ププの記憶

最初に扉の向こうの闇に足を踏み入れたのはヴァルだった。闇は底の無い沼地のように足が沈む。それを気にすることなくヴァルはどんどん歩いていく。バッシュはその背中を見つめ、扉の前で数歩足踏みするとやがて意を決して扉の中へと飛び込んだ。


ぐにゃりと不安定な床を歩いていく。足を沈ませていくとププのいる扉は頭上高い位置に浮かび、やがて扉は静かに閉まった。唯一の光源が無くなりバッシュの胸の中は不安感で一杯になった。


私がいるから大丈夫だよ


不安がるバッシュの様子を悟ったのかヴァルの声が響いた。自分以外の人間がいることへの安堵感とよく考えればおかしなことが起きるのはいつもヴァルといる時なんだよなぁとバッシュの冷静な頭は振り返っていた。


ようやく足が沈まなくなり、平坦な道を歩いていると二人のそばを馬車が駆けて行く。バッシュは驚いて声を出したが、ここでは不思議なことにバッシュの声は響かなかった。


まるでおとぎ話の中に出てくるような美しい馬車が停まる。

二人の人間が降りて来た。一人は男で、もう一人は女だった。二人とも背中しか見えなかったが、着ている服から貴族である事は間違いなかった。

その二人の人間はいつの間にか現れた巨大な木の下で横たわる少年を見て、男は上着を脱いで少年の体に掛けていた。心配そうに見つめていると、ふっと顔を上げてこちらを見つめて来た。よく知っている顔だった。


エドワルド三世だ!

それに隣にいるのはネモフィラ夫人だった。


二人は心配そうな顔をしてこちらに声を掛けている。バッシュは先ほどの食卓を思い出して、次はどんな奇行をするのだろうかと不信がった。

するとネモフィラ夫人がその細い腕を伸ばす。

その腕がバッシュの体を突き抜けたーーーバッシュの体の中をすり抜けるように、少女が飛び出て来た。


えっ。え、なんだ!?


驚くバッシュには見向きもせず、エドワルド三世が少年を抱き抱え、ネモフィラ夫人は少女の手を取って馬車に乗り込んだ。再び馬車は駆け出して行く。

どうやらエドワルド三世もネモフィラ夫人も、ヴァルとバッシュが見えていないようだった。それにバッシュの体をすり抜けて来た少女も。

少年も少女も、人間にはあり得ない長い耳だった。


…これは、記憶だ

記憶?


バッシュは隣にいるヴァルを見た。唇が動いていない。頭の中に直接言葉が流れてくるようだった。


誰かの記憶…おそらくププさんが見て来た記憶が映しだされているんだ。


そう言ってヴァルは馬車が走って行った方へと歩いていく。バッシュも置いていかれまいとその背中を追った。


ピピが木の剣を持って兵士の真似をしている。それを見て周囲の兵士姿の人間が楽しそうに笑った。やがて兵士はピピに剣の構え方を教え始め、ププも女中たちに混じって城の内部の仕事をし始めた。


たわいもない日常の生活が流れては暗闇の中に消えて行った。少女が目を輝かせて器に盛られた焼きプリンをスプーンで突くのを横目で見ながら通り過ぎていくと、唐突に暗闇の中ベビーベッドが現れた。上質な木で囲われた小さなベッドは、しかし長い時間待ってもベッドの主は現れることがなかった。


ネモフィラ夫人が小さな白い布に包まれた塊に優しくキスをした。エドワルド三世が痛ましい顔でそっとネモフィラ夫人の肩に手を置いた。

やがて小さな白い布に覆われた塊はエドワルド三世の手に抱きしめられ、そして小さな小さな木の箱へと置かれた。

それは、子供用の棺だった。


どうしてそうなったのか。バッシュ達には分からないまま棺は土の中へと埋められていく。すぐそばで死者の魂を弔う司祭が、祈りの言葉を捧げていた。その場所はあの城の中庭にあるガゼボのすぐそばにあった。


訳がわからないまま、またベビーベッドが目の前に現れた。思わずベビーベッドの中を覗くとエドワルド三世に似た顔の赤ん坊がすやすやと寝息を立てる音が聞こえた。その安らかな顔を見てバッシュは内心ホッとした。


緑色の服を着ている。この暗闇の中で、美しい緑色の子供服は鮮やかに発色していた。その緑色をバッシュはどこかで見たことがあった。


遠い記憶の中で、教会の使いで行った村の薄暗い路地裏でジャブジャブと染め物を洗う労働者の緑色に染まる手を思い出す。それは日常の中に溶け込んだ何ということのない風景のひとつ。緑色の水が桶の中で跳ねた。

狭い路地の中で淀んだ空気を吸い込むごとに労働者は酷く咳き込んだ。咳き込むごとに、衣服の緑は美しく染め上がった。

その姿からバッシュはあれが本能的に良くないものだと悟った。


あれは触れてはならない毒なのだ。


やがてベビーベッドの中からコホンと小さな咳が聞こえた。赤子が咳をするたびに暗闇の中を鮮やかな緑色の煙が霧散した。咳音がひどくなるたびに緑色は濃さを増した。

緑色の霧がベビーベッドを色濃く覆い、バッシュは思わずすぐそばまで迫ってきていた緑色の霧を手で払った。霧を手で払い、掻き分けるように進んだ。再びネモフィラ夫人が白い布に覆われた塊を抱き上げていた。


ああ…そんな…。


夫人は動かなくなった赤子の額に優しくキスをしていたのだ。二人目の子供の死に打ちひしがれた夫婦は互いが互いを支え合いやっと立っていた。子供用の小さな棺が暗い土の中へと運ばれた。そのそばではやはり司祭が死者への祈りを捧げていた。




扉だ。

その扉に向かってヴァルとバッシュは歩き始めるが、どういうわけかいくら歩いても扉までたどり着くことは出来なかった。

ふたりは仕方なく一定の距離を置いて立ち止まった。


半端に開いた扉はかろうじて中の様子が見える。やはり扉の向こうにはベビーベッドが見えた。赤子の泣き声。その泣き声に不安感ばかりが募る中、背中が見えた。

お仕着せメイドの服を着た女の背中。赤子をあやしているように見える。それから泣き止まない赤子を抱きしめると手に持った哺乳瓶を咥えさせた。


『…ヘレン?』

『あ、ああ…ププ』

『あれ?休暇だったんじゃないの?』


ププがドアノブに手を掛けて扉を開いた。

霧の立ち込める今の城とは異なり、窓に取り付けられたカーテンの隙間から日差しが溢れた。

それは穏やかな日常のひとつだった。


ヘレンの手によって哺乳瓶を飲む赤子は満足そうにゲップをした。しかし、異変が起こった。赤子が吐瀉物を吐いた。聞いたことのないわぁあああと赤子の叫び声がププの、ヴァルとバッシュの鼓膜を不快に震わせた。


あまりにも異常な様子にププは慌ててヘレンから赤子を奪い取り抱いた。吐瀉物に汚れた赤子はけたたましく泣いたかと思うと気を失うたかのように力無く首を曲げた。


『ヘレン、ヘレン!?ミカエル様になにをしたの!?』


ププは大きな声でヘレンを問いただした。ププの腕に抱かれた赤子の顔は見る間に青白く染まっていく。

騒ぎを聞きつけた他の使用人たちが集まり始め、やがてエドワルド三世とネモフィラ夫人も部屋に入りププの手の中でだらんとした赤子の姿を見ると、夫人の悲鳴が響いた。


『ああ…ああ、お許しください…!お許しください…』


男の使用人たちに取り押さえられながらヘレンは叫んだ。


こうするしかなかったのです!

こうするしか…。


ヘレンは奥歯をグッと噛み締めると引き付けを起こしたかのように体を震わせているのをププの目を通してヴァルとバッシュは無言のまま見ていたが、すぐに視界は闇に覆われた。


少し野間を置いて視界が開けると眼前では三度目の葬送の儀が行われていた。場所はやはり城の中庭にあるあのガゼボのすぐそばだった。すでに2つの墓石が置かれた横に小さな穴が掘られている。


エドワルド三世もネモフィラ夫人もお互いがいなければ立っていられないほど憔悴していた。互いが互いを支え合うように立ち、冷たい土が埋められた小さな棺の上に掛けられていくのを虚ろな瞳で見つめていた。

近くでは司祭が死んだ者への弔いの言葉を唱えていた。祈りの中で司祭は懐から小瓶を取り出した。聖水だろうか。小瓶の中は黒く、粘力のある液体が入っているように見えた。並んだ三つの墓石に小瓶の中身を振り掛ける。

それを見たヴァルの眉に皺が深く刻まれたのをバッシュはすぐに気がついた。




『ププ、人間は簡単に死ぬんだな』

『ピピ。私たちだって半分人間じゃない』

『奴隷商人のところにいた時も、純潔の人間の子供はすぐに死んだ』

『ピピ!』


人間って脆いんだな。

なにかいい方法はないのかなぁ。


そのピピの言葉だけが、やけに響くように聞こえた。


場面は変わり、この城に着いた時最初に通された使用人たちの使う部屋に変わる。数人の使用人たちは食事の準備を始めるようだった。


『エドワルド様もネモフィラ様も最近は満足に食事を召し上がらない…』


誰かが心配ね、と呟くのが聞こえた。


ふっと小さな窓から外が見えた。

ピピだ。ピピの小柄な背中が見える。それに2人の行商人風の男たちが見えた。顔はフードを目深く被っているせいでよく見えないが1人は小柄で、もう1人は見たことのないほど背が高かった。その凸凹としたシルエットを、バッシュはどこかで見たことがあると思ったが記憶を探る前に勝手口の扉がギィと不快な音を立てて開いた。


『行商人がウミというところで獲れた魚を売りに来たよ』

『ウミの魚?』

『海だよ。アンタたち知らないのかい』

『とびきり美味しいらしいから買ってきた。魚の好きな兄上様もアレなら召し上がるんじゃないかな?』


山を越えてきた魚なんて食べられたもんじゃないよ。アンタ騙されたね、と言って食事係の女中がピピの持つ木箱の蓋を開けた。

箱の中には温度を保つための大鋸屑が敷き詰められており、それを取り除くと中から見たことのない虹色に輝く鱗に覆われた薄ピンク色の肉塊があらわれた。


『魚というより…なんだか鶏肉みたいだね』


女中の1人が言った。


『…滅多に獲れない魚だって行商人は言っていたよ』


ピピはそう言って鼻を擦った。

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