僧兵ミレーユの受難
父は傭兵団の雇われ剣士だと聞いた。
どんな因果だったのか、それなりに育ちの良い母は雇われ剣士と出会い恋に落ちて自分がうまれた。おそらく周囲には祝福のされない子供であったのだろう。母は乳飲み子を抱えて家を出て修道院の修道女として生きていくこととなる。その修道院はそういう場所であったのだろう。
婚姻関係にない男女の間にうまれた子やその母親たちが肩を寄せ合って暮らしていた。
冷たい風が隙間から吹く修道院の暮らしは大変ではあったが、母のそばはいつも暖かく安心できた。
そして自立を目指す歳になる頃にミレーユは修道院近くの村の掲示で見たテンプル教団の僧兵募集に志願した。幸い、見たことのない父親譲りのよく出来た長躯により合格し、母に涙ながらに見送られて僧兵訓練所の門を叩いたのだ。
鍛錬の日々は辛く苦しいものであったが、信仰を持たない者や異教徒から母や信徒たちを守られるのであればどんな苦労も厭わなかった。
なにより自分の技が磨かれていくことは純粋に楽しいことでもあった。ミレーユの剣技に迷いは無かった。
ーーーこの日までは。
ミレーユの一つに纏めた黄金の長髪が革鎧に覆われた背中に流れた。すらり伸びた手に持つロングソードを水平に構えたミレーユはその慣れた剣技の構えとは裏腹にひどく青白い顔をしていた。
血の気が引くというのはまさにこういう顔のことを言うのだろうとそばで見ていたバッシュは冷静に思った。
「アーク司祭様…オレ、ナメクジはちょっと…」
「なにを言っているのです!それでもあなたは誉高いテンプル教団の僧兵なのですか」
誉高いテンプル教団の僧兵。
その輪の中に加わることは剣技と信仰に生きる人間にとって最高の名誉であった。名誉を盾に攻撃を迫る鬼上司に気圧されて仕方なくミレーユはゆっくりとヴァルの方へと近づいて行った。
お互いの攻撃範囲ギリギリまで近づくとミレーユは誰に言うでもなくぼそりと呟く。
「あれを斬るならまだ人間を斬る方がマシだな…」
「たぶん元は人間ではあるのでそう言うと可哀想ですよ」
「あれが人間なのか…?」
ミレーユは疑問を唇に残したまま異形と対峙した。
「どう見ても人間には…」
ミレーユが言い終わる前に、元は司祭だった異形は腕をしならせて振り上げた。
2人は互いの身体がぶつからないように注意深く、そしてムチのように動く腕の攻撃範囲外に逃げる。
腕のムチは動くたびににゅるり、むちゅりと不快な音を立てた。
ヴァルは隠し持っていた果物ナイフをマントの中から片手で取り出した。護身用としてはいささか頼りのないそれを掴む。
司祭の腕が振り上げられてしなると同時に、ヴァルは腕のしなりを寸前のところで受け流しながらムチが攻撃のできないゼロ距離までするりと飛び込む。そのまま無駄のない動きで司祭の首元に果物ナイフを突き立てた。
ゔぁああああ…!!
元司祭の呻き声と同時に腕のムチがヴァルの鳩尾を思い切り撃ったが、それも前腕で防御する。
あの動きは相当経験を積んでいるな。
横目で盗み見ながらミレーユは思った。
あれが人間とは思えないが、ヴァルの動きには生物を刺すことに一切の抵抗がないように見えた。
しかもあれはミレーユのように僧兵訓練所で鍛錬を積んだ動きでは無かった。
もっと泥臭い、実践的の動きだった。
果物ナイフは確かに元司祭の首元に突き立てられたが、人間の皮膚よりも硬いのか刃先までしか入らずそれほどダメージを受けているようには見えなかった。
元司祭は軟体生物の腕に慣れてきたのか、動きが少しずつ速くなってくるようだった。
全然効いてないじゃん!と、バッシュの声が飛ぶ。
早めに決着をつけた方が良さそうだ。
「同志を殺すのは抵抗があるが…」
そう言うとミレーユは無数のムチの攻撃をかいくぐり、ぐっと右脚に力を込めると筋肉の質量を最大限に発揮して元司祭の懐に飛び込んだ。
人間とはかけ離れた長さの腕を捕まえて捻り上げると、水平に構えたロングソードを身体の中の在らん限りの力を込めてその顔に、その小さく空いた深い穴目掛けて突き立てた。
ミレーユのロングソードは異形司祭の眼窩から頭蓋骨まで貫通した。目の窪みに突き立てられたロングソードの隙間からぶしゅりと茶色く濁る汁が吹き出した。汁が飛び散る前にミレーユは剣から手を離して飛び乗る。異形司祭は最後に天を仰ぐ仕草をみせて完全に事切れたようだった。
それを見たヴァルがすかさず駆け出し詠唱する。
「我、ヴァル=キュリアの名において誓願する…この世の理から逸脱せし者を救済せんと欲す!」
詠唱と同時に水平に構えた虹色の細剣を異形と化した司祭の心臓に突き立てた。
細剣は司祭の心臓まで届くとヴァルの手の中から消えてなくなり、細く煌めく天の柱となって夜空に打ち建てられた。
一瞬の出来事だった。
それはまさしく天にかかる梯子のようだっだがすぐに跡形もなく消え去ってしまった。
異形司祭の身体は乾いた泥のように瓦解して、最後には汚れた宗教服だけが残った。
「ヴァルさん…あなたは」
何者なんですか?という問いかけはミレーユの唇から漏れることはなかった。
ヴァルはすでに地面に落ちた果物ナイフを拾い上げてミレーユに背を向けていた。それは会話への拒絶に見えた。
あの俊敏な動きや生き物に刃を刺すことに抵抗のない動作を見ればヴァルが一般人でないことは明らかだった。この黒衣のマントを羽織る人物が狼藉を働く犯罪者の類には見えなかったし、それが分からないほどミレーユの目は節穴ではなかった。
ならば自分と同じ僧兵や軍隊にいた人間なのだろうか。
「いやあ、お二人とも実にお見事でした」
素晴らしいものを見させていただきました。わたくし感無量でございます、とアーク司祭が場に似合わない拍手をしながら近づいてきた。
「“神明の梯子”と呼ばれるのも納得です。
あらゆる悪行の一切を断ち切って魂を救済する…実際に見るまでは御伽話や老人の戯言だと思っていましたが、いやあ」
素晴らしい、とアーク司祭が言い切る前にヴァルは踵を返して歩き始めていた。教会や広場とは反対方向だったので、おそらくトロントのいる馬小屋へ様子を見に行くようだった。
「バッシュくん、見ましたか?あの人は本当にツレないですねぇ」
「アンタはもう少し空気を読んだ方がいいぞ」
「そうですか?これでも最大限に配慮したと思うのですが」
アーク司祭の後から数名の憲兵たちが走ってきた。どうやらアーク司祭が近づくまではこちらに来ないようと止めていたようだった。
人目を避けるようにいなくなる黒マントと泡を吹いて気絶する女中を介抱する少年に剣を抜いた司祭従僕、それに人が溶けていなくなったように残された司祭の宗教服。
事の成り行きを憲兵たちが推察するには情報があまりにもとっ散らかり過ぎていた。彼らも公益を守るものとして騒ぎを上官に報告しなくてはならない手前なにがあったのか知る必要があった。しかも今は大事な喪明けの宴会の真っ最中である。
残念ながらなにが起こったのかを説明できる者はこの場にはいなかった。
おそらくアーク司祭がいなければ騒ぎを起こした犯人としてバッシュとヴァルは再び留置所にぶち込まれていただろう。
こういうときにアーク司祭の社会的な信用はおおいに役に立った。
憲兵の感情が悪い方は高まるのを察したアーク司祭はその持ち前の統率力かつ早口でこの場の騒ぎを収束させたのだった。
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