいつもの布団の上に転がされていた。

とは言っても、息もできないほどの痛みと朦朧とした意識のせいで、ほとんど眠った状態だった。

やっと水を口にできたのはついさっきのことだ。

(まためがさめちゃったな)

いつもの天井が見えた時、目が覚めてしまったことに絶望した。また一日が始まる。痛みに耐える一日が。

意識がはっきりしたのは、もう夕方だった。

母の気配もあの人の気配もない。

物音ひとつしない部屋の中で、体は痛いが心は落ち着いていた。

どうせ声も出せない。明かりも付けられない。

布団の上でただ寝ていることしかできなくても、これ以上痛い思いはしなくてもいい。今だけは。

恐怖することも、涙を我慢することもしなくていい。

「コホッコホッ」

相変わらず咳は止まらない。

咳をするたびに痛みが体中を襲う。グウゥという悲鳴にもならない声が出る。

それは息をするだけでも痛いのに、その痛みをはるかに超えてくる。

その度に息を止めなければならないが、息を止めると更に咳が出る。

その繰り返しだった。

顔が熱く、冷やしたくても昨日の布巾は見つけられない。

代わりに空になったコップを顔に当ててみる。意外にひんやりしていた。

「コホッコホッ」

咳は止まらない、痛みも止まらない。

気を失ってしまえば、痛みも感じないだろうが、自分で操作できるわけでもなく、耐えるしかない。

我慢することには慣れていた。というか、我慢することの意味を理解はしていなかった。

痛いことはいつものことで、それがうちのルールで、当たり前のことだったからだ。

欲しいものは食べ物や飲み物で、それ以外のものを知らない。

家にあるものが全てで、母とあの人は絶対で、それが普通だから。

比べることも、お手本にするものもなく、布団の上だけが自分の世界で、テレビで見る世界は所詮、夢と同じ。触ることも感じることもできない。

いつか行ってみたいと思う気持ちはあるが、それができないことは分かっている。

だから、夢と同じ。

痛みに耐えることも当たり前でしかない。

だから、せめてあまり痛くないように、痛くてもそれが和らぐように考えることだけが現実的だった。必要なことだった。

お腹がすいたらキッチンで食べ物を探す。何もなければ水をたくさん飲む。たまに出されるご飯は残せるものは残す。これはなかなか難しい。お腹がすいていると、つい全部食べてしまうことの方が多かった。でもこれも必要なこと。

母がいてもいなくても、玄関へは行かないこと。人に見られてはいけないこと。声を出さないこと。泣かないこと。許可なく母のものに触らないこと。これは母との約束だった。

思えば、ここに引っ越してきてから、あの人以外の人に会ったことがない。

前の家で、知らない人が何人か来て、母と言い合いになってすぐにここへ引っ越してきた。

母は

「約束をやぶったら、お母さんとはいられなくなるから、絶対に守りなさい」

そういっていた。

約束は絶対に守らないといけない。

でも、叩かれれば声も出るし、涙も出る。その度に母の叩く力は増していった。

だから、泣くのは目からだけ。声は出さない。涙は音がしないから。

声を出すのは心の中だけ。そうすれば誰にも気付かれないから。

そうすることが母の望みであり、自分を守る方法だった。

けれど、もう耐えられそうにない。我慢はできる。約束も守れる。でも・・・

(あのひとも、おかあさんも、だいきらい)

嫌いなのに好きな母。何もしてくれないのに、叩いてばかりで、何も聞いてくれないのに、それでも好きで離れたくない母。

それでも大嫌いで・・・矛盾した母の存在。

また悲しくなって涙があふれてくる。見慣れた天井が歪んで、違う形になる。

ああまた眠くなる・・・・・・



「おい、クソガキ、まだ寝てんのか?起きて外出ろ!」

あの人の声で目が覚めた。

いつの間に母と帰ってきたらしい。

いつものようにベランダの窓が開かれる。けれど、動くことができない。

体を動かそうとしても、言うことを聞かず、目から涙が流れるだけだった。

「聞いてんのか!出ろって!」

聞こえている、わかっている。そしてこの後の展開も・・・

動かないことに腹を立てたあの人は、まず足を蹴った。次にお腹を。

痛みで動かない体でも、痛みは感じる。でもいつもよりも鈍い痛みだ。

声も出せないほどに体は弱っていた。

「お前、ほんと聞き分け悪いな。もういいわ、このまま出してやるよ!」

そういうとまた、服の首元をつかんで、ズルズルと今度はベランダに引きずり出された。

冷たいコンクリートの感触が伝わってくる。熱で熱くなった顔にはちょうどいい冷たさだった。

ガタンッと乱暴に部屋につながる窓が閉められる。

ゆっくり目を開けると、ひらひらと白いものが舞っている。

(ゆき・・・だ)

コンクリートの上に落ちては消え、また落ちてくる。

放りだされたままの格好で、落ちてくる雪を眺めていた。

段ボールには入れそうもない。

滅多に降らない雪が今はこんなにもひらひらと舞い落ちてくる。

そっと手のひらを広げて、そこに落ちてくる雪を待った。

一粒の雪が手のひらに落ちてくる。それを力のない手で握ってみる。

白い小さな塊は手のひらで解けて、水になる。

(つめたい・・・)

その光景がなんだかうれしくて、何度も何度も手のひらに受けては握った。

涙は出るのに、久しぶりに笑顔を作った気がする。

やがて、手のひらを握ることもできなくなった。

落ちてくる雪が、手のひらで解け、コンクリートで解けそれをただみていることが精一杯で、もう小指すらも動かない。

不思議と痛みも恐怖もなかった。

静かな夜にひらひらと舞う雪の中でやっと私は自由になれる気がした。

(おかあさん、ごめんなさい・・・)

ガラガラと遠くで窓が開く音が聞こえた気がしたが、もうどうでもいいことだった・・・・

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