薄ピンクの肉塊
ピピが2人組の行商人から買った薄ピンク色の肉は料理上手な女中の手によって見事な魚料理へと変わった。
料理係の女中が鱗取りを左右に動かすと虹色の鱗がまな板の上に飛び散った。鱗とはいえ綺麗だねぇ、まるで宝石みたいだ。なんていう魚なんだろうねぇと女中たちは口々に言った。
香草で香り付けされ、バターで丁寧に焼かれた魚は芳醇な香りを皿の上から漂わせた。
他の使用人たちが毒味でも良いから食べてみたいねぇと口々に言うなか、ププは自分の手が持つ皿からなんとも言えない嫌な予感を感じた。
あの虹色の鱗の美しい禍々しさはなんだろうか。自分はどうしてこんなに不安に思うのだろうか。ププには分からなかった。
しかし、あらかじめ毒味をしたピピはなんともなかった。ただただうまいと言っていて、皿についたソースさえも舐める勢いだった。
ピピに散々一口食べるように勧められたが、ププは頑なに首を横に振って断った。
確かに皿の上の料理は美しく、美味しそうだ。毒味とはいえ自分が食すには気が引けた。
ーーーきっと気のせいだろう。
料理を給仕することが自分の仕事だ。ププは重たい足取りで皿を運び、エドワルド三世の前に置いた。
エドワルド三世は目の下は色の濃いクマが出ていた。あの歩く快活さはどこに行ったのだろうかと思わせるほど意気消沈し、食事が取れないせいか頬は少し痩せていた。
ぼぅと空を見ていたが、ププが置いた皿の豊かな香りを嗅ぐとようやく気がついて傍のププに顔を向けた。
『これは…なんだ?魚か?美味しそうだな』
『ピピが行商人から仕入れたウミの魚だそうです。お好きなお魚を召し上がって、元気になって欲しいとのことです』
『山を越えて!?それはまぁなんとも、珍しいな。いやしかし…美味そうだ』
ネモフィラが食べられないのが残念だ、そう言ってエドワルド三世は空席を見つめてから、貴族然とした丁寧なナイフとフォーク使いで魚を切り取り口へと運んだ。
しばしの沈黙。
やがて口の中を咀嚼し飲み込むと、エドワルド三世の曇った表情がパッと輝いた。
『ああ…美味しい』
いや…不思議だな。たしかに魚なんだが、鶏肉に似た食べ応えだ。そう言いながら、エドワルド三世はあっという間に食べ終えてしまった。
『こんなに美味しい食事は久々だ。ピピにありがとうと伝えてくれ』
そのエドワルド三世の満足そうな表情に良かった、とププの心の声が暗闇の中で響いた。
あれは…まさか。
ヴァルの声がバッシュの頭の中で響いた。
なんだよ。いきなり。
なにか分かったのか、とバッシュが尋ねようとするとすぐ近くでザクザクと土を掘り返す規則的な音が聞こえた。音の方へ振り返るとピピが長袖をたくし上げて、汗をかきながら土を掘っていた。
そこは、ガゼボのある中庭だった。
『人間は、脆いなぁ』
みんな60年とちょっとで死んじまったな。
ププはスコップで土を掘り返しながら言った。こんもりと盛られた土の量から前のように赤子のためのものではないことははっきりとしていた。
『ピピ…人間は私たちより…姉上様よりもずっと寿命が短いのよ』
『知ってるよ。だから脆いなぁって言っただろ』
『なら…それならどうして…』
『ププ、手伝えよ。そっちの木箱の端を持ってくれ』
ここにはもうオレとお前と、兄上様たちしかいないのだから。オレたちがやらなくちゃいけないんだ。
そう言ってピピは傍に置かれた長方形の木箱の端を持ち上げ、反対側をププに持つよう促した。ププは渋々木箱を持ち上げた。
掘り返した空洞に2人が空の木箱をやっと置くと、今度は白い布に覆われた塊に視線が注がれた。ピピは一息ついてから、ププに手伝うように白い布を指差した。
再び白い布の両端をピピとププで持ち上げると動いた拍子に白い布の隙間から人間の腕がだらんと垂れ下がった。
『ウォルト…もう苦しまなくていいからな。兄上様のことはオレに任せろ』
白い布の隙間から落ちた枯れ枝のような腕を仕舞うとピピは木箱の蓋を閉め、その上から土をかけ始めた。するとあたりを霧が立ち込め始めた。徐々にスコップで穴を埋めるピピの体は霧の中に飲まれていく。その姿が霧の中に隠されてなお、埋めた木箱の上にスコップで土を被せる規則的な音がいつまでも耳に残った。
伽藍堂とした暗闇の中を霧が立ち込める。全てを覆い隠すように。
…いま見ているのはなんなのだろうか。
いや、分かっている。これはププの【記憶】だ。エドワルド夫妻に拾われてから今までのププの記憶。おそらくは過酷な生活から逃れてきたのだろう。拾われてから城で働くようになるとありふれた日常の幸福がそこかしこに溢れていた。
それは時が進むごとに死に取り憑かれた。最初の子供の死、二番の子供の死、三番の子供の死と一緒に働いていたのであろう女中の死。そしてピピによって埋葬された最後の人間の死。
死の記憶。
どうしてププはオレたちに自分の記憶を見せてくれたのだろうか。
隣に立つヴァルが無言のまま歩き始めた。霧の中を迷うことなく、一歩ずつ進んでいく。ここにきてからバッシュはヴァルの背中ばかりを見ている気がする。バッシュはそう思いながらその男にしては小柄な背中の後を追った。
ヴァルはププの記憶を見てなにを思ったのだろうか。先ほどの一言から想像するに、ヴァルはなにかしら思い当たるものがあるのかもしれない。それがどんなものなのか、バッシュには想像すらできなかった。
立ち込める霧が濃くなっていく。
白く濃い靄の方へ歩いていくと、再び扉があらわれた。その扉のノブを開けると、そこは城の中庭に通じる出入り口だった。
やはり中庭も霧が一面に立ち込めていた。
ヴァルは周囲を一瞥してなにかを見つけると迷うことなく中庭の方へ歩いていく。
ヴァルの行動には一つも迷いがなかったが、自分がどこに行くのか、なにをすべきなのかバッシュにはなにもわからなかった。
やがてヴァルが立ち止まると慌ててバッシュも立ち止まった。
バッシュは恐る恐るヴァルの背中越しに視線を向けた。そこは3人の子供たちの永遠に眠るベッドであり、ププが埋めた従僕たちの安寧の庭だった。
それらが見渡せるあのガゼボの中でネモフィラ夫人がテーブルの上にお茶の準備を整えてイスに座っていた。
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