月下回廊
津木乃詩奇
予知者の妄想
仄かな月明かりが衝立の障子を通して、寝床まで訪れる、ほんの少しの安らぎの時。うとうとと眠りにつこうとしたころだった。遠くから響く悲鳴が浅い眠りを妨げた。悲鳴は続けざまに響く。声の主は違う。大勢の足音で
つい今しがたまで、皆と喋っていたが、やっと落ち着いて寝床に入ったところだ。ほんの少し遠い過去を思い出しながら、懐かしい人に触れ、ほんのいっときでも幸福な気持ちでいられたというのに、それは
しばらく天井を見つめていると、障子の向こうから細々とした声が聞こえてきた。
「
言葉通り、静かに身体を起こすと同時に侍女の
「これから外に出て、西側の竹林に向かいます。竹林を真っ直ぐ走り抜けますので、月子様は何も考えずに、このわたくしめの
「
「月子様はただわたくしめの
「
「
こうした言葉を交わしながら
「
月子の訴えに気づくことなく
ふたりは屋敷内にある竹林を走った。黒い羽織で視界を遮られた月子に容赦なく襲いかかる竹の感触で想像することができた。この竹林の奥に月子は足を踏み入れたことはなかった。西側の竹林は広く、東南北にあるそれぞれの門に繋がる屋敷の境界線が曖昧になる場所だった。その奥には小高い山々が連なる。竹林と山の
やがて
月子は疲労と激痛で気を失った。しばらくすると、周囲で人の囁く声が聞こえてきた。誰かが噂話をしている。言葉が耳に入る。無数の言葉が無作為に耳に入ってくる。そればかりか暗闇に無数の文字が浮かぶ。取り留めもなく、浮かんでは消えていく。やがて文字は意思を持ったように舞い始める。大きい文字、小さい文字。色がついた文字。そしていくつかの文字が整頓してひとつの言葉を
月子は瞬時に
「阿袮」
月子は、幼い頃から
「
阿袮は声もなく笑った。
「
「月子様は悪くないのです。何もかも月子様に
「物の怪とは何だ?」
「わたくしめが物の怪を退治いたしましょうぞ。月子様の言葉を
「間違っているぞ。
「どんなお言葉でも月子様が仰ると、それは世を混乱させるほどの力を持つのです。どうぞご自覚なさいませ」
「間違いは認めぬのか?」
「じきに平家は滅ぶと月子様が仰ったとたんどうですこの有様です。大勢の平家が屋敷を襲ってきたのです」
「何を言っている?何かの芝居か?この騒ぎは平家の仕業だというのか?それに平家が滅ぶなど言っていない。
「踊らされてはいません。月子様がそう仰ったのです。だから平家が襲ってきたのですよ」
「だから言ってない。この騒ぎは平家の
「平家でございます」
「平家だとして、
「わたくしめは月子様の侍女である前にご当主様の侍女でございます。ご当主様や若様を危険にさらすわけにはまいりますまい」
「そうか、人思いに短刀を引けばよい。だが当主が生きておれば我を殺した
阿袮の顔に恐怖が浮かぶ。
「覚悟もないのか?」
「いいえ、ご当主様と若様の為とあらばわたくしめの命など惜しくもございません」
「もし平家が我の命を狙って屋敷を襲撃したのならば、我の命を取った
「何を…」阿袮は、顔を
こんな馬鹿げたことで死ぬのか。と月子は思った。生きていたところで、誰かの
「
阿袮は、誇りばかり高く少し頭の弱い父に放任され、他人の手によって育てられた。平凡な自分の境遇に失望していた阿袮の父は、
阿袮の母はそんな男の虚栄心と妄想を満足させるために、とっくに縁が切れていた実家に頼み込み、苦労して手に入れた豪族の娘だった。何も知らない箱入り娘だったので、初めのうちは
ある日、あの博識な僧侶が男に頼み事をした。その頼み事は奇妙な内容だった。
博識な僧侶は
「これから話すことは全て内密に願いたい。世に一言でも漏らすならば、そちの命はないと思っていただきたい。そちは
男は身震いするほど緊張した。
「特別な姫様にございます。そちには娘がいましたね。娘によく言い聞かせ、侍女として姫様をお守りし、お
その時、男は選択の余地がないことを悟った。と、同時にその使命に
月子は嘲笑した。
「
阿袮は恐怖で
「短刀を
「そのお声は、
「この場でお前を
阿袮は短刀を投げ捨て、
「影近様、申し訳ありません。これには訳がございます。仕方なかったのです。御当主様と若様をお守りする為でございます」
「藤の当主と若様だと?お前が何故藤の者を守るのだ?藤の者を守る為に月子様に刀を向けているのか?本末転倒もいいとこだ。月子様この者を殺していいですか?」
「好きにするがよい。だが殺すのも愚かしい。この者がこんなに頭の悪い
月子は、ゆっくりと立ち上がり、阿袮を見下ろした。
「しかし、それで終わりではなかった。
「阿袮、我が聞いているのだぞ。答えよ。紫乃、華菜、抄峯に何が起こった?まさか
「
月子が嘲笑する。「それを聞いているのだ?」
「なんと?信じて下さい。わたくしめがいったい何をしたと仰るのですか?」
「華菜が豪族の娘だと
「月子様、そんなことどうでもよろしいではございませんか?この者は
阿袮は影近の言葉に短い叫び声を上げた。
「影近様、誤解でございます。わたくしめの
「何を言っておるのだ…」
「影近殿、もう何を言おうとこの者には響きますまい」と、月子は
月子の言葉にとどめを刺された阿袮は耳を
四季がひとつ
阿祢は、月子に恐怖を覚えていた。ただ怖かったのだ。月子から逃れたい一心で、まず、若君の侍女、紫乃に救いを求めた。
「紫乃様、大変申し上げにくいのですが、わたくしめは月子様の傍で
紫乃は困った顔をして、「そんなことを言ってはなりません。月子様の素性は存じ上げませんが、大層身分の高いお姫様とお伺いしています。そんなことを聞かれたら、命が幾つあっても足りませんよ」と、
「あなたは、いつも忙しく働いているといいわ。なるべく月子様から離れられるようなお仕事をわたくしが見つけておきましょう。月子様がお怒りにならないくらいの丁度いいお仕事を。あながそのお仕事をなさっている間、わたくしが月子様のお世話をしましょう。若様にはそれとなく話しておきますから」そんなふうに紫乃が言ってくれた。
「大丈夫でしょうか。月子様はお怒りにならないかしら?若様にご納得していただけるでしょうか?」
「わたくしが見る限り月子様がお怒りなったところを見たことがございません。あなたが何を恐れているのか存じませんが、月子様はたいそう高貴な
「いいえ、紫乃様は月子様が
「なんと?
紫乃は首尾よく何もかも上手くやってくれた。ちょうどその頃、若君の侍女のひとり
紫乃が初めて月子の世話をした日、月子は紫乃の存在さえ気づいていないようだったが対照的に乳母の
月子にはあまり
しかし、そんな幸福は長く続かなかった。ある日、登葱がいない絶好の時、紫乃は町で起こった小さな騒ぎについて教えてあげようと、月子に声をかけた。
きっと月子様は喜んで聞いてくださるだろう。
「月子様は琵琶法師様をご覧になられたことございますか?時々平家のことを歌われる法師様がいらっしゃるのですが、わたくしは先日遂にそのお方に出会ったのです。でもわたくしは平家のことはよく分からなかったのですが、そこに変わった
月子はしばらく思案を巡らせるようにじっと
「存じております。その法師様。いえ、むしろ親しかった方です。法師様のことを思うと涙が出ます。隣には娘さんが寄り添っていらっしゃいました。我と同じくらいの娘さんでした…」
再び月子は
「親しかったのですよ。一緒に笑いましたし、遊びましたし。すごく好きでした。でもある時、騒動に巻き込まれてしまって…、子供が斬られそうになるのを止めようとした。それに腹を立てた、悪鬼のような者に娘さんは
「月子様。申し訳ございません。わたくしとしたことが、軽々しく申し上げていい話しではございませんでした。月子様のお気持ちも考えず…」
「人の死は悲しい。そして他者の命を軽く見て、害する者は悪鬼なのです。悪鬼はいつも近くに存在しているのですよ。紫乃殿。そのような者を絶対許してはなりません」
月子は、そう言うと、暫く黙り込んでぼんやりと
紫乃の話しで月子は昔のことを思い出していた。その出来事は月子のこころに暗い苦悩を呼び覚ました。思い出したくない出来事だったけど、決して忘れてはいけない、深い傷だ。こうして一つの出来事に触れることで、こころの状態が著しく掻き乱されてしまう。紫乃の言葉で、月子に
そんなこころの状態につけ込むようにカサカサという音がした。まるで虫が這い回っているような音だ。月子は、恐る恐る
しかし、屋敷の壁を這い回る文字は初めてだ。読めない文字の中に因という文字と果、縁という文字を見つけたが、それ以外は全く読めない。文字の形も蛇のようにうねうね曲がっていて、すごく気持ち悪かった。それが本当の文字なのかさえ分からない。最初にそれを見た時、月子の身体に悪寒が走った。何か受け入れ難い不吉な予感。この世界とは違う、別の世界から這い出て来ているのではないかと、月子は思っていた。しかし、初めて若君を見かけた時、身体から発せられる文字を見た瞬間に驚愕した。全く同じ文字がゆっくりと現れ、壁を伝い始めたのだ。やがて虫が這うように四方八方に別れて、屋敷中を這い回った。
これまで経験したことのない光景を目の当たりにした月子は混乱し、恐怖に
それを確認してからすぐに月子は、阿袮の様子が出会った頃と変わったことに気づいた。ちょっとはお喋りな娘だと思っていたが、毒気のある言葉をずっと吐き続けるようになった。いつもそわそわして、まるで若君に魅入られでもしたかのようにぼんやりしたかと思うと、すぐにいなくなった。この屋敷は何かおかしい。
そして昨日のことだった。月子の対の屋の庭から少し離れた、離れの屋敷に通じる小径で若君に
しかし、月子は、紫乃を見ていなかった。若君の身体から現れる気持ち悪い文字が華菜の身体に蛇のように巻き付いているのを見ていた。その姿がまるで物の怪のようで恐怖のあまりぶるぶる震えた。そして、三人が、
目が覚めた時は、すでに夜の
しかし月子は、登葱の後ろに漂っている文字に気づいて、登葱から視線を
「月子様、お気分は如何ですか?ずっと気を失ったままで随分心配いたしました。月子様、分かりますか。いきなり倒れてしまって、わたしひとりでどうしようもなかったので、近くを歩いていた使用人にここまで運んでもらったのですよ。あれは誰なのかしら、時々若様の傍にいるけれど、従者なのかしら。本当にあの者がいて助かりました」と、言う登葱の後ろで文字がゆっくりと言葉を
『華菜という
会話だ。誰?いや、考えなくともわかる。華菜殿を縛りつけていた、蛇のようなあの気持ち悪い文字の主。この屋敷には本物の悪鬼が住んでいる。
「登葱…」
月子は、
「どうしました?」
「
「ええ、月子様何も変わっておりませんよ。読まなくていいのですよ」
登葱の言葉に月子は少し安堵したのか、ゆっくりと眠りについた。
月子は、紫乃がいなくなっていることに気づいた。随分長い間考えごとをしていたのだなと思った。紫乃を探す為に立ち上がり、庇の廊下へ出た。紫乃はそこに座っていた。月子の姿を見ると、すぐに会釈をした。
「紫乃殿、すまなかった。話しの途中だった。我は時々ぼんやりしてしまう癖があるのです。まだ、話しは終わっていないのですが、また中に入ってくれますか」月子がそう言うと、二人は元の場所に戻って話しの続きを始めた。
「紫乃殿は昨日の夜は何をなさっていました?」
「えっ、特に何もしておりませんが。仕事を終えた後は普通に休ませて頂きました」
「まぁ、よく眠れましたか?では、華菜殿は何をなさっていらっしゃいました?」
「華菜様は存じません。月子様はご存知ないかもしれませんが、華菜様はわたくしのような者とは身分が違います。華菜様は身分が高いお方で藤家にはお行儀見習いで滞在なさっておられます。奥方様がご教授なさるはずでしたが、ご存知のように病に
「そうなのですか。それは知りませんでした。ここに来て日も浅い故、藤家のことは知らないことが多いのですよ」
「月子様がご無理に存じ上げずともよろしいかと存じます。大切な藤家のお客様ですから」
「いえいえ、そう言わず紫乃殿からいろいろ教えて頂けたら有り難く思います。そうだったのですか。華菜殿は侍女ではなかったのですね。でしたら抄峯殿は?」
「抄峯殿は藤家の知人の紹介で普通の庶家の娘で、早くに親御さんを亡くされたと伺っております」
「そうですか。抄峯殿は普通の庶家の娘さんなのですか。今は何処かに使いに出掛けているのですね。いつ戻られるのでしょう?
紫乃も笑った。「いえ、月子様にはご不便をお掛けします。阿袮殿の代わりとはいえ、時々しか伺えずに大変申し訳なく思っております。」
「いえ、本当にもう抄峯殿は戻って来ないと思います。
「えっ?」
「抄峯殿はもう戻って来ないと申しました」
「そんなことはないと思います。戻って来ますよ」
「ええ、もう戻って来ません。それは紫乃殿もご存知かと思っておりました」
「それはどう言う意味ですか?」
「意味は分かりませんが、抄峯殿は戻って来ません。ところで今日華菜殿の姿を見かけましたか?もし、華菜殿の姿を見かけなかったら、華菜殿の姿をもう見かけることはないでしょうね」
「月子様は、いったい何をおっしゃっているのですか?」
「
「月子様…突然、何をおっしゃるのですか?」
「すごく恐ろしい話しです。そんな悪鬼と共に生活をしているという話しです」
「……」
「しかし、まだ間に合います。紫乃殿、待つことはないのですよ。逃げるという方法もあります」
「何が間に合うのですか?何を待つのですか?」
「お気づきになりませんか?」
「何を…?」
「
「月子様が何を仰っているのか、わたくしにはまったく分かりません」紫乃は震えた。阿袮の言う通り
「紫乃殿は本当に素直で良き侍女だと思います。だから今すぐ逃げるのです。逃げなさい。
「月子様、大丈夫ですか?何かおかしいですよ。わたくしは月子様とお話しすると、とても幸せでした。ですが、それを…何故…貴方はわたくしの良き…」
「落ち着いて下さい。しっかりするのです。この世に命より大切なものなどないのですよ。もしよろしければ貴方が逃げた後の生活は我が何とか致しましょう」
「月子様は恵まれているから、そんなことが言えるのです。いったいわたくしの何を知っているのですか?」
そう言うと、紫乃は
「なんと…何故、逃げぬ?」
「人というものは、何かしら自分に
突然障子の影から登葱が現れた。
「登葱。また
「そんな
「まだ分かりません」
「
それから月子は黙り込んだ。深い沈黙だった。肉体はここにあって、魂は別のところにある。登葱は幾度もそんな月子の姿を目撃した。もう声を掛けても届かない。静かに見守るだけだった。
若君は、色白で端正な顔立ちをしている。誰もが息を呑むほどの美しさだ。しかし紫乃には決してそうは見えていないはずだ。色白で端正な顔立ちは氷のように冷たく、残酷だ。その美しさは不気味な物の怪。傍に寄ると息ができないほどの緊張を覚え、苦痛、憎悪、悔恨と様々な感情により思考を止められた者はなかなか闇から戻れない。一歩先に明かりが見えているのに
若君をこのまま放っておいてよいのだろうか?呪文のような文字のなかに現れる因果、因縁だろうか?あれは何なのだろう?
しかし、何が出来るのか?何も考えられなかった。月子は、
以前影近がそんな月子の現象をこんなふうに仮説したことがあった。
「月子様のそれは、予知と言うものなのでしょうか?月子様は他の者より多くの、人の会話や独り言などご自身が預かり知らぬうちにお
影近が言うような、そんなはっきりしたものだったら苦労しないだろう。
文字が
因。因果。因縁。今の状態が果であり、過去が因。今の状態が因であるのらば未来が果。因縁。今の状態を作った直接的な原因が因縁、
今の状態は
ならば、若君の因果の因を調べてみたら多少なり分かるかもしれない。若君の過去に答えがあるかもしれない。
「登葱」突然、月子が口を開く。
「わっ。ふうっ!」
「どうした」
「申し訳ございません。その状態から声を掛けられることがございませんので、少々驚いただけでございます」
「すまない。
「わたくしもお会いしたことはございません。何でも長く患っていらっしゃって、床に
「その
「そうですね。実際鼻持ちならない感じはしますが、どうなのでしょう。奥方が長く病に臥せっていらっしゃるのに、きちんと離れのお屋敷に帰られるし、奥方の地位を侵したりされませんし、節度はおありになるのではないでしょうか」
「離れのお屋敷と言っても随分御立派なお屋敷ですよね。本屋敷と変わらない
「ほんに御立派なお屋敷でございますね。あんな大きなお屋敷にお一人で住んでいらっしゃるのでしょうか?侍女もお連れではなかったような気がしますが」
「そうか?一度会ってみてよいか?」
「それはなりません。
「なんと?
「なりません。
「なんと?それは登葱が食い止めてくれなければ我に抵抗などできるものか」
「まったく。月子様が
「ほんに誰でしょう。そのうち突き止めますわ。必ず。必ずめにものを見せましょう」
華菜が死んだと思われた日から幾日か経った。月子は乳母の登葱と、使用人の
「月子様、こちらは
「そうですね。先日、
「月子様、なりません。戻りましょう」
「いいえ、戻りませんよ」
「
「お黙り登葱。我に命令する気か?」
「きゃっ!
「何も
「お屋敷の南側の敷地は、幾つもの民家を立ち退かせ、つけたしたとお聞きしました。民家はたまったものではありませんね。きっと汚いこともなさったのでしょうね」
お屋敷に続く小道が見えた時だった。お屋敷の方角から文字がひとつ、ふたつとぽつりぽつりと現れ始めたかと思うと、突然いっせいに文字が溢れ出てきた。次々と文字だけが動き回っていて、何も読めない。時々言葉を見つけても、読み取れる速度ではない。集中しなければ、何も拾えない。
小道を正面に立つと遠くにお屋敷が見えた。
「まぁ、小道から意外と遠いのですね」
登葱の言葉が遠く
月子が倒れかけると、
こんな姿をよく目撃する登葱だったが、いきなり卒倒するのは珍しかった。
「つきこさまーーー」
屋敷の方角から流れてくる文字は、不規則に動き続け、なかなか言葉をなさないし、激しく動く。
もっともっと集中して、文字の世界へ入り込んでいくと、一瞬真っ白な
『私たち死ぬの』『どうなるのかしら。私は奉公しただけなのに何故閉じ込められるの』『しっ、黙って、聞かれる。何人も連れて行かれたけど、どうなったのかしら?』
月子は唐突に現実に戻った。
「あゝ、よかった。登葱様、月子様がお気づきなられました」
「まぁ、月子様、如何なさいました」
「何でもない。登葱の言う通り、戻りましょうか?」
部屋に戻った月子は、余す事なく今の状況を
若君の過去を知る為だった。何故若君は悪鬼となってしまったのか?何か原因があったに違いない。あの綺麗な顔の下に隠された、受け入れられない不条理を探り当てたところで救えるわけではないのだが、しかし放っておける事でもない。もしかしたら、本当に次は紫乃の番かも知れない。あれから紫乃の姿を見かけなかった。
離れの屋敷から戻って暫くして、意外にも月子の対の屋に
登葱と箭重は何事かと身構え、月子は呆然として、声も出なかった。
「突然のお伺いで大変恐れ多く存じますが、
月子が動くより先に登葱が
「これは奥方様、ご機嫌麗しゅうございます。さて、本日は如何致しました?」
「貴方様は登葱様でございましょうか?ご機嫌好う。恐れ入ります登葱様、奥方はおやめください。奥方様は今病に臥せっております
「恐れ入ります紅様。さて本日はどういった御用件でこちらへお越しいただいたのでございましょうか?」登葱は、警戒を解かなかった。
「先程、下男から月子様のお姿をお見かけしたと聞き、さすれば何が御用でもおありかと思い、お伺いしたのですが…?」と、
「いいえ特に用はございません。ただ、天気があまりにも良かった
「まぁ、そうでございましたか。確かに良い天気でございますね」と、
「何を仰っているのか、わたくし共にはさっぱり理解できかねます。どうぞお引き取りを…」登葱の言葉に月子が背後から「まぁ、良いではありませんか。」と、言った。
「紅様、なりませんぞ」
「これは失礼致しました。しかし、わたくしはどうしても月子様に予知をして頂きとうございます。」
「そう慌てずとも占って差し上げましょう」
「有難う存じます」
月子の視線が
この女、普段から何もせず、何も考えていないのだろうか?因果もなく、ただ動物のように、食するために狩りをして、飢えをしのいだり、腹を満たしたり…を繰り返しているだけなのか?そんなことを考えていると、頭からぽつりと幾つかの文字が出現した。文字を組み立てると、『犬が恐ろしい』と、読めた。そして現れた文字はばらばらだった。いつもならば文字のほうがお互いくっつきあいながら、言葉をなしていったが、
「月子様はわたくしのことを見ているようで、本当はわたくしのことは見ていらっしゃらないのですね。よく当たるとお聞きしたお客人から、こんなことも聞いたのですよ。月子様の眼は何ものも
紅は両手を胸に当て、踊る心臓に同調して、待ちきれない
それからまもなくして月子の視線は、
「先に申し上げておきましょう。我は皆が言うような予知者ではございませんぞ。ただ
「月子様、どうぞわたくしから漂うものを言葉にして下さいませ」
「全く
「貴方様の前には誰しも
「しかし我から申すことはあまりないですね。
月子の言葉に紅の表情が一変して、不快な顔をした。
「ほらご覧なさい。だから我は予知者ではございませんと言った
「ほんに左様でございますね。まったく期待はずれもいいとこですわ。犬ですって…まったく…」
「まぁ、犬といってもいろいろありますからね。野良犬、山犬、犬神や犬神の信仰等。
「わたくしは貴方様のご身分を存じ上げません。当主様が貴方様のことをお隠しになられるから。しかし当主様は貴方様をただの予知者として皆に紹介しているわけではないようですよ。月子様は予知者として信頼たる者と皆が受け入れている。わたくしはよく存じませんが。ただの
そう言うと、
「紅殿、がっかりさせてしまいましたね。でも
月子の言葉を背中で聞いていた
「犬…?犬ですって…なんと…あれは危険だ。あんな者がこの世に存在するとは。世とは恐ろしい」
紅は無意識にそう呟いていた。
そんな
月子は最後に余計なことを言ったと後悔した。
あの
「箭重…」
「ここに」
「寺の者は
「屋敷の傍に控えております菓子の行商人に渡しておりますので、すでに手にしておられるかと思います」
「そうか…ところで登葱、奥方は何で患っているのでしょうか?我は見舞わなくても良いのでしょうか?」
「そうですね。一度ご当主に申し出てみましょうか?ここの屋敷の者はあまり奥方様のお話しには触れないようにされている気がします。月子様、突然どうなさいました。奥方を見舞うということは、
「当然です。紫乃殿も、
「まぁ、月子様、若様のことを疑っていらっしゃるのですか?」驚いた様子で登葱が言った。
「
「いえいえ…しかしながら月子様はあの時若様のお話しはしておりませんでしたよ。ただ紫乃に逃げろと。若様を疑っているとは存じませんでした」
「そうだったか?なんかごっちゃになるなぁ。…抄峯殿と華菜殿が生きている証しさえあれば何も騒ぐことなどないのだけど。確証がなければ妄想と同じなのですね」
月子は途方に暮れた。
藤家の屋敷の傍に控える菓子屋は
箭重が寺に宛てた
しかし、数日経っても
その間、月子のすることは何もない。
「お気の毒に…」
「何を笑っている」と、そんな箭重を見て忌々しそうに月子が呟いた。
「わっ。申し訳ありません。
「
「
月子は、箭重に返す言葉がなかった。月子の周囲の者は助言はしても叱らないし、結局月子に従うしかなかった。しかし箭重がいつも厳しい目で月子を見ていたのは知っていた。
月子は、物心つく前に寺に預けられ、物心ついた頃の記憶は曖昧だった。寺には何人かの子供がいたのだが、その子供達は月子を避けていたのか、月子はいつも遠目で遊ぶ姿を眺めていただけだった。その中に
しかし、月子にはそれが日常だったので、孤独を感じることはなかった。ただ、ある日影近が声を掛けてきた「いつも一人だね。つまらくないの」と。その時初めて、つまらないと言う感情が形を成した。
「つまらない?」月子は
「そりゃ、
月子にはぼんやりとした曖昧な記憶だったけど、影近が話しかけてくれるたびに少しずつ色がついていった。そして影近の顔にあざが増えていった。
「
「それは月子様の事情。
「しかし我は何故ここにいるのですか?ここに来る必要もないのにここにいるのは何故?」月子は尋ね返した。
「だったら月子様は今回の任務の目的をご存知ですか?」
「お黙りなさい」溜まりかねた登葱が口を挟んだ。「月子様になんて口を聞くのです」
「登葱、いいのです。
月子は、もう何も言わなかった。思い通りにならない能力など能力でもなんでもないと、それはいつも感じていたことだった。本当は能力などありはしないのかもしれない。全て妄想であると断言されたら否定できないだろう。と自分でさえ
その夜、月子は物心ついた頃の曖昧な記憶を
遠目に遊ぶ子供達の顔はどの子もぼんやりしていて、箭重と影近が子供達から離れて月子を見ていた。影近は手を振り
月子はすごくその子が気になった。凍るような冷たい目をしていた男の子だったが、何故かやっと逢えたような安堵感を覚えた。しかし男の子は威圧した嫌悪感を月子に向けていた。月子の視界は男の子の身体から発する黒い
男の子が叫んだ。
「月子様」
月子は目が覚めた。と、同時に
『すまない』『もう無理なのだ』『お前の死ぬ姿は見たくない』『行ってくれ』『痛い』『分かってくれ』『助けて…』『許して…』『お前のことは忘れない』
月子は、何故か頭が
「月子様、これ以上はダメです」
「箭重、
「屋敷の北側は危険です。月子様一人では無理です。この奥に何かがあるに違いありません。しかし
そうか。やはり箭重はずっと屋敷を
その時、北側の奥から足音と、
あの蛇のような気持ち悪い文字は見えなかった。あの文字はいつも物質に貼り付くように動いていた。もしかしたら、若君は縛られていたのかもしれない。縛りが
ここに導いた、あの言葉は何処から来たのだろうか?若君の言葉なのか?だが、何か、釈然としない違和感を覚えた。
「これは若君」と、月子は思わず声を掛けた。
「あゝ、月子様と箭重殿、こんな所で何をなさっているのですか?」
「若君こそ、何かあったのですか?」
「特に何もございませんが?月子様、箭重殿、ここは家人が集う
「それは大変失礼いたしました。実は声がしまして、叫び声のような、泣き声のような、そんな声に導かれ、ここまで参りました。奥方様が病に
「わたくしはそれを止めておりました」と、ちゃっかり箭重が言った。
「それは大変ご心配をおかけ致しておりますが、ご心配には及びません。どうぞお引き取りを」
そう言った若君は、とても怯えた顔をしていた。
「本当にそうでしょうか?」と、月子は、念を押した。
「ええ、何でもありません。母上は大丈夫でございますし、ましてやここにはおりません」
月子は、
「お騒がせいたしました」
『助けて』言葉がまだ、
月子はゆっくり
若君の
対の屋に戻ると、月子は両手で顔を覆い、
何も分からない。あの蛇のように這い回る気持ち悪い文字。
「もしかして若君は
「あんな真似はもう二度としないで下さい。私が居なければ月子様どうなっていたと思います?」
「どうにもならないと思います」
「月子様を見ていると、いつもご自身にただ振り回されているようにしか見えません。ご自身を信じられないのですね」
子供の時に見た箭重の、責めるような冷たい目だ。箭重は何故、いつも責めるような目で見るのだろうか?
「そうですね。子供の頃はもっと自信があった。もっと、あらゆる方々から言葉を戴いていた。教えて頂いたし、導いてもくれた。
「あぁ、今は孤独だからですか」
「そういうことだと思います。あの頃、都で
「でしたら、もう月子様は何もしないで下さい。助ける自信がありません」
「我のことは放っておいていただいても構いませんよ」
「そういう訳にはいかないのですよ。あなたがどんな身分の姫様か存じ上げませんが、命を捨てても姫様を守れと言われていますからね。あなたになんかあったら、私たちには文字通り死しかないんですよ」
「そうですか。すみません。疲れました。
「なにも、能力を持った者は、あなたひとりではない…」
「えっ?それはどう言う意味?」
箭重は、しまった。といった表情をした。口を
「記憶がぼんやりしているのですが、
「すみません。そんなぼんやりとした話しではちょっと分かりません。お疲れでしたら、もうお休み下さい」
箭重は、何処か怒りを隠していた。しかし、箭重との会話は久しぶりだった。箭重が部屋を去ったあと、月子はいつもより孤独感を覚えた。それと同時にもやもやしていた。夢で見た、ぼんやりした男の子の顔が更にぼやけ、やがて真っ白になった。そんな男の子など存在しないのではないのか?文字の能力と同じように全てが妄想なのかも知れない。月子以外の者はただ妄想に付き合わされているだけなのかも知れない。月子はいつまでも眠れなかった。
特別な姫を迎えるために
翌日、登葱の声で月子は目覚めた。登葱の様子がいつもと違っていた。
「月子様起きて下さいませ」
いつもは登葱が起こすことなどなく、月子は規則正しく目覚めていた。だから時を合わせて登葱が
「今朝はやけに早いのですね」
「いいえ、いつもより遅い時刻ですよ」
「だからと言って怒鳴らくとも、自分で起きます。
「申し訳ありません。いえ、遅いから起こしたのではございません。実は
「華菜殿の…」
月子は布団から抜け出ると、
「はい。華菜様のことでお越しのようです。今、箭重に
「まぁ、箭重に。箭重は何かしら愚痴っておりませんでした?」
「あらっ?そんなこと月子様がご心配なさらなくとも。箭重はちょっと性格がきつい子ですが、いい子ですよ。まぁ、あんなに剣術が達者なのですから無理もないことです」と、登葱は要領良く月子の
「それにしても何の用でしょう。わたくしは月子様のお言葉を信じておりますが、やはり何の騒ぎもなく、お姿だけ見えなくなるのは釈然と致しませんね。」
「妄想かも…」
それから暫くののち箭重が月子の
昨夜のこともあったので、少し落ち着かない様子の月子に比べ箭重は、いつもの冷たい面持ちで機敏に
「挨拶はいいから、何があったのか聞かせて下さい」
「東山様と華菜殿の家人の話しを直接盗み聞くことができました」
「直接ですか?」
月子は、天井に組まれた大きな
そうした状態に
状況に慣れた月子が文字を追いかける。
『戦場に鬼の形相をした
「…ま」
「寝て…すか?」
「ふざ…るの…か?」
「聞い…なか…う」
「きこ…さま」
「つきこさま」
月子は唐突に
箭重は苛立ちを隠さず、
「
「いったい何を申されている?今はそんな話しをしていませんよね」
「
「何も隠しておりません」
「いいえ、男の子は存在する。我の妄想ではない。男の子は悪霊が黒い霧のように見える。それは空に浮かび
箭重はただ唖然として月子を見た。
「今、その話しする必要が…あり…ますか?」
「さぁ、必要ないかも。でも
「いいえ、放っていませんし、今そんなこと考えてもいません。私がそんな言葉放つはずがありません」
「そうか?何故其方からそんな言葉が出たのだろう?」
「それは昨夜月子様がお尋ねの事では?私には何の関係もない。そんな言葉は私の中にはない。妄想では?」
「妄想…。もし妄想であるのなら。
「と言うことはもう報告はよろしいと言うことか?」
「
「承知いたしました」
そう言うと、箭重は
「行くんだ?」月子は後悔した。
箭重は、呆然としている登葱に「聞いていたでしょう。報告はもう終わっている」と、言って去っていった。
「全くあの者は
怒りのまま月子が言う。
「いえ、月子様も人のことは言えませんが…」
「どうしましょう?登葱。親しい
「箭重殿に
「えっ、登葱どうしてそんなこと知っている?」
「まぁ、月子様、やっぱり何も聞こえていなかったのですか?あんなに一生懸命箭重が報告していたのに、何も聞こえていなかったなんて、箭重が気の毒です」
「聞いていなかった。登葱は聞いていたのか?」
「はい全部聞いておりました」
「良かった。箭重の報告を全て伝えて下さい」
「ですから、今伝えていますが…」
「あっ…そうですね。続けて下さい」
登葱は何処まで話したのか、頭の中で
「華菜殿まで…まったく藤家のものは何でも使いに出すのですね。抄峯殿も使いに出したまま戻って来ないではありませんか?都合の良い話しですね」
「と言うか、下手な言い訳ですね。それでは家人は怪しむだけでしょうに」
「それから?」
「仕方ないので、東山様は客室に家人を案内して、華菜様が帰って来るまで決して家の中をうろつくなと厳しく仰ったそうです。礼儀をわきまえているとはいえ家人も納得出来ないようでひどく
「もう、それは本格的ですね。華菜殿はもう亡くなっていると考えているのでしょうか?」
「それは何とも…ただ箭重が申すには、家人は恐らく華菜様の兄上と
「でしたら事が明らかになる可能性がありますね」
「そうですね。そうなるといよいよ月子様の予知能力が妄想ではないとの証しになりますね」と、登葱は嬉しそうに言った。
「
月子は
「よくできた妄想だと思っていました」と、登葱は満面の笑みを浮かべた。「まぁ、よく当たると評判だったので、意外と月子様は因果の
月子は登葱の無神経な言葉に落胆し肩を落とした。登葱さえも妄想だと思っていたのだ、案外皆そんな風に面白がっていただけなのだろう。人の心など透けて見えないのだから予測していたとしても、斜め上を行くばかりだ。
「登葱、もう東山殿のお客人には今後一切会わないから釘を刺しておいて下さい」
「月子様、きっと東山様はもうそれどころではありませんよ。これはちょっとした騒ぎになりますよ」
月子の心知らずの登葱のはしゃぎようが余計に月子を苛立たせた。
しかし、登葱は月子のそんな落胆と苛立ちをよそに
「月子様、一大事でございます。」登葱はかすかな笑みを浮かべながらも驚嘆した顔で言った。
「何事ですか?と、言うか、なんか楽しいことでもあったのか?」
「まぁ、そんな
「だからどうした?」
「月子様に菓子のご用意をしていましたら、若様の使いが
「なんと…?つい先程、もう会わないと申したばかりではありませんか?」
「えぇ、そんな事聞いていませんが?」
「いえ、申しました。もう、妄想など人には見せたくありません」
「もしかして、東山様のお客人のことですか?いえいえお客人ではありませんし、それに妄想とは言い切れないじゃありませんか?月子様は喜ぶと思っていました。だって若様ですよ。若様が来るのですよ。真相を暴く時が来たのではありませんか?」
そうか。月子は複雑な思いを胸に秘め若君の、あの悲しそうな怯えたような表情を浮かべた夜のことを思い出した。
「
「わたくしは月子様に合わせた訳ではございません。月子様には何かが見えていたと信じておりますし、その何かを見て月子様が呟いていた言葉が本当に不思議だったし、楽しくもあったのですが、昨今東山様みたいに月子様をまるで見世物のように扱っていることが、ただ許せないだけなのですよ。ですからわたくしにとって月子様は月子様。予知者であろうと、そうで無かろうと、そんな事はどうでもいいのですよ」
「その割には若君の来訪にやけに心を躍らせていませんか?」
「そんなことはございません」と、登葱はやっぱり笑みを隠しきれず月子を見た。「ですが、この家は何と申しましょうか、いろいろ釈然としない事が多すぎますし、居心地が悪いからはっきり致したく思うばかりでございますよ」
「登葱は怖くはないのですか?」
「いえ、わたくしは怖いと思ったことなどございません。月子様はわたくしが守りますし…あっ、そうだ。わたくしは廊下に控えて、
この家は、登葱が言うように本当に釈然としない事が多い。月子は、
月子はずっと同じ景色のなかでぐるぐる回っている惰性を感じないではいられなかった。
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