第1章 会田愛菜 1
<3日 昼>
瞼が上がる感覚の後、見覚えのある天井が目に入った。
ここは・・・・
意識がはっきりとし始めると、カビと酸っぱいにおいが混じったような不快なにおいが鼻をつく。
視線をずらすと、そこら中に散らかった缶や弁当の空箱、何だったのかもわからない物の中に自分がいた。でも見慣れた光景だ。
カーテンの奥からは日の光が差し込んでいる。
いつの間にか自分の布団の上に私は寝転んでいた。
昨日は母を怒らせて、気を失いここへ寝かされたようだ。
(おきないと)
薄汚れた布団から起き上がろうと体を動かす。
体が重く、そこら中が痛い。
どうにか起き上がって袖をめくると、黄色や青くなった痣がいくつもついていた。
それは腕にとどまらず、足や体にもついている。
押さえるとひどく痛い。
火傷が化膿したのか、傷が赤黒く変色し、血と膿が混じったものが服と布団に付着していた。
(ふとんをよごしたらおこられる・・・)
元々綺麗でもない布団についた汚れをもう片方の袖口で拭ってみたものの、汚れは落ちなかった。
近くにあるタオルだった物に手を伸ばし、袖を元に戻してから重い体に力を入れて立ち上がって、キッチンへと向かう。
こたつでは母がビールの缶を片手に突っ伏したまま眠っている。
アルコールとタバコのにおいが混じり、さらに匂いはきつくなる。
(おこしたらおこられる・・・)
足下のゴミに注意しながら、そっと足を運ぶ。
キッチンまでつくと、踏み台に乗って、少しだけ蛇口をひねり、水をだす。そこにタオルの先を持って行き十分に濡らしてから、またそっと蛇口を閉めた。
布団まで戻る途中に、ふとピザの箱が目に入る。
(おなかすいたな)
中身が残っていることを願いながら音が出ないように、その箱を持ち上げて、タオルと一緒に布団へと持ち帰った。
布団の汚れを濡れたタオルで拭き、さっきよりは目立たなくなった汚れの上に座って、いつの物か分からないピザの箱を開ける。
(まだたべられるかな)
2切れ残っている内の1切れを手に持って、匂いを嗅いでみる。
腐ったにおいはしない。
表面は乾いて、具は縮んでしまっているが、これくらいなら問題はない。
状態を確認した後、それを口に運んだ。
パサパサした食感にかろうじてチーズの風味が残ったそれは、決しておいしい物ではない。
けれど、お腹を満たすだけなら、腐ってないだけで十分だった。
(きょうはすこしだけたべられた)
ピザの空き箱を母に気づかれないようにゴミの山の中に隠す。ばれたら勝手に食べたと怒られてしまう。
例えそれが腐りかけの物だとしても、だ。
濡れたタオルで手と口を拭いた後、また袖をめくって火傷の跡にそっと触れてみる。
ぶよぶよした皮の隙間からまだ黄色い膿が出ていた。それがまた布団につかないように、同じタオルで押さえた。
布団の上で膝を抱えながら、傷に息を吹きかける。こうすると少し痛みがなくなる気がする。
タオルで押さえては息を吹きかけ、またタオルで押さえる。
そうする内に膿は出なくなった。
「んんん・・・・・あぁぁぁぁ」
突然、大きな声が部屋に響いたと同時に、体がビクッと跳ね上がり一気に硬直する。
目を覚ました母と襖の開いた部屋で目が合った。
反射的に手からタオルを放し、ぎゅっと膝を抱え込む。
「あんた、起きてたの?」
母はボサボサの髪を搔きながら、こちらを見ている。
返事をしたいが、声が出ない。
「ああもう、めんどくさ」
そう言うと、こたつから立ち上がり、キッチンの方へ向かっていった。
ガタンと冷蔵庫を開く音がして、またバタンと閉じる音がする。
「何もないじゃん。あんたなんか食べたの?いいよねぇあんたは。何もしなくても食べられるんだから。」
返事を待たず、母は自分の言いたいことを言い切る。
その後もガチャガチャと音を立てながら何かをしていたが、急に
「もうこんな時間じゃない。」
と、大きな声で言った。
母の声にふと時計に視線をやると、11時を回っていた。
「これから仕事にいってくるけど、私がいない時は誰が来ても玄関開けないでよね。
あと、外には出ないで。これ破ったらどうなるか分かってるよね?」
「はい」
小さな声でかろうじて返事をする。
と同時にドタドタと足音が聞こえたかと思ったら、背中に衝撃が走った。
「返事は聞こえるようにしろって何度も言ってるでしょ!」
背中を力一杯たたかれたせいで、体は前へ倒され、衝撃で息が詰まる。
ジンジンと響く痛みと、治りきってない痣の痛みで涙が出そうになる。
(ないたらおこられる)
胃がギュッとなり、バクバクと心臓が鳴り響く。
吐きそうになりながら、涙をこらえて必死に痛みに耐える。
「返事しろって言ってるでしょ!」
何度も何度も振り下ろされる手から逃れることも出来ない。
倒れた体を引き起こされ、右腕を思いきりつかまれ、左右に揺らされ、突き飛ばされる。
痣の残る腕は握られたせいで、ひどく痛む。
「は・・・い」
痛みの中、やっと絞り出した返事で母の手が止まった。
「最初からちゃんと返事しないからよ」
母は横たわったままの私を放置して、再びキッチンの方へ戻っていった。
(こえがでなかったから。へんじがちいさかったから。わるいこだからおこられたんだ)
涙があふれる。でも絶対に泣き声を出してはいけない。だから歯で指を噛んで、声を押し殺す。
肩をふるわせながら、痛みに耐えながら、必死に涙を止めようとする。
(いたいよ、いたいよ、ごめんなさい、ごめんなさい)
たたかれた背中の痛みは少しずつ落ち着いていく。
でも胸の痛みと、吐き気が止まらない。
(だいじょうぶ。このままじっとしてたら、いつもみたいになおる)
そう言い聞かせながら、これ以上母に怒られないように動かず、ただ母が出かけていくのを待った。
母はこの時間帯になると、化粧していつも仕事に出かけていく。
母が帰ってくるのは大抵、夜中か明け方だった。その間だけは安心して部屋の中を歩くことが出来る。
ただし、あの人が来たら・・・・
母が玄関から出て行くのを待って、ゆっくりと足を伸ばす。
掴まれた腕をさすりながら、痛みが和らぐまで待った。
それから大きく息を吸い込んで、呼吸を整えた後キッチンへ行き、薄汚れたコップに水を汲んで一気にのみほした。
母のいなくなったこたつに入ると、まだ少し暖かい。
母のいない時間は、電気もテレビもつけてはいけないと決められているが、いつも少しだけテレビをつける。
音を小さくして明るい内だけ見るテレビの中には、知らない世界がたくさんあった。
チャンネルは変えない。リモコンの位置もそのままで、今日もテレビをつける。
大きな建物の前で、綺麗な女の人が道を歩く人に声をかけている。
言っていることの半分も理解出来ないが、たまに流れる音楽や景色を見るのが好きだ。
最近見たテレビの中で一番のお気に入りは、パンダだった。
長い行列の先に、小さなパンダがコロコロ転がりながら遊んでいる姿は、本当に可愛かった。
動物園という所にいるらしい。
(いつかいってみたいな)
きっと行くことを母は許さないだろうが、いつか大きくなったら、もしかしたらいけるかもしれない。
流れていくテレビの映像を見ながら、一人の時間を過ごした。
しばらくすると暖房の切れた部屋は、だんだんと寒さが増していき、息が白くなる。こたつの中のつま先も冷え切っていく。
長袖の服を着ていても、その寒さは防げない。
仕方なく、音量を戻してからテレビを切って自分の布団へ戻り、毛布をかぶった。
座ったまま頭から毛布をかぶると、さっきよりは暖かい。
足のつま先まで毛布でくるみ、さっき見た大きな建物と、綺麗な服を思い出していた。
(あのたてものはどこにあるんだろう。あのおようふく、ひらひらがついててかわいかったな・・・)
家の窓から見える景色は、どれも同じ形をした物ばかりで、朝方には人の声もするが、殆ど人通りはなかった。
大きな建物も、電車も、猫や犬も全部テレビで見たことがあるだけで、実物を見た記憶はない。
綺麗な服は母のお気に入りのワンピースを何着か見たことがあるが、もちろん触ってはいけないものだった。
冷えてくる手の先に息を吐きながら、布団の上に横になる。
それから布団と二つに折って、その間に毛布と一緒に挟まれる。
こうすると、さらに寒さが和らぐ。
最初のうちは寒くても我慢する事しか出来なかったが、色々しているうちにこの方法を編み出した。
布団の端が痣に当たって、少し痛い。
それでもこの状態は心地よかった。
母が帰ってくるまでの安息の時間。さっきみたテレビの映像を思い出しながら、あれこれ考えているうちに
深い眠りに落ちた。
<3日 夜>
目を覚ますと、辺りはすっかり暗く、カーテンの隙間からは日差しの代わりに、街灯の淡い光が差し込んでいた。
鼻の奥がツンと痛くなるような寒さが部屋の中に充満し、シンとした静けさの中で再び重い体を起こした。
母が帰る前に、布団を直しておかないと布団を取り上げられてしまうかもしれない。
布団から這い出て、整える。
夜になるとさらに寒さを増した部屋は冷蔵庫のように何もかもが冷え切っている。
唯一、自分の体温で温もっている毛布をかぶり、こたつのある部屋まで歩き、食べるものがないか探してみるが、あるのはゴミか腐った物ばかりだった。
(おひるのピザ、ひとつのこしておけばよかったな)
そう思いながら窓の近くへ寄ってみる。
カーテンの隙間から外を覗くと、隣家の窓に灯った明かりが見える。
その明かりを見ると、ほっとする気持ちと、悲しい気持ちが混ざっていつも複雑な気持ちになる。
この部屋に電気が付くのは、母がいるときだけ。暗闇にも慣れた。
それでも、いつか誰かがこの小さな世界から出してくれるかもと希望を持った時もあった。
それが母であったら、どんなにいいか。
でも、いつも母はここから出るなというばかりで、外へ出してはくれない。
いつかテレビで言っていたサンタクロースが外へ連れて行ってくれるかもしれないとも思ったが、いい子ではないから、一度も現れたことはない。
そんなことを考えていると、外から足を音が響いてきた。
何を言っているかは分からないが、話し声が聞こえる。母の声と・・・あの人だ・・・
慌てて自分の布団の場所まで戻り、毛布にくるまって目をギュッとつぶる。
(あのひとがきた!こわい・・・こわい・・・)
体も縮めてなるべく小さくなる。
(こわい、こわい、こわい、こわい)
息が出来なくなるほどの恐怖で小さくした体がガクガクと震える。
その音が聞こえるのではないかと思い、止めようとするが治まらない。
そのうち、ガチャッという鍵が開く音がして、母とあの人が部屋に入ってきた。
何かの会話の後、足音が近づいてきたと思ったら
「おい!くそガキ、外出てろ」
そう言って、ベランダの窓を開けてあの人に毛布と一緒に放り出された。
ベランダの床で頭を打って、痛みが走る。
頭をさすりながら、毛布をたぐり寄せる。
(きょうはなぐられなかった)
外は部屋の中よりも寒い。息は白さを増し、一瞬で裸足の足下から冷えていく。
ベランダには大きな段ボール箱が置いてある。
座れば少しだけ足が伸ばせる程度の箱。
あの人が来るといつもここが部屋になる。
毛布を中に入れてから中に入り、上の蓋を閉めた。
今日は毛布もあるので、少しは寒さがしのげるが、部屋の中とは比べものにならない。
風が吹けば穴や隙間から冷たい空気が入り、雨が降れば、段ボールの底が濡れて服まで濡れてしまう。
そうなると、次の日には風邪をひき熱が出て、母に怒られてしまう。
(きょうはあめがふらないといいな)
暗い中、何もすることが出来ず、体に巻き付けた毛布の端をいじりながら、段ボールに開いた穴から外をのぞき見る。
まだ隣の家の電気はついていた。
時折、人の影が行き来しているのが見える。その影を見ながら何をしているのか想像していた。
(ごはんたべてるのかな。あたたかいおにぎりとおにくがあったらいいな。それをおかあさんといっしょにたべる。あとりんごジュースがあったらうれしいな)
何度か母がくれた温かなご飯。
おにぎりの中にツナの入ったコンビニのおにぎりと揚げたチキン。それとリンゴジュース。
母が機嫌のいいときに買ってきてくれた一番おいしいご飯だった。
その時の母は頭をなでてくれる時さえあった。笑顔で。
でも、あの人が来るようになってからは、一度もそんなことはなくなった。
「あんたさえいなければ」
そう言われてにらまれることの方が多くなった。
考えていると、涙が出てきた。泣いてはいけないのに、声を出してはいけないのに。
声を押し殺し、鼻水を毛布で拭いながら流れてくる涙を止めようと手で目を押さえる。
そうしていると、外で雨の粒が箱に当たる音がし始めた。
(あめ、ふってきちゃった)
まだ止まらない涙を手で拭きながら、毛布の半分をお尻の下に敷く。
箱にあたる雨はだんだんと強さを増していく。
遠くの方ではゴロゴロと雷の音もし始めた。
それでも、部屋につながる窓は開くことはなく、段ボールの中で寒さと雷の音に震えながら、泣くことしか出来ない。
お尻に強いた毛布もだいぶ水を吸っている。
ズボンもお尻から濡れ始める。
それでも段ボールから出ることは許されていないので、立ち上がることもできない。
狭い空間の中では体の位置を変えることも難しく、雨の降っている間中、ただ雨が早くやむことを願うしかなかった。
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