月下回廊

津木乃詩奇

予知者の妄想

 仄かな月明かりが衝立の障子を通して、寝床まで訪れる、ほんの少しの安らぎの時。うとうとと眠りにつこうとしたころだった。遠くから響く悲鳴が浅い眠りを妨げた。悲鳴は続けざまに響く。声の主は違う。大勢の足音でたちまち屋敷中が騒然とし始めた。幾重にも重なる悲鳴。全て断末魔の叫びだ。

 つい今しがたまで、皆と喋っていたが、やっと落ち着いて寝床に入ったところだ。ほんの少し遠い過去を思い出しながら、懐かしい人に触れ、ほんのいっときでも幸福な気持ちでいられたというのに、それは安穏あんねいを切り裂く不快な音だった。

 しばらく天井を見つめていると、障子の向こうから細々とした声が聞こえてきた。

 「月子つきこ様、起きて下さい。声を出さずに静かにしていて下さい。今、わたくしめがそちらに参ります」

 言葉通り、静かに身体を起こすと同時に侍女の阿袮あねが障子を超えてかたららに寄る。

 「これから外に出て、西側の竹林に向かいます。竹林を真っ直ぐ走り抜けますので、月子様は何も考えずに、このわたくしめのそばを片時も離れないで下さい」

 「阿袮あねなのか?何ごとですか?」

 「月子様はただわたくしめのそばにいて下さればよろしいのです」

 「登葱ときはどうした?」

 「登葱とき様はじきにおいでになります」

 こうした言葉を交わしながら阿袮あねは月子に黒っぽい羽織を頭から被せると、両腕を強くつかみ、たいを出た。

 阿袮あねが掴んだ腕が震えている。それは阿袮あねから伝わってくる激しいくらいの恐怖なのか?阿袮あねに押されながら月子は長い渡り殿どのを走る。西の竹林に着くと、前後が入れ替わり阿袮あねが前に立つ。羽織を更に深く被せられ、視界が遮られる。右の手首を掴まれ、強く引っ張られた。

 「阿袮あね、痛い」

 月子の訴えに気づくことなく阿袮あねは、ただ走り続けた。乱暴に引っ張るその腕の力からあるじを思う気持ちなど、もうすっかり失っているのだろう。と、月子は思う。

 ふたりは屋敷内にある竹林を走った。黒い羽織で視界を遮られた月子に容赦なく襲いかかる竹の感触で想像することができた。この竹林の奥に月子は足を踏み入れたことはなかった。西側の竹林は広く、東南北にあるそれぞれの門に繋がる屋敷の境界線が曖昧になる場所だった。その奥には小高い山々が連なる。竹林と山のふもとの境目を月子は想像することができなかった。それだけ広かったからだ。

 やがて阿袮あねの速度が落ちた。月子はもう走れなかった。何度も阿袮あねを止めようと思ったが、あらがう力は残っていなかった。しかし、阿袮あねの体力も遂に尽きてしまった。阿袮あねは月子の手首をふうっと離した。その反動で月子の身体がふわっと浮いた。次の瞬間、竹に衝突し、視界を遮っていた羽織が宙を舞った。

 月子は疲労と激痛で気を失った。しばらくすると、周囲で人の囁く声が聞こえてきた。誰かが噂話をしている。言葉が耳に入る。無数の言葉が無作為に耳に入ってくる。そればかりか暗闇に無数の文字が浮かぶ。取り留めもなく、浮かんでは消えていく。やがて文字は意思を持ったように舞い始める。大きい文字、小さい文字。色がついた文字。そしていくつかの文字が整頓してひとつの言葉をつむぎ、すぐに消えた。と、同時に「起きろ」と叫び声が聞こえた。

 月子は瞬時に目蓋まぶたを開いた。目の前に阿袮がいる。呼吸を整える。状況を確認する。首筋に冷たくて不快なものがある。光る物を視界の隅に捉えた。

 「阿袮。」

 月子は、幼い頃から虚空こくうに浮かぶ文字が見えた。

 虚空こくうの文字は言葉をつむぎ、阿袮の残酷さを歌っていた。

 「其方そなたは何をしている?」と、月子は言った。

 阿袮は声もなく笑った。

 「われは死ぬのか?」

 「月子様は悪くないのです。何もかも月子様にいている物の怪が悪いのです。」

 「物の怪とは何だ?」

 「わたくしめが物の怪を退治いたしましょうぞ。月子様の言葉をあやつり、世を混乱させる言霊ことだまの物の怪。」

 「間違っているぞ。言霊ことだまとは一言主神ひとことぬしのかみだ。物の怪ではない」

 「どんなお言葉でも月子様が仰ると、それは世を混乱させるほどの力を持つのです。どうぞご自覚なさいませ」

 「間違いは認めぬのか?」

 「じきに平家は滅ぶと月子様が仰ったとたんどうですこの有様です。大勢の平家が屋敷を襲ってきたのです。」

 「何を言っている?何かの芝居か?この騒ぎは平家の仕業だというのか?それに平家が滅ぶなど言っていない。其方そなたは誰の言葉に踊らされているのだ。」

 「踊らされてはいません。月子様がそう仰ったのです。だから平家が襲ってきたのですよ。」

 「だから言ってない。この騒ぎは平家の仕業しわざなのか?」

 「平家でございます」

 「平家だとして、其方そなたは何故我の首筋に短刀を突きつけているのだ?」

 「わたくしめは月子様の侍女である前にご当主様の侍女でございます。ご当主様や若様を危険にさらすわけにはまいりますまい。」

 「そうか、人思いに短刀を引けばよい。だが当主が生きておれば我を殺した其方そなたも無事ではないだろうな。地獄で会うかもな。」

 阿袮の顔に恐怖が浮かぶ。

 「覚悟もないのか?」

 「いいえ、ご当主様と若様の為とあらばわたくしめの命など惜しくもございません。」

 「もし平家が我の命を狙って屋敷を襲撃したのならば、我の命を取った其方そなたが平家にとって一番の手柄てがらとなるな。つまりあるじを変えるのだな」

 「何を…」阿袮は、顔をしかめるほど悔しがった。月子の左半身に緊張が走る。首筋に短刀が強く押しつけられたからだ。引けば確実に動脈が切られる。

 こんな馬鹿げたことで死ぬのか。と月子は思った。生きていたところで、誰かのこまとなり、動かされるだけだが、動かしている者の正体は分からない。企てる者、踊る者、踊らされる者、巻き込まれる者、傍観する者。自分の立ち位置はどこなのだろうか?そして、この阿袮は?

 「其方そなたは…」月子は呟いた。

 阿袮は、誇りばかり高く少し頭の弱い父に放任され、他人の手によって育てられた。貧しく平凡な自分の境遇に失望していた阿袮の父は、出自しゅつじを妄想し、現実と妄想の区別がつかないような男だった。ある時は長屋王の子孫だと吹聴ふいちょうしたり、高階たかしな家の分家だと嘘をついたりしていた。そんなある日、高階たかしな家の屋敷に出入りしている、どう見ても庶民的な僧侶を目にした。いつしか男は、その僧侶に付きまとうようになった。どう贔屓目ひいきめに見てもぼろをまとったその僧侶は、その容姿に反して、どうやら高階たかしな家の庭園の造苑ぞうえんを任されているようだった。男はその情報を高階たかしな家の下働きの男から聞き出していた。それが男の唯一の特技だった。兎に角口が上手く、人を丸め込んでしまうのだ。僧侶に付きまとううちに、男はいつしか高階たかしな家の庭園の管理を任される立場にあると妄想し、虚栄心を満たしていた。その僧侶は、造形や立石たていしと植物に博識があり、そればかりではなくかなりの知識人で高階たかしな家から深い信頼を得ている人物だった。また、たいそう温和な人物だったがために男が付きまとったところで文句一つ言わなかった。男はつけ上がる一方だった。男は、庭園に興味があることをよそおい僧侶が高階たかしな家に出向く折、何かと理由をつけて手伝わせてもらった。手先が器用だったことと、話術が長けていたことで男は重宝がられるようになり、次第に高階たかしな家への出入りも増えていった。出入りするのも困難な高階たかしな家に自由に出入りできるのだから、縁戚えんせきと言っても誰にも気付かれないだろうと、男は嘘をつき続けた。そして時が経つにつれ現実と妄想の区別がつかなくなっていった。やがて縁戚えんせきから分家へと変化していった。男の虚言きょげんに誰も気づかなかったのは、そんな男に誰も興味がなかったからだ。

 阿袮の母はそんな男の虚栄心と妄想を満足させるために、とっくに縁が切れていた実家に頼み込み、苦労して手に入れた豪族の娘だった。何も知らない箱入り娘だったので、初めのうちは従順じゅうじゅんに男に従っていた。しかしやがて男が嘘ばかりついていることに気がついた。しかもそれは現実と掛け離れた大きな嘘ばかりだ。現実と虚言の狭間はざまのない、息が詰まるような生活をずっと続けると、健全な者でも崩壊してしまうものだ。阿袮の母はそうなるべくして心の均衡きんこうが保てず崩壊した。やがて頻繁に癇癪かんしゃくを起こすようになり、毎日泣きわめき、怒り狂い、手がつけられなくなっていく。そんな姿を見てけものに取りかれたと人々は噂するようになっていった。阿袮の家は没落寸前だったが、実家や他人の助けを得てなんとか難を逃れ、今日に至っていた。

 ある日、あの博識な僧侶が男に頼み事をした。その頼み事は奇妙な内容だった。

 博識な僧侶は信蕉しんしょうという名前だ。信蕉しんしょうが言う。  

 「これから話すことは全て内密に願いたい。世に一言でも漏らすならば、そちの命はないと思っていただきたい。そちは高階たかしな家の分家なのだろう。分家であるならば、これはそちの使命でもあるな。ある姫様を命を賭して守っていただきたい。その姫様は今は亡き信西しんぜい様ゆかりの姫様でございます。」

 男は身震いするほど緊張した。

 「特別な姫様にございます。そちには娘がいましたね。娘によく言い聞かせ、侍女として姫様をお守りし、おつかえするのです。姫様は藤原家の遠縁とおえんにあたる方にかくまって頂きますので、近々その屋敷へと向かいます。その折、そちの娘を侍女としてお供させられますか?しっかりと使命を果たしていただきたい。引き受けていただけますか?もっとも、断っていただいても構いませんが、その時はそのお命はないものと思って下さい。」

 その時、男は選択の余地がないことを悟った。と、同時にその使命に戦慄せんりつし震えた。自分は名実共に高階たかしな家の分家となったのだ。と、更に都合の良い妄想を抱いた。

 信蕉しんしょうの罠にはまったことなど微塵みじんも思わない、気の毒な男の娘が、この阿袮だ。

 月子は嘲笑した。

 「其方そなたは哀れな女子おなごだ。よいぞ。一思いに短刀を引かれよ。其方そなたの使命は終わった。その命も尽きるだろう。其方そなたが短刀を引いた瞬間に。」

 阿袮は恐怖で生唾なまつばを飲み込む。額から流れ落ちた汗を、冷たい硬いものが受け止める。それが刀であることが容易に理解できた。それは右の頬にあった。

 「短刀をおさめよ」

 「そのお声は、影近かげちか様」と、絶望して阿袮が言う。背中に殺意を感じる。

 「この場でお前をってもいいのだぞ」

 阿袮は短刀を投げ捨て、うずくまった。

 「影近様、申し訳ありません。これには訳がございます。仕方なかったのです。御当主様と若様をお守りする為でございます」

 「藤の当主と若様だと?お前が何故藤の者を守るのだ?藤の者を守る為に月子様に刀を向けているのか?本末転倒もいいとこだ。月子様この者を殺していいですか?」

 「好きにするがよい。だが殺すのも愚かしい。この者がこんなに頭の悪い女子おなごだと知らずにいた我も愚かしい。この者がここに来て、しばらく我につかえていたが、いつしか我の傍にいることが少なくなったと思ったら、いつも若君の傍にいた。我はそれをとがめもしなかった。どうでもよかったからだ」

 月子は、ゆっくりと立ち上がり、阿袮を見下ろした。

 「しかし、それで終わりではなかった。其方そなたが若君の傍にいると何故か若君の侍女が一人、また一人と消えていく。今だに行方知れずだ。我はその侍女を存じておるぞ。華菜かな紫乃しの抄峯とねという我にとても親切にしてくれた者達だ。其方そなたよりもよほどつかえてくれた。中でも紫乃しのはとても親切だった。よく面白い話を聞かせてくれた。しかし、紫乃は訪ねて来なくなった。何故だ?」と、月子は阿袮を睨んだ。阿袮が怯える。影近が刀を構え直した。

 「阿袮、我が聞いているのだぞ。答えよ。紫乃、華菜、抄峯に何が起こった?まさか其方そなたが手を下したのではあるまいな?」

 「滅相めっそうもございません。」阿袮が震える。「わたくしめが何をしたと?」

 月子が嘲笑する。「それを聞いているのだ?」

 「なんと?信じて下さい。わたくしめがいったい何をしたと仰るのですか?」

 「華菜が豪族の娘だと其方そなたも知っているのだろう。華菜の姿が見えぬようになって心配した家族のものがこの屋敷を訪ねてきている。この竹林をさがしていたぞ。この竹林の中に最も竹が密集した竹藪があるそうだな。さて、そこからいったい何が出てきたのやら。だが残念だ。まるで示し合わせたようなこの騒ぎだ。まさに真相は藪の中だな」と、月子は嘲笑した。

 「月子様、そんなことどうでもよろしいではございませんか?この者はあるじやいばを向けたのです。斬首に値しますぞ。わたくしがお斬りしましょう」と、影近が言う。

 阿袮は影近の言葉に短い叫び声を上げた。

 「影近様、誤解でございます。わたくしめのあるじはご当主様にございます。影近様は思い違いをなさっておられます」

 「何を言っておるのだ…」

 「影近殿、もう何を言おうとこの者には響きますまい」と、月子はさえぎった。「影近殿が手を汚さずとも、この者はすぐに地獄に堕ちましょう。必ず報いを受けることになりましょう」

 月子の言葉にとどめを刺された阿袮は耳をふさぎ、ただただ怯えた。阿袮は月子が予知者よちしゃであることを信じて疑わなかったからだ。月子の言葉は絶対だった。月子がつむぐ言葉には霊力があり、それを聞いた者が言葉に支配される様を幾度となく見ていた。月子の言葉を聞いてはいけない。そんな強迫観念と抑圧が今の阿袮を動かしていた。

 四季がひとつさかのぼった頃だった。

 阿祢は、月子に恐怖を覚えていた。ただ怖かったのだ。月子から逃れたい一心で、まず、若君の侍女、紫乃に救いを求めた。

 「紫乃様、大変申し上げにくいのですが、わたくしめは月子様の傍でつかえることが大変怖いのでございます。紫乃様はすごく仕事の出来る方だし、頭も大層切れるお方と存じます。この先わたくしめは、ずっと月子様の傍でおつかえしなくてはならないのでしょうか?何か手立てがあるのなら、わたくしめは何でも致します。」

 紫乃は困った顔をして、「そんなことを言ってはなりません。月子様の素性は存じ上げませんが、大層身分の高いお姫様とお伺いしています。そんなことを聞かれたら、命が幾つあっても足りませんよ。」と、いさめられたが、相談には乗ってくれた。

 「あなたは、いつも忙しく働いているといいわ。なるべく月子様から離れられるようなお仕事をわたくしが見つけておきましょう。月子様がお怒りにならないくらいの丁度いいお仕事を。あながそのお仕事をなさっている間、わたくしが月子様のお世話をしましょう。若様にはそれとなく話しておきますから」そんなふうに紫乃が言ってくれた。

 「大丈夫でしょうか。月子様はお怒りにならないかしら?若様にご納得していただけるでしょうか?」

 「わたくしが見る限り月子様がお怒りなったところを見たことがございません。あなたが何を恐れているのか存じませんが、月子様はたいそう高貴な出自しゅつじであらせられましょう。とても優雅でおっとりしていらっしゃる。きっと細かなことなぞ気になさらないでしょう。気に病むことはないと存じます。」

 「いいえ、紫乃様は月子様が予知者よちしゃとご存じないのですか?月子様は見たこともない方々かたがた境遇きょうぐうを瞬時に言い当て、その行末ゆくすえまどうことなくおしめしになられるのです。そして知らせが届くのです。方々かたがた行末ゆくすえが。皆、月子様のお示しの通りになられるのです。月子様がお喋りになるたびにわたくしめは震えが止まらないのでございます。」

 「なんと?おそろしい。あゝ、だからお客様が絶えないのですね。誰だってご自分の行末を知りたいですもの。承知いたしました。わたくしにお任せ下さい」

 紫乃は首尾よく何もかも上手くやってくれた。ちょうどその頃、若君の侍女のひとり抄峯とねがいなくなった。抄峯とねがいなくなった理由は、誰も知らなかった。使用人達の間でにわかに様々な噂話がささやかれた。しかし当主は、抄峯とねを遠方へ使いにやったと使用人に伝え、抄峯とねのことを詮索せんさくするものに罰を与えた。阿袮にとってそれは好都合な出来事だった。その間阿袮を貸してくれるよう若君から命じられた侍女頭が月子に頼んでくれたのだ。月子は紫乃の言う通り、細かなことに無頓着だった。

 紫乃が初めて月子の世話をした日、月子は紫乃の存在さえ気づいていないようだったが対照的に乳母の登葱ときがひどく神経質で、月子に直接触れることや言葉を交わすことを異常に嫌った。だから紫乃は主に雑用ばかりやらされた。しかし紫乃は月子とのお喋りがわりと好きだった。月子は人を区別しない。相手が誰であろうと皆等しく接した。高貴な者が持つ傲慢ごうまんさが少しもなかった。しかし紫乃から話しかけることはできない。登葱が許さなかったからだ。よく「身をわきまえなさい」と言われた。威厳いげんがあるから登葱ときの前に立つと身がすくむ。声も出なくなるほどだ。

 月子にはあまり威厳いげんは感じなかった。阿袮が言うようなおそろしさもない。ただ月子といるとよく分からない幸福感を得ることができた。誰にも感じたことのない感覚。だから月子の世話をするのはいやではなかった。登葱ときがいない時、天気のことや草花のことを話してみた。月子はほんのり微笑みながら柔らかな声で言葉をつむぐ。あゝこれが幸福というものなのだろうか。と、紫乃は思う。

 しかし、そんな幸福は長く続かなかった。ある日、登葱がいない絶好の時、紫乃は町で起こった小さな騒ぎについて教えてあげようと、月子に声をかけた。

 きっと月子様は喜んで聞いてくださるだろう。

 「月子様は琵琶法師様をご覧になられたことございますか?時々平家のことを歌われる法師様がいらっしゃるのですが、わたくしは先日遂にそのお方に出会ったのです。でもわたくしは平家のことはよく分からなかったのですが、そこに変わった女子おなごが近づいてきて、法師様の隣をじっと見つめているのです。そしてわたくしに言うのです。その娘さんは何と歌ってらっしゃるの?と。驚きました。そこに娘さんなぞいないのですよ。月子様。その女子おなごは何を見ていたのでしょうか?」

 月子はしばらく思案を巡らせるようにじっと虚空こくうを見つめた。そして紫乃を見た。

 「存じております。その法師様。いえ、むしろ親しかった方です。法師様のことを思うと涙が出ます。隣には娘さんが寄り添っていらっしゃいました。我と同じくらいの娘さんでした…」

 再び月子は虚空こくうを見た。虚空こくうに浮かぶ何かを見ているようだ。

 「親しかったのですよ。一緒に笑いましたし、遊びましたし。すごく好きでした。でもある時、騒動に巻き込まれてしまって…、子供が斬られそうになるのを止めようとした。それに腹を立てた、悪鬼のような者に娘さんはられてしまったのです。娘さんは法師様に抱かれたままかれてしまわれました。法師様は悲しむことさえ忘れて、ただただ茫然としていらっしゃいました。本当に悲しい出来事です。そうですか。娘さんは今も法師様に寄り添っていらっしゃるのですね。良かった。しかし、その変わった女子おなごは死んだ者が見えていたのでしょうか?是非、お会いして、その話しを詳しくお聞きしたいわ。」

 「月子様。申し訳ございません。わたくしとしたことが、軽々しく申し上げていい話しではございませんでした。月子様のお気持ちも考えず…」

 「人の死は悲しい。そして他者の命を軽く見て、害する者は悪鬼なのです。悪鬼はいつも近くに存在しているのですよ。紫乃殿。そのような者を絶対許してはなりません。」

 月子は、そう言うと、暫く黙り込んでぼんやりと虚空こくうを見つめた。紫乃は月子が感情を表に出すところをあまり見たことがなかったので、謝罪して、その場を離れ、静かに様子をうかがった。

 紫乃の話しで月子は昔のことを思い出していた。その出来事は月子のこころに暗い苦悩を呼び覚ました。思い出したくない出来事だったけど、決して忘れてはいけない、深い傷だ。こうして一つの出来事に触れることで、こころの状態が著しく掻き乱されてしまう。紫乃の言葉で、月子に暗鬱あんうつな空気がまとわりついてきた。

 そんなこころの状態につけ込むようにカサカサという音がした。まるで虫が這い回っているような音だ。月子は、恐る恐るたいの壁を見た。それはこの屋敷を訪れてすぐに現れた。壁を這い回る読めない文字。虚空こくうを漂う文字はいつも見ていた。何処からかふわりふわりと移動し、月子の元にやって来る文字、その場所にずっと縛られ留まっている文字、そして人の身体から出て来る文字。文字はやがて言葉をつむぎ、月子に何かを伝えるのだ。だから月子は集中して、それらを読み解いた。言葉は必ず意味を持っていた。

 しかし、屋敷の壁を這い回る文字は初めてだ。読めない文字の中に因という文字と果、縁という文字を見つけたが、それ以外は全く読めない。文字の形も蛇のようにうねうね曲がっていて、すごく気持ち悪かった。それが本当の文字なのかさえ分からない。最初にそれを見た時、月子の身体に悪寒が走った。何か受け入れ難い不吉な予感。この世界とは違う、別の世界から這い出て来ているのではないかと、月子は思っていた。しかし、初めて若君を見かけた時、身体から発せられる文字を見た瞬間に驚愕した。全く同じ文字がゆっくりと現れ、壁を伝い始めたのだ。やがて虫が這うように四方八方に別れて、屋敷中を這い回った。

 これまで経験したことのない光景を目の当たりにした月子は混乱し、恐怖におののいた。そして若君から漂う禍々まがまがしい威圧感に思わず後退あとずさりした。

 それを確認してからすぐに月子は、阿袮の様子が出会った頃と変わったことに気づいた。ちょっとはお喋りな娘だと思っていたが、毒気のある言葉をずっと吐き続けるようになった。いつもそわそわして、まるで若君に魅入られでもしたかのようにぼんやりしたかと思うと、すぐにいなくなった。この屋敷は何かおかしい。

 そして昨日のことだった。月子の対の屋の庭から少し離れた、離れの屋敷に通じる小径で若君に出会でくわしたのだ。その時も若君から呪文のような気持ち悪い文字が現れていた。若君は後ろに華菜殿と紫乃殿をしたがえていた。三人には月子など存在しないように、何も見えていないようだった。だが、紫乃が気づいて、月子の元に歩み寄った。その瞬間、登葱が二人の間に割って入り、紫乃を遠ざけようとした。紫乃は、素直に月子にお辞儀をして離れていった。

 しかし、月子は、紫乃を見ていなかった。若君の身体から現れる気持ち悪い文字が華菜の身体に蛇のように巻き付いているのを見ていた。その姿がまるで物の怪のようで恐怖のあまりぶるぶる震えた。そして、三人が、側妻そばめが住むという離れの屋敷へと消えていくのを見届けると、月子は気を失ってしまった。

 目が覚めた時は、すでに夜のとばりが降りていた。対の屋の寝床に寝かされていた月子の視界には登葱がいた。心配気な表情をしていた。

 しかし月子は、登葱の後ろに漂っている文字に気づいて、登葱から視線をはずした。

 「月子様、お気分は如何ですか?ずっと気を失ったままで随分心配いたしました。月子様、分かりますか。いきなり倒れてしまって、わたしひとりでどうしようもなかったので、近くを歩いていた使用人にここまで運んでもらったのですよ。あれは誰なのかしら、時々若様の傍にいるけれど、従者なのかしら。本当にあの者がいて助かりました。」と、言う登葱の後ろで文字がゆっくりと言葉をつづった。

 『華菜という女子おなごか?ついに殺してしまったのか?なんとあわれな女子おなごだ。こんな残酷な殺し方をしなくとも、楽に殺してやればよかったものを。このむくろはどうするつもりなのだ?ああ、あの紫乃に片付けさせればいいか。竹藪にでも運ぶだろう。』

 会話だ。誰?いや、考えなくともわかる。華菜殿を縛りつけていた、蛇のようなあの気持ち悪い文字の主。この屋敷には本物の悪鬼が住んでいる。

 「登葱…。」

 月子は、蝋燭ろうそくの仄かな灯りの中で不安を覚えた。信蕉しんしょうが何故、この屋敷へ行くように命じたのか分からなかったからだ。

 「どうしました?」

 「義父上ちちうえは何故我をここに来させたのでしょう。もう、誰も見えない文字など読まなくてよい。と、そう仰ったから、我はずっと見ない振りをしていたのですよ。今更…何なのですか?」

 「ええ、月子様何も変わっておりませんよ。読まなくていいのですよ。」

 登葱の言葉に月子は少し安堵したのか、ゆっくりと眠りについた。

 月子は、紫乃がいなくなっていることに気づいた。随分長い間考えごとをしていたのだなと思った。紫乃を探す為に立ち上がり、庇の廊下へ出た。紫乃はそこに座っていた。月子の姿を見ると、すぐに会釈をした。

 「紫乃殿、すまなかった。話しの途中だった。我は時々ぼんやりしてしまう癖があるのです。まだ、話しは終わっていないのですが、また中に入ってくれますか。」月子がそう言うと、二人は元の場所に戻って話しの続きを始めた。

 「紫乃殿は昨日の夜は何をなさっていました?」

 「えっ、特に何もしておりませんが。仕事を終えた後は普通に休ませて頂きました。」

 「まぁ、よく眠れましたか?では、華菜殿は何をなさっていらっしゃいました?」

 「華菜様は存じません。月子様はご存知ないかもしれませんが、華菜様はわたくしのような者とは身分が違います。華菜様は身分が高いお方で藤家にはお行儀見習いで滞在なさっておられます。奥方様がご教授なさるはずでしたが、ご存知のように病にせっておられますので、華菜様は特に何もする必要はなかったのですが、何故だかご自身から若様の侍女のようなことをなさっているのです。本当のことを申し上げると、若様も少し困っておられました。」

 「そうなのですか。それは知りませんでした。ここに来て日も浅い故、藤家のことは知らないことが多いのですよ。」

 「月子様がご無理に存じ上げずともよろしいかと存じます。大切な藤家のお客様ですから。」

 「いえいえ、そう言わず紫乃殿からいろいろ教えて頂けたら有り難く思います。そうだったのですか。華菜殿は侍女ではなかったのですね。でしたら抄峯殿は?」

 「抄峯殿は藤家の知人の紹介で普通の庶家の娘で、早くに親御さんを亡くされたと伺っております。」

 「そうですか。抄峯殿は普通の庶家の娘さんなのですか。今は何処かに使いに出掛けているのですね。いつ戻られるのでしょう?阿袮あねは抄峯殿の代わりが務まるのでしょうか?我は、代わりに紫乃殿が来ていただけて嬉しいですが。このまま抄峯殿が戻ってこなければいいなどと、そんなわらべみたいなことを考えてしまいます。」と、月子は微笑した。

 紫乃も笑った。「いえ、月子様にはご不便をお掛けします。阿袮殿の代わりとはいえ、時々しか伺えずに大変申し訳なく思っております。」

 「いえ、本当にもう抄峯殿は戻って来ないと思います。阿袮あねをずっと若君の手元に置いて大丈夫かしら?あの子はお喋りで少し意地も悪い。紫乃殿は不快な思いをなさってないかしら?」

 「えっ?」

 「抄峯殿はもう戻って来ないと申しました。」

 「そんなことはないと思います。戻って来ますよ。」

 「ええ、もう戻って来ません。それは紫乃殿もご存知かと思っておりました。」

 「それはどう言う意味ですか?」

 「意味は分かりませんが、抄峯殿は戻って来ません。ところで今日華菜殿の姿を見かけましたか?もし、華菜殿の姿を見かけなかったら、華菜殿の姿をもう見かけることはないでしょうね。」

 「月子様は、いったい何をおっしゃっているのですか?」

 「其方そなたもわかっているのでしょう。他者の命を軽く見ている悪鬼がこの屋敷の何処かにいますよね。」

 「月子様…突然、何をおっしゃるのですか?」

 「すごく恐ろしい話しです。そんな悪鬼と共に生活をしているという話しです。」

 「……」

 「しかし、まだ間に合います。紫乃殿、待つことはないのですよ。逃げるという方法もあります。」

 「何が間に合うのですか?何を待つのですか?」

 「お気づきになりませんか?」

 「何を…?」

 「抄峯とね華菜かな、そこで終わりなのですか?次は貴方ではないのですか?」

 「月子様が何を仰っているのか、わたくしにはまったく分かりません。」紫乃は震えた。阿袮の言う通りおそろしい。

 「紫乃殿は本当に素直で良き侍女だと思います。だから今すぐ逃げるのです。逃げなさい。其方そなたむくろの始末をすることは平気なのですか?」

 「月子様、大丈夫ですか?何かおかしいですよ。わたくしは月子様とお話しすると、とても幸せでした。ですが、それを…何故…貴方はわたくしの良き…」

 「落ち着いて下さい。しっかりするのです。この世に命より大切なものなどないのですよ。もしよろしければ貴方が逃げた後の生活は我が何とか致しましょう」

 「月子様は恵まれているから、そんなことが言えるのです。いったいわたくしの何を知っているのですか?」

 そう言うと、紫乃はたいを出た。

 「なんと…何故、逃げぬ?」

 「人というものは、何かしら自分にかせをはめて、逃れられないものなのです。月子様が気にすることではございません。」

 突然障子の影から登葱が現れた。

 「登葱。また其方そなたは盗み聴きしておったな」

 「そんなはしたないことは致しません。聞こえたのですよ。藤家の使用人から聞いた話しですが、若様の侍女は身分も立場も違うらしいですよ。抄峯とねはもともと奥方様の侍女で、知り合いの娘さんだから、侍女といっても奥方様と仲が良かったそうです。そして華菜殿は藤家よりも身分の高い家から行儀見習いに来ているとか。奇妙な話しですね。紫乃しのはどうなのかしら?聞いたことないわ。そんなことより月子様、何が起こっているのですか?紫乃しのにあのような忠告なさって。この屋敷には何かあるのですか?」

 「まだ分かりません。」

 「紫乃しのにあのような忠告してはなりませんよ。口は災いの元です。使用人に情など持ってはいけません。月子様は、わたくしが心よりつかえた高貴なお方の姫様なのです。訳あって、その身分を表に出せないのですから、わたくしがお守りするしかないのです。あの者はわたくしに断りもなく、勝手に月子様に近づく不届者なのです。特別な感情はお控え下さい。」

 それから月子は黙り込んだ。深い沈黙だった。肉体はここにあって、魂は別のところにある。登葱は幾度もそんな月子の姿を目撃した。もう声を掛けても届かない。静かに見守るだけだった。

 若君は、色白で端正な顔立ちをしている。誰もが息を呑むほどの美しさだ。しかし紫乃には決してそうは見えていないはずだ。色白で端正な顔立ちは氷のように冷たく、残酷だ。その美しさは不気味な物の怪。傍に寄ると息ができないほどの緊張を覚え、苦痛、憎悪、悔恨と様々な感情により思考を止められた者はなかなか闇から戻れない。一歩先に明かりが見えているのに一寸いっすんも進めない。圧倒的な脅威だ。まるで本当の物の怪だ。

 若君をこのまま放っておいてよいのだろうか?呪文のような文字のなかに現れる因果、因縁だろうか?あれは何なのだろう?

 しかし、何が出来るのか?何も考えられなかった。月子は、ひとりでは何も出来ないのだな。と改めて思う。どんな能力を持っていても、それを活かせない。まるで妄想と同じだ。

 以前影近がそんな月子の現象をこんなふうに仮説したことがあった。

 「月子様のそれは、予知と言うものなのでしょうか?月子様は他の者より多くの、人の会話や独り言などご自身が預かり知らぬうちにおきになっていて、それらの全てを頭の中にずっとしまい込んでいらっしゃるのです。月子様の頭の中には小さなひつのようなものが無数にあり、一度聴いたらひつにしまい込み、用がある時に勝手にひつから出てくるのですよ。月子様の御耳は他の者より、遠くの会話や独り言を拾ってしまわれる。それら全てがひつの中にある。それは想像も及ばないほど膨大なのです。」

 影近が言うような、そんなはっきりしたものだったら苦労しないだろう。虚空こくうの文字は月子の意思とは違うところで動いていた。予測もできないし、逃れることもできない。

 文字がつずる言葉を読み解き、意味を考えることしかできないのなら、もっと…もっと深くさぐるしかないのだ。

 因。因果。因縁。今の状態が果であり、過去が因。今の状態が因であるのらば未来が果。因縁。今の状態を作った直接的な原因が因縁、えんに触れることによって、あらゆる現象がおこる。

 今の状態は抄峯とねが死に、華菜かなが死んだということと、華菜のむくろ紫乃しのが竹林に運ぶという事を誰かが、殺した者に向かって話していた内容の言葉を見たという事実。後は不明瞭であるから脳が補う。だから冷静に考えると、妄想と同じだ。これまで読み解けない文字に出会うことがあまりなかったので、事実と妄想のさかいがわからなくなってしまい、そのことさえ気付かなかった。

 ならば、若君の因果の因を調べてみたら多少なり分かるかもしれない。若君の過去に答えがあるかもしれない。

 「登葱」突然、月子が口を開く。

 「わっ。ふうっ!」

 「どうした」

 「申し訳ございません。その状態から声を掛けられることがございませんので、少々驚いただけでございます。」

 「すまない。虚空こくうの文字を見ていたのではなく、考え事をしていたのです。登葱は藤の奥方に会いましたか?我は会っていない。ここに来たとき、奥方は患っていらっしゃって、それから随分経ったのですが、一度もお会いしていないのですが…」

 「わたくしもお会いしたことはございません。何でも長く患っていらっしゃって、床にせったままだそうですよ。だから側妻そばめさんが仕切っていらっしゃって、離れのお屋敷にお住まいのようですね」

 「その女子おなごだったら我も見かけたことがあります。随分気性の荒そうなお方のようで、近寄り難い感じがしました」

 「そうですね。実際鼻持ちならない感じはしますが、どうなのでしょう。奥方が長く病に臥せっていらっしゃるのに、きちんと離れのお屋敷に帰られるし、奥方の地位を侵したりされませんし、節度はおありになるのではないでしょうか。」

 「離れのお屋敷と言っても随分御立派なお屋敷ですよね。本屋敷と変わらない贅沢ぜいたくなお屋敷です。それはお帰りになられるでしょう。」と、月子は苦笑した。

 「ほんに御立派なお屋敷でございますね。あんな大きなお屋敷にお一人で住んでいらっしゃるのでしょうか?侍女もお連れではなかったような気がしますが」

 「そうか?一度会ってみてよいか?」

 「それはなりません。かくまっていただいているとはいえ、月子様が藤家と関わることがないように言われております。」

 「なんと?東山とうざん様が連れてくるお客人は良いのか?」

 「なりません。東山とうざん様はいつもわたくしの目を盗んで連れてくるのですよ。全く口惜しい。月子様も月子様です。客人なぞ相手にしてはなりません。」

 「なんと?それは登葱が食い止めてくれなければ我に抵抗などできるものか」

 「まったく。月子様が予知者よちしゃなんて、誰が広めたのでしょうか?腹が立ちますわ。」

 「ほんに誰でしょう。そのうち突き止めますわ。必ず。必ずめにものを見せましょう。」

 華菜が死んだと思われた日から幾日か経った。月子は乳母の登葱と、使用人の箭重やえと屋敷の庭を散歩していた。見栄っ張りの藤家の庭らしく、広くておもむきのある庭だった。しかし細かなことに気を配られていないし、雑なところが見受けられた。だから時折り登葱が不快気に咳払いをした。

 「月子様、こちらは側妻そばめさんのお屋敷の方向では?」登葱が突然口を開いた。

 「そうですね。先日、側妻そばめのお屋敷のお話しをした時、立派な屋敷とは申したが、実はちゃんと拝見したことがないと気付きまして」

 「月子様、なりません。戻りましょう。」

 「いいえ、戻りませんよ。」

 「我儘わがままも大概にして下さい。ご自身のお立場をわきまえなさいませ」

 「お黙り登葱。我に命令する気か?」

 「きゃっ!滅相めっそうもございません。」

 「何も側妻そばめに会おうというわけではありません。拝見するだけです。それにしても想像より遥かに遠いですね。」

 「お屋敷の南側の敷地は、幾つもの民家を立ち退かせ、つけたしたとお聞きしました。民家はたまったものではありませんね。きっと汚いこともなさったのでしょうね」

 お屋敷に続く小道が見えた時だった。お屋敷の方角から文字がひとつ、ふたつとぽつりぽつりと現れ始めたかと思うと、突然いっせいに文字が溢れ出てきた。次々と文字だけが動き回っていて、何も読めない。時々言葉を見つけても、読み取れる速度ではない。集中しなければ、何も拾えない。

 小道を正面に立つと遠くにお屋敷が見えた。

 「まぁ、小道から意外と遠いのですね。」

 登葱の言葉が遠くかすかに聞こえた。

 月子が倒れかけると、箭重やえが支えた。月子の瞳孔がぶるぶる震えていた。

 こんな姿をよく目撃する登葱だったが、いきなり卒倒するのは珍しかった。

 「つきこさまーーー」

 屋敷の方角から流れてくる文字は、不規則に動き続け、なかなか言葉をなさないし、激しく動く。とらえられない文字が複雑に絡み合い、月子の頭上をぐるぐるまわる。集中しようとしても、意識が遠のいてゆくばかりだ。しかし、月子は遠のいていてゆく意識を戻し、圧倒する大量の文字を見つめ、これ以上ない強い意識で集中した。すると、次第に声が聞こえてきた。女子おなごの声。たくさんの声。全てあの屋敷からだった。何かがあの屋敷で起こっている。

 もっともっと集中して、文字の世界へ入り込んでいくと、一瞬真っ白な虚空こくうが広がり、意識化のなかで文字の速度が落ちていった。文字が見え始める。言葉をつむぎ始めた。そこには死を目前にむかえた女子おなごたちの悲痛な言葉が浮かぶ。

 『私たち死ぬの。』『どうなるのかしら。私は奉公しただけなのに何故閉じ込められるの。』『しっ、黙って、聞かれる。何人も連れて行かれたけど、どうなったのかしら?』

 月子は唐突に現実に戻った。

 「あゝ、よかった。登葱様、月子様がお気づきなられました。」

 「まぁ、月子様、如何なさいました。」

 「何でもない。登葱の言う通り、戻りましょうか?」

 部屋に戻った月子は、余す事なく今の状況をふみにしたためた。調べ事がすごく得意な者がいる。その者に渡すよう箭重やえに託した。

 若君の過去を知る為だった。何故若君は悪鬼となってしまったのか?何か原因があったに違いない。あの綺麗な顔の下に隠された、受け入れられない不条理を探り当てたところで救えるわけではないのだが、しかし放っておける事でもない。もしかしたら、本当に次は紫乃の番かも知れない。あれから紫乃の姿を見かけなかった。箭重やえにそれとなく探らせていたが、まだ見つかっていなかった。紫乃に何かあったに違いない。

 虚空こくうに浮かぶ文字は、月子の思い通りにはならなかった。紫乃の行方を探そうと集中してみても、文字は浮かばない。虚空こくうに文字が浮かぶきっかけが月子には分からなかった。ただ、東山とうざんが連れてくるお客人を目にすると、不思議と文字が湧き出てくる。これまでに文字が出なかったことは一度もなかった。初めて出会う人に思いをめぐらせることがきっかけなのか?月子の中の何かが起動を促すきっかけとなっているのは間違いないのだが、それが何なのかつかめそうでつかめない。文字を自由自在に動かすことができたら、月子に解らないことは一つもなくなるだろう。月子がそれを望まなくとも。

 離れの屋敷から戻って暫くして、意外にも月子の対の屋に側妻そばめがのんびりと散歩をするように現れた。

 登葱と箭重は何事かと身構え、月子は呆然として、声も出なかった。

 「突然のお伺いで大変恐れ多く存じますが、くれないが月子様にご挨拶致したく、馳せ参じました。」

 月子が動くより先に登葱が側妻そばめの前に立ち、御辞儀をした。

 「これは奥方様、ご機嫌麗しゅうございます。さて、本日は如何致しました?」

 「貴方様は登葱様でございましょうか?ご機嫌好う。恐れ入ります登葱様、奥方はおやめください。奥方様は今病に臥せっておりますゆえ、わたくしが代理で奥方様の仕事を引き受けている次第でございます。わたくしのことはくれないとお呼び下さいませ。」

 「恐れ入ります紅様。さて本日はどういった御用件でこちらへお越しいただいたのでございましょうか?」登葱は、警戒を解かなかった。

 「先程、下男から月子様のお姿をお見かけしたと聞き、さすれば何が御用でもおありかと思い、お伺いしたのですが…?」と、側妻そばめは、登葱の背後にいる月子を見た。

 「いいえ特に用はございません。ただ、天気があまりにも良かったゆえ、皆で散歩をしておりました。」と、側妻そばめの視線をさえぎり登葱が言った。

 「まぁ、そうでございましたか。確かに良い天気でございますね。」と、側女そばめは微笑した。「ところで月子様。わたくしは、当主がこっそり月子様のたいにお客人を通していることを存じておりますのよ。」と、側妻そばめは怪しげな笑みを浮かべた。「何やら怪しいことをされているのかと思いきや、何でも予知能力がおありだとか?でも、これは内密なお話しだそうで、わたくしにさえ教えては頂けませんでしたのよ。ここに来たことを知られたら、当主様に叱られるのですが、それでも興味のほうが優ってしまうのです。月子様の占いはすごく当たると、さるお客人から聞きおよびました。どうぞわたくしめの、この先のことを占って下さいまし。」と、側妻そばめはわずかに興奮し、嬉しそうに言った。

 「何を仰っているのか、わたくし共にはさっぱり理解できかねます。どうぞお引き取りを。」登葱の言葉に月子が背後から「まぁ、良いではありませんか。」と、言った。側妻そばめ大層たいそう嬉しそうに、立ちはだかる登葱を超え、庇の廊下に座った月子に歩み寄り、廊下に駆け上がりそうになるのを登葱が止めた。

 「紅様、なりませんぞ」

 「これは失礼致しました。しかし、わたくしはどうしても月子様に予知をして頂きとうございます。」

 「そう慌てずとも占って差し上げましょう。」

 「有難う存じます。」

 月子の視線が側妻そばめの顔、肩とゆっくりと動く。このくれないという女、病に臥せっている奥方の役目を果たし、奥方の立場もしっかり守っていると、登葱が言っていたが、そのように人を気遣きづかう奥ゆかしさが微塵みじんもない。むしろ我儘ではしたなさが滲み出ている。暫く側妻そばめを見ていたが、側妻そばめからはしばらく文字が現れなかった。

 この女、普段から何もせず、何も考えていないのだろうか?因果もなく、ただ動物のように、食するために狩りをして、飢えをしのいだり、腹を満たしたり…を繰り返しているだけなのか?そんなことを考えていると、頭からぽつりと幾つかの文字が出現した。文字を組み立てると、『犬が恐ろしい』と、読めた。そして現れた文字はばらばらだった。いつもならば文字のほうがお互いくっつきあいながら、言葉をなしていったが、側妻そばめの文字はばらばらのまま、言葉をなさない。それでも文字を組み立てながら、『守らなければ』…と読んでいた。

 「月子様はわたくしのことを見ているようで、本当はわたくしのことは見ていらっしゃらないのですね。よく当たるとお聞きしたお客人から、こんなことも聞いたのですよ。月子様の眼は何ものもとらえず、ただただ虚空こくうを見つめ、まるで巻き物でも読まれるように何かをお読みになっていたと。今、まさに何かをお読みになっている仕草をなさっておいでではありませんか?」

 紅は両手を胸に当て、踊る心臓に同調して、待ちきれないわらべのような笑顔を浮かべ「月子様…」と、呟いた。

 それからまもなくして月子の視線は、虚空こくうから側妻そばめとらえた。まるで虚空こくうの世界から物質世界へと引き戻されたかのようだった。

 「先に申し上げておきましょう。我は皆が言うような予知者ではございませんぞ。ただ其方そなたから漂ってくるものを言葉にするだけで、其方そなたの微妙な顔色を伺い、其方そなたが喜びそうな言葉を申すだけ。皆はだまされているのですよ。」と、月子は苦笑した。

 「月子様、どうぞわたくしから漂うものを言葉にして下さいませ」

 「全く其方そなたは…、奥方の役目を果たしながらも奥方の立場もしっかりとお守りしていると言う評判と違い、とんだお騒がせ者ですね」

 「貴方様の前には誰しもわらべになります」

 「しかし我から申すことはあまりないですね。其方そなたが必死で誰かを守っていることと、犬を恐ろしく思っているくらいだ。さぁ、もう戻られよ」

 月子の言葉に紅の表情が一変して、不快な顔をした。

 「ほらご覧なさい。だから我は予知者ではございませんと言ったはずです。とんだ期待はずれでしょう。ご当主にも申されよ。予知者と吹聴ふいちょうし恥をかくのはご当主だと」

 「ほんに左様でございますね。まったく期待はずれもいいとこですわ。犬ですって…まったく…」

 「まぁ、犬といってもいろいろありますからね。野良犬、山犬、犬神や犬神の信仰等。其方そなたが思い当たらぬとも親族が関係しているかもしれないし。まぁ、そこまで真剣に考える必要はないですね。我は予知者ではないのですから」

 側妻そばめは声を出して笑った。

 「わたくしは貴方様のご身分を存じ上げません。当主様が貴方様のことをお隠しになられるから。しかし当主様は貴方様をただの予知者として皆に紹介しているわけではないようですよ。月子様は予知者として信頼たる者と皆が受け入れている。わたくしはよく存じませんが。ただの吹聴ふいちょうというわけではないということです。」と、側妻そばめは微笑した。「それにしても犬とは…まったく…犬なんて何処にいるのやら」

 そう言うと、側妻そばめは肩を落としてふてくされながら、尻をふり帰って行く。そんな側妻そばめを見て月子は意外にも落胆した。これまでの客人は皆、驚き、恐怖し、喜び。月子の思いのままだ。しかし、この側妻そばめときたら、言葉をなさない文字ばかり悪戯いたずらに放出させ、拾い上げた言葉は幾つもなかった。薄っぺらい人生だったのか?

 「紅殿、がっかりさせてしまいましたね。でも其方そなたがお屋敷に隠しているものは、いずれ其方そなた追詰おいつめますよ。」

 月子の言葉を背中で聞いていた側妻そばめは、恐れおののいていた。

 「犬…?犬ですって…なんと…あれは危険だ。あんな者がこの世に存在するとは。世とは恐ろしい。」

 紅は無意識にそう呟いていた。 

 そんな側妻そばめの背中を、見えなくなるまで月子は眺めた。しかし側妻そばめが呟いた言葉は月子には届かなかった。

 月子は最後に余計なことを言ったと後悔した。側妻そばめの屋敷に続く小道の前で浮かんだ、あの不穏な言葉を言ってもよかったのだろうか?側妻そばめの警戒をあおってしまえば因果の因を変えてしまう。あの言葉の主である女達を隠したり、或いは処分したりするのではないかという不安がよぎった。

 あのふみには離れの屋敷のこともしたためていたのだ。ふみが届き、調べる頃には、すっかり空っぽになっていやしないだろうか?

 側妻そばめの姿がすっかり見えなくなった。

 「箭重…」

 「ここに」

 「寺の者はふみを受け取ったころか?」

 「屋敷の傍に控えております菓子の行商人に渡しておりますので、すでに手にしておられるかと思います。」

 「そうか…ところで登葱、奥方は何で患っているのでしょうか?我は見舞わなくても良いのでしょうか?」

 「そうですね。一度ご当主に申し出てみましょうか?ここの屋敷の者はあまり奥方様のお話しには触れないようにされている気がします。月子様、突然どうなさいました。奥方を見舞うということは、さぐりを入れるおつもりですか?やはり紫乃のことが気になりますか?」

 「当然です。紫乃殿も、白状者はくじょうものだが阿袮のことも放ってはおけない。誰も若君の犠牲にはさせたくない。しかしどうしたものか?」

 「まぁ、月子様、若様のことを疑っていらっしゃるのですか?」驚いた様子で登葱が言った。

 「其方そなたは盗み聞きしておったのではないのか?」

 「いえいえ…しかしながら月子様はあの時若様のお話しはしておりませんでしたよ。ただ紫乃に逃げろと。若様を疑っているとは存じませんでした。」

 「そうだったか?なんかごっちゃになるなぁ。…抄峯殿と華菜殿が生きている証しさえあれば何も騒ぐことなどないのだけど。確証がなければ妄想と同じなのですね。」

 月子は途方に暮れた。

 藤家の屋敷の傍に控える菓子屋は唐菓子からかしを扱っていた。宮廷御用達の菓子で富裕層を対象として広まっていった菓子だった。だいたい決まった屋敷が米や穀物などと交換していた。

 箭重が寺に宛てたふみを渡すと同時に菓子を全て買い上げ、行商人を早々に引き揚げさせふみを持ち帰らせた。町にはこうした密偵が存在した。特に平家は300人余りの密偵を町にひそませ、平家威厳の為に厳しい取り締まりを行っていた。その為、町は常に不穏な空気が漂っている。箭重がふみを渡すことは決して容易なことではない。常に細心の注意を払っていなければならなかった。平家の密偵に目をつけられると、理不尽な言い掛かりをつけられ連行されて命の危険すらあった。箭重は無事にふみが届けられるように祈らずにはおれなかった。

 しかし、数日経ってもふみの返事はなかった。

 その間、月子のすることは何もない。

 ふみが月子の元に届いたいたのは、7日以上過ぎていた。ふみの返事を受け取った月子は落胆した。ふみには庶民のことにかまけている時はなしと言った意味が込められた歌が送られてきた。それを読んだ時の絶望感はなかった。その様子を見ていた箭重にもその内容が容易に想像できた。

 「お気の毒に…」

 「何を笑っている」と、そんな箭重を見て忌々しそうに月子が呟いた。

 「わっ。申し訳ありません。ふみを受け取ったのはどうやら信蕉しんしょう様ですね。」

 「義父上ちちうえは何を考えているのかさっぱりわからない。其方そなた義父上ちちうえの密偵であろう。我に教えてくれないか?」

 「信蕉しんしょう様が何を考えているなんて下っ端の私なんかにわかりません。ただ、私が思いますに月子様は余計な事に首を突っ込まない方がいいってことです。月子様は特別な能力がお有りなのでしょうが、全然使いこなしていらっしゃらない。下手に首を突っ込むのは危険この上ない。いざとなっても誰も守れない」

 月子は、箭重に返す言葉がなかった。月子の周囲の者は助言はしても叱らないし、結局月子に従うしかなかった。しかし箭重がいつも厳しい目で月子を見ていたのは知っていた。

 月子は、物心つく前に寺に預けられ、物心ついた頃の記憶は曖昧だった。寺には何人かの子供がいたのだが、その子供達は月子を避けていたのか、月子はいつも遠目で遊ぶ姿を眺めていただけだった。その中に箭重やえはいた。しかし箭重やえもまたいつもひとりだったような気がする。子供達の中でも箭重やえは特別だったからだ。

 箭重やえは、幼い頃から剣術と体術の修行をしていた。才能に溢れ、大人の僧でさえかなわない腕前を奮っていた。時々影近も箭重の相手をしていた。だが影近にはかなわないようだった。箭重は年齢もさほど変わらず、お互いを意識し合っていたに違いないのだが、月子と箭重の間には分厚い壁があった。何故そのような壁が存在していたのか月子には理解できない。影近も箭重も近くにいて言葉を交わすことのない幻のような存在だった。

 しかし、月子にはそれが日常だったので、孤独を感じることはなかった。ただ、ある日影近が声を掛けてきた「いつも一人だね。つまらくないの」と。その時初めて、つまらないと言う感情が形を成した。

 「つまらない?」月子は鸚鵡おうむ返しに呟いた。

 「そりゃ、信蕉しんしょう様があんたのこと養女にして大切にしているから俺たちは気安きやすく喋りかけることもできないけど、あんたから話しかけてくれてもいいんだぜ。俺なんかさあ、こうやって話しかけたら信蕉様に折檻されて痛い思いするけどさあ、でもあんたと少しでも話しができたら多少痛い思いしてもいいぜ」と言った。その日から影近は一日に一回話しかけてくるようになった。

 月子にはぼんやりとした曖昧な記憶だったけど、影近が話しかけてくれるたびに少しずつ色がついていった。そして影近の顔にあざが増えていった。

 「其方そなたは、今日は珍しくよく喋りますね。これまで最低限の返答しかしなかったのに。子供頃なんて我の顔すら見なかったのに。確かに我の能力はあまりにも脆弱ぜいじゃくだ。何の確証も得られない妄想と同じ。其方そなたは覚えていますか?子供の頃我は物乞ものごいの格好をさせられ義父上ちちうえから町に放り込まれ、毎日毎日ただひたすら正座して町の声をいた。涙が出ました。しかしそのうち頭の中が言葉でいっぱいになって鼻血が出て、吐きました。我は…この世をなげくどの言葉も言い尽くすことなどできないと思いました。義父上ちちうえが望むのならばせめてこの世に安寧あんねいが訪ずれるまで頭の中に言葉をいっぱいにしようと、そう思いました。」

 「それは月子様の事情。信蕉しんしょう様があなたに何か任務を与えましたか?」

 「しかし我は何故ここにいるのですか?ここに来る必要もないのにここにいるのは何故?」

 「だったら月子様は今回の任務の目的をご存知ですか?」

 「お黙りなさい」溜まりかねた登葱が口を挟んだ。「月子様になんて口を聞くのです」

 「登葱、いいのです。箭重やえの言う通りです。我が出しゃばることではなかった。」

 月子は、もう何も言わなかった。思い通りにならない能力など能力でもなんでもないと、それはいつも感じていたことだった。本当は能力などありはしないのかもしれない。全て妄想であると断言されたら否定できないだろう。と自分でさえ猜疑さいぎを抱くことがある。

 その夜、月子は物心ついた頃の曖昧な記憶を辿たどっているうちに眠りについた。そのためか、その頃の夢を見た。

 遠目に遊ぶ子供達の顔はどの子もぼんやりしていて、箭重と影近が子供達から離れて月子を見ていた。影近は手を振りかたわらの箭重は責めるような怖い顔で月子を見ていた。そしてその二人から更に離れたところにもう一人男の子がいた。

 月子はすごくその子が気になった。凍るような冷たい目をしていた男の子だったが、何故かやっと逢えたような安堵感を覚えた。しかし男の子は威圧した嫌悪感を月子に向けていた。月子の視界は男の子の身体から発する黒いもやのようなものを見ていた。やがてそれが小さな無数の言葉だということに気づいた。

 男の子が叫んだ。

 「月子様」

 月子は目が覚めた。と、同時にたいいっぱいに文字があることに驚いた。文字が踊り始め、瞬時に言葉を織りなす。

 『すまない。』『もう無理なのだ。』『お前の死ぬ姿は見たくない。』『行ってくれ』『痛い』『分かってくれ』『助けて…』『許して…』『お前のことは忘れない。』

 月子は、何故か頭がえていた。部屋の風景と重なる、文字が織りなす言葉を瞬時に理解した。月子は咄嗟に文字を追いかけた。たいを出て、渡り殿どのを歩き、北側の若君の寝殿の方へ歩いた。文字の言葉に導かれるままに移動した。その途中箭重に引き留められた。

 「月子様、これ以上はダメです」

 「箭重、其方そなた何をしておる?」

 「屋敷の北側は危険です。月子様一人では無理です。この奥に何かがあるに違いありません。しかしいまだ辿り着かないのです。この先は見張りもいますし、今日は引きましょう」

 そうか。やはり箭重はずっと屋敷をさぐっていたのか。と、改めて月子は知った。

 その時、北側の奥から足音と、衣擦きぬずれがした。しばらくすると若君が現れた。その姿を見た瞬間月子は冷たい空気におおわれた感じがした。そして夢で見た、男の子の身体から発する黒いもやと同じものを見た。夢で見たから分かる。それが若君の身体から溢れていた、小さな無数の言葉がもやのようになっているのだ。

 あの蛇のような気持ち悪い文字は見えなかった。あの文字はいつも物質に貼り付くように動いていた。もしかしたら、若君は縛られていたのかもしれない。縛りがはずれて本来の若君の言葉が溢れたのだろうか?

 ここに導いた、あの言葉は何処から来たのだろうか?若君の言葉なのか?だが、何か、釈然としない違和感を覚えた。

 「これは若君。」と、月子は思わず声を掛けた。

 「あゝ、月子様と箭重殿、こんな所で何をなさっているのですか?」

 「若君こそ、何かあったのですか?」

 「特に何もございませんが?月子様、箭重殿、ここは家人が集う場所故ばしょゆえ、月子様や箭重殿が立ち入れる場所ではございませんので、どうぞ対の屋にお戻り下さい。」

 「それは大変失礼いたしました。実は声がしまして、叫び声のような、泣き声のような、そんな声に導かれ、ここまで参りました。奥方様が病にせっているとお伺いしていましたゆえ、心配になっていつのまにか…」

 「わたくしはそれを止めておりました」と、ちゃっかり箭重が言った。

 「それは大変ご心配をおかけ致しておりますが、ご心配には及びません。どうぞお引き取りを。」

 そう言った若君は、とても怯えた顔をしていた。

 「本当にそうでしょうか?」と、月子は、念を押した。

 「ええ、何でもありません。母上は大丈夫でございますし、ましてやここにはおりません。」

 月子は、あきらめたように静かに微笑した。

 「お騒がせいたしました。」

 『助けて。』言葉がまだ、虚空こくうを漂っていた。『ごめんよ。』『お前と共にいたかった。』

 月子はゆっくりきびすを返した。若君が何かを言うのを少し待ってみたが、何も言わなかった。

 若君の衣擦きぬずれが聞こえ、気配が消えていく。月子が振り返ると、若君が去った方向から、やはり言葉が漂っていた。やがてそれはゆっくり消滅した。

 対の屋に戻ると、月子は両手で顔を覆い、うずくまった。自身の能力の不甲斐なさを嘆いた。

 何も分からない。あの蛇のように這い回る気持ち悪い文字。もやのような無数の小さな文字。そして、虚空こくうを漂う言葉。それらの意味は何なのだろう。

 「もしかして若君は悪鬼あっきなどではないのかもしれない。」

 うずくまる月子を箭重が見下ろしていた。

 「あんな真似はもう二度としないで下さい。私が居なければ月子様どうなっていたと思います?」

 「どうにもならないと思います。」

 「月子様を見ていると、いつもご自身にただ振り回されているようにしか見えません。ご自身を信じられないのですね。」

 子供の時に見た箭重の、責めるような冷たい目だ。箭重は何故、いつも責めるような目で見るのだろうか?

 「そうですね。子供の頃はもっと自信があった。もっと、あらゆる方々から言葉を戴いていた。教えて頂いたし、導いてもくれた。沢山たくさんの言葉が助けてくれたから、自信が持てた。」

 「あぁ、今は孤独だからですか。」

 「そういうことだと思います。あの頃、都で沢山たくさんの言葉を見ていたからこそ、確信を持てる答えを導き出すことができたのですが、今は駄目です。確信を持てるほどの言葉が見えない。圧倒的な情報不足です。」

 「でしたら、もう月子様は何もしないで下さい。助ける自信がありません」

 「我のことは放っておいていただいても構いませんよ。」

 「そういう訳にはいかないのですよ。あなたがどんな身分の姫様か存じ上げませんが、命を捨てても姫様を守れと言われていますからね。あなたになんかあったら、私たちには文字通り死しかないんですよ。」

 「そうですか。すみません。疲れました。ひとりにして頂けますか。」

 「なにも、能力を持った者は、あなたひとりではない…」

 「えっ?それはどう言う意味?」

 箭重は、しまった。といった表情をした。口をすべらせてしまったことを後悔をしているようだった。

 「記憶がぼんやりしているのですが、其方そなたと、影近のことはよく覚えている。後幾人かの子供達のことも覚えている。でも一人、すごく冷たい目をしていたが、何だかとても寂しそうにしている男の子が居たことを思い出したのですが、其方そなたは知りませんか?」

 「すみません。そんなぼんやりとした話しではちょっと分かりません。お疲れでしたら、もうお休み下さい。」

 箭重は、何処か怒りを隠していた。しかし、箭重との会話は久しぶりだった。箭重が部屋を去ったあと、月子はいつもより孤独感を覚えた。それと同時にもやもやしていた。夢で見た、ぼんやりした男の子の顔が更にぼやけ、やがて真っ白になった。そんな男の子など存在しないのではないのか?文字の能力と同じように全てが妄想なのかも知れない。月子以外の者はただ妄想に付き合わされているだけなのかも知れない。月子はいつまでも眠れなかった。

 特別な姫を迎えるために東山とうざんがあつらえた障子に映る仄かな月の明かりを、月子はいつまでも眺めていた。

 翌日、登葱の声で月子は目覚めた。登葱の様子がいつもと違っていた。

 「月子様起きて下さいませ。」

 いつもは登葱が起こすことなどなく、月子は規則正しく目覚めていた。だから時を合わせて登葱が身支度みじたくを整えるのを手伝う。そんな朝を迎えていたのだが、今朝の登葱はあわただしい。

 「今朝はやけに早いのですね。」

 「いいえ、いつもより遅い時刻ですよ」

 「だからと言って怒鳴らくとも、自分で起きます。義父上ちちうえもいないのだし、少し遅く起きたからといって誰のとがめも受けはしないでしょう?」

 「申し訳ありません。いえ、遅いから起こしたのではございません。実は台盤所だいばんどころ朝餉あさげの準備をしておりましたところ、やけに侍女達が騒いでおりましたので、ちょっと親しい侍女に尋ねますと、華菜様の家人が訪ねて来られたと…」

 「華菜殿の…」

 月子は布団から抜け出ると、衣桁いこうに掛かった着物に手をかけた。しかし登葱がそれを阻止して、喋りながら着物をはずした。

 「はい。華菜様のことでお越しのようです。今、箭重にさぐらせておりますのでじきにおいででしょう。」

 「まぁ、箭重に。箭重は何かしら愚痴っておりませんでした?」

 「あらっ?そんなこと月子様がご心配なさらなくとも。箭重はちょっと性格がきつい子ですが、いい子ですよ。まぁ、あんなに剣術が達者なのですから無理もないことです。」と、登葱は要領良く月子の身繕みづくろいをしながら話しを続ける。

 「それにしても何の用でしょう。わたくしは月子様のお言葉を信じておりますが、やはり何の騒ぎもなく、お姿だけ見えなくなるのは釈然と致しませんね。」

 「妄想かも…」

 それから暫くののち箭重が月子のたいを訪れた。月子は朝餉の最中だった。箭重は、狭い板張りで朝餉を取る登葱に軽く耳打ちをした。登葱はすぐに箭重が戻ったことを月子に告げた。月子は早く報告が聞きたい様子で慌てて登葱に器を片付けさせ、箭重を呼んだ。

 昨夜のこともあったので、少し落ち着かない様子の月子に比べ箭重は、いつもの冷たい面持ちで機敏にひざまずく。

 「挨拶はいいから、何があったのか聞かせて下さい。」

 うつむく箭重がおもてを上げ、心が読めない表情のない顔を見せた時、月子の心がわずかに乱れた。箭重の言葉を待つ時間が妙に長く感じられたが、ひとときの間で心をわずかに沈めることができた。

 「東山様と華菜殿の家人の話しを直接盗み聞くことができました。」

 「直接ですか?」

 月子は、天井に組まれた大きなはりで聞き耳を立てた箭重を想像した。その時月子の中に文字が現れた。静かに目を閉じて、少し集中してみた。箭重が聞き耳を立てている姿が浮かびその傍に無数の文字が見えた。そして一気に文字が溢れ出た。思考がまったく追いつかず、月子の瞳はグルグルまわった。

 そうした状態におちいっていることに気づかない箭重は淡々と報告を始めた。報告の合間に月子の顔をのぞき見たが、箭重には目蓋まぶたを閉じた月子の顔が映るばかりだ。

 状況に慣れた月子が文字を追いかける。

 『戦場に鬼の形相をしたわらべがひとり命からがらしかばねの下から抜け出し這い上がる。無数のしかばねのなか戦場いくさばの地を舞う黒い霧の中から覗き見る悪霊を、しかばねから奪い取った刀で両断りょうだんする。再び現れる悪霊を切る。切っても切っても現れる悪霊を全て両断りょうだんし終わると、いつのまにか黒い霧が晴れていた。そんなわらべを見ていた僧侶がお前様には何が見えているのだと尋ねると、わらべしかばねから抜け出した悪霊が見えるという。何故悪霊を切るのだ?と僧侶が再び尋ねると、わらべは、悪霊は空を舞いやがて人に巣食すくうという。お前様はそれを見たのか?いつも見ている。だからここに来る。戦場いくさばにか?そうだ戦場いくさばにだ。だけどここだけではない。人が人を殺す場所に行く。そんな場所などわらべのお前様にはわからないだろう?黒い霧のように彷徨さまよう悪霊の後を追いかけるとそんな場所に出会う。お前様にはいつもそんな悪霊が見えているのか?いつも見える。いやになるくらい。大火で父上と兄上を殺されてからずっと。僧侶は不思議に思いわらべを寺に連れ帰って、住まわせることにした。』

 「…ま」

 「寝て…すか?」

 「ふざ…るの…か?」

 「聞い…なか…う」

 「きこ…さま」

 「つきこさま」

 月子は唐突に目蓋まぶたを開ける。突然箭重の声が聞こえたからだ。

 箭重は苛立ちを隠さず、とがめた顔をして月子を睨みつけていた。

 「其方そなたから文字が溢れ出ていましたぞ。昨夜其方は申された。能力を持っている者がいると。たった今其方の文字を読みました。」

 「いったい何を申されている?今はそんな話しをしていませんよね。」

 「其方そなたが隠したとて本心はそれを隠すことが出来なかった。其方そなたには重すぎたのだろう。」

 「何も隠しておりません。」 

 「いいえ、男の子は存在する。我の妄想ではない。男の子は悪霊が黒い霧のように見える。それは空に浮かび彷徨さまよっていて、それを追いかけると人が人を殺す場所に出くわす。悪霊が巣食すくう場所なのだろう。男の子は悪霊を刀で両断することができる。それが男の子の能力。そして義父上ちちうえ戦場いくさばから連れ帰って男の子は寺に住むことになったのだ。其方そなたから溢れ出た文字だ。」

 箭重はただ唖然として月子を見た。

 「今、その話しする必要が…あり…ますか?」

 「さぁ、必要ないかも。でも其方そなたが今文字を放ったのだ。」

 「いいえ、放っていませんし、今そんなこと考えてもいません。私がそんな言葉放つはずがありません。」

 「そうか?何故其方からそんな言葉が出たのだろう?」

 「それは昨夜月子様がお尋ねの事では?私には何の関係もない。そんな言葉は私の中にはない。妄想では?」

 「妄想…。もし妄想であるのなら。其方そなたから報告を聞く意味があるのだろうか?其方そなたも我に報告するのは無駄だと思っているはずだ。」

 「と言うことはもう報告はよろしいと言うことか?」

 「其方そなたが、我の能力が妄想と思うのなら、ご勝手に。」

 「承知いたしました。」

 そう言うと、箭重はきびすを返した。

 「行くんだ?」月子は後悔した。

 箭重は、呆然としている登葱に「聞いていたでしょう。報告はもう終わっている。」と、言って去っていった。

 「全くあの者は我儘わがままだ。ちょっと剣術が強いからって…」

 怒りのまま月子が言う。

 「いえ、月子様も人のことは言えませんが…」

 「どうしましょう?登葱。親しい東山とうざんの侍女にでも聞いてくれぬか?」

 「箭重殿にさぐらせた意味がないではありませんか?まったく。華菜様は家人に頻繁にふみを届けていたそうです。そして最後のふみに、これより十日余りふみが届かなければわたくしの身に何か起こったと思って行動を起こして下さいと言った内容が書かれていたそうで、それで家人は急ぎ藤家を訪れたそうです。しかし東山とうざん様は家人に華菜様を会わせなかった。大層たいそう怒った家人は家中を捜すと言ったそうなんですけど…」

 「えっ、登葱どうしてそんなこと知っている?」

 「まぁ、月子様、やっぱり何も聞こえていなかったのですか?あんなに一生懸命箭重が報告していたのに、何も聞こえていなかったなんて、箭重が気の毒です。」

 「聞いていなかった。登葱は聞いていたのか?」

 「はい全部聞いておりました。」

 「良かった。箭重の報告を全て伝えて下さい。」

 「ですから、今伝えていますが…」

 「あっ…そうですね。続けて下さい。」

 登葱は何処まで話したのか、頭の中で反芻はんすうしながらゆっくり話しを続けた。「大層たいそう怒った家人が家中を捜すと言ったそうなのですが、東山様はすごく威圧的な態度で拒否なさった。しかし家人も引きません。華菜様に会わせていただくまで帰ることはまかり通りませんぞ。と居座ってしまった。困った東山様は、華菜は奥方の薬を取りに遠くまで使いに出した。と」

 「華菜殿まで…まったく藤家のものは何でも使いに出すのですね。抄峯殿も使いに出したまま戻って来ないではありませんか?都合の良い話しですね。」

 「と言うか、下手な言い訳ですね。それでは家人は怪しむだけでしょうに。」

 「それから?」

 「仕方ないので、東山様は客室に家人を案内して、華菜様が帰って来るまで決して家の中をうろつくなと厳しく仰ったそうです。礼儀をわきまえているとはいえ家人も納得出来ないようでひどくいきどおっていたそうです。でも箭重が言うには家人は二人でお越しだそうですが、それだけではないようで、忍び使いのような者がいると言っていました。恐らく家人は大人しく客室で待っている振りをしながら、忍び使いにさぐらせる気ですね。」

 「もう、それは本格的ですね。華菜殿はもう亡くなっていると考えているのでしょうか?」

 「それは何とも…ただ箭重が申すには、家人は恐らく華菜様の兄上と従兄弟いとこではないかと。だから礼儀をわきまえているとはいえ血気盛んなお年頃でしょうから、亡くなっているとは考えたくないのでしょう。結構必死だそうで、東山様と話される時も割と露骨に感情をお出しになっていたそうですよ。」

 「でしたら事が明らかになる可能性がありますね。」

 「そうですね。そうなるといよいよ月子様の予知能力が妄想ではないとの証しになりますね。」と、登葱は嬉しそうに言った。

 「其方そなた、もしかして妄想だと思っていたのか?」

 月子はうつむき恐る恐る尋ねた。

 「よくできた妄想だと思っていました。」と、登葱は満面の笑みを浮かべた。「まぁ、よく当たると評判だったので、意外と月子様は因果のことわりを心得ていらっしゃるのかな?と感心しておりました。でもぼろが出やしないかひやひやしておりましたが、しかしそれはそれで案外面白いかと…」

 月子は登葱の無神経な言葉に落胆し肩を落とした。登葱さえも妄想だと思っていたのだ、案外皆そんな風に面白がっていただけなのだろう。人の心など透けて見えないのだから予測していたとしても、斜め上を行くばかりだ。虚空こくうで文字が言葉をつむぐなど、そんな荒唐無稽な話しを信じろと言う方が無理なのだろう。月子は力無く微笑した。

 「登葱、もう東山殿のお客人には今後一切会わないから釘を刺しておいて下さい。」

 「月子様、きっと東山様はもうそれどころではありませんよ。これはちょっとした騒ぎになりますよ。」

 月子の心知らずの登葱のはしゃぎようが余計に月子を苛立たせた。

 しかし、登葱は月子のそんな落胆と苛立ちをよそにひつじこくの頃、妙に浮き足だった様子で月子のたいにやって来た。

 「月子様、一大事でございます。」登葱はかすかな笑みを浮かべながらも驚嘆した顔で言った。

 「何事ですか?と、言うか、なんか楽しいことでもあったのか?」

 「まぁ、そんな呑気のんきな事を言ってる場合ではありません。」

 「だからどうした?」

 「月子様に菓子のご用意をしていましたら、若様の使いが台盤所だいばんどころまで訪ねて来られて、是非月子様の予知の力を拝見したいと仰るのです。未三刻ひつじさんこくには参るので月子様に伝えて下さいと。」

 「なんと…?つい先程、もう会わないと申したばかりではありませんか?」

 「えぇ、そんな事聞いていませんが?」

 「いえ、申しました。もう、妄想など人には見せたくありません。」

 「もしかして、東山様のお客人のことですか?いえいえお客人ではありませんし、それに妄想とは言い切れないじゃありませんか?月子様は喜ぶと思っていました。だって若様ですよ。若様が来るのですよ。真相を暴く時が来たのではありませんか?」

 そうか。月子は複雑な思いを胸に秘め若君の、あの悲しそうな怯えたような表情を浮かべた夜のことを思い出した。

 「登葱ときは、我がもっと幼き頃、何もない虚空こくうを指差し何か動いている。と言った時、指差した方を一生懸命に見てくれた。見えないなど一言も言わず、ただ一生懸命見て、はて何でございましょう?と。あの時から登葱ときは何も否定せず、我に合わせてくれたのだな。登葱とき、もう我に合わせなくとも良いです。」

 「わたくしは月子様に合わせた訳ではございません。月子様には何かが見えていたと信じておりますし、その何かを見て月子様が呟いていた言葉が本当に不思議だったし、楽しくもあったのですが、昨今東山様みたいに月子様をまるで見世物のように扱っていることが、ただ許せないだけなのですよ。ですからわたくしにとって月子様は月子様。予知者であろうと、そうで無かろうと、そんな事はどうでもいいのですよ。」

 「その割には若君の来訪にやけに心を躍らせていませんか?」

 「そんなことはございません」と、登葱はやっぱり笑みを隠しきれず月子を見た。「ですが、この家は何と申しましょうか、いろいろ釈然としない事が多すぎますし、居心地が悪いからはっきり致したく思うばかりでございますよ。」

 「登葱は怖くはないのですか?」

 「いえ、わたくしは怖いと思ったことなどございません。月子様はわたくしが守りますし…あっ、そうだ。わたくしは廊下に控えて、箭重やえにこの部屋に控えさせましょう。控えが二人だと若様も警戒なさるでしょうから、わたくしの代わりに箭重やえが近くに控えていてくれれば安心です。」

 この家は、登葱が言うように本当に釈然としない事が多い。月子は、抄峯とね華菜かなが亡くなっていると思っているが、何の確証もないのは事実だ。それに紫乃しの阿袮あねの姿も見えなくなった。登葱の言う通り、若君の本当の言葉を引き出せたら、ぼんやりした絵に色がつくのではないかと思う。より明確になることで逆に確証が捜しやすくなる。真実が見えていたとしても確証がなければ妄想と何ら変わりない。月子にとって現実と非現実の境界きょうかいに一本の線を描くことはひどく厄介で煩わしい作業だった。それが最も重要だと理解していてもその境界線はいつまでもぼんやりしていて、形のないものだった。だからいっそのこと、これは能力ではなく妄想だと結論付けることが最もてきしているのではないかとさえ思う。

 月子はずっと同じ景色のなかでぐるぐる回っている惰性を感じないではいられなかった。

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