私たちの家

堕なの。

私たちの家

 毎日、終電に乗って家に帰る。寝過ごさないように、イヤホンから鳴るアラームをかけて目を閉じた。電車の窓の外は大粒の雨が降っていて、その雨の音も振動も、自分の中から閉め出すように入眠した。柔らかな入眠とは程遠い、他人を拒絶するような入眠だった。


「……よう。おはよう」

 聞き覚えのあるようなないような、曖昧な声が私を起こす。目を覚ました場所が電車内ではなかったから、ここが夢の中だとすぐに分かった。明晰夢は初めて見るが、明晰夢の中にいるという実感はあまり湧かなかった。

 目の前にいる男に見覚えはなかった。どこにでもいる顔で、もしかしたら会ったことがあるのかもしれない。だが、そんな人間を一々覚えていられるほど私は他人に興味がなかったし、そんな人間が夢に出てくることも解せなかった。一つだけ分かるのは、この男がさっきの声の主だということだけだった。

 彼の顔の輪郭線はぼやけていた。だけど何故か、彼の顔は鮮明に分かった。それでも矢張り覚えがないのだから、多分な違和感を含んだ、言葉にしがたい感情を私に運んできた。敢えて喩えるのならば、甘さと辛さの同居した、美味しくない食べ物の食レポを求められた時に似ている。悪いことは分かるけれど、上手く言語化が出来ない。そもそも、悪く言うことは許されていない。そんな時がもしあるのだとすれば、多くの人にこの気持ちを分かってもらえる気がする。

「行こう」

 彼のその言葉に、どこに、と聞きたかった。だが私の声は出ず、代わりに口がパクパク動いただけだった。彼の案内に着いていく体も、矢張り私の支配下には置かれていなかった。

 着いたのは海だった。ここは覚えている。高校二年生の修学旅行で行った海だ。透明度の高さと、初めて見る星の砂に舞い上がっていた。シュノーケリングも楽しかったが、あまりのはしゃぎ様に溺れかけてしまった。色々なことがありつつも、概ね綺麗な記憶だけで出来ている過去の出来事だった。

「どうして?」

 口が勝手に動く。思っていたことではあるが、それが意図していない形で口から溢れ出た。途端に彼が責めるような目線をした。ここは私の夢の中だし、会ったことを覚えてもいないような人間に責められる謂れはないと思いつつも、そう嫌っていては何も進まない気がして受け止めることにした。私は彼を忘れていて、それに怒った彼が私の夢の中に出てきた。ファンタジーっぽい設定だが、これ以外には思いつかなかった。もしも私だけの夢なら、私に都合の悪いことは起こらないだろうし、私が覚えてもいない彼に責められたかったことになってしまうから。

 彼は二つシーグラスを拾った。そのうちの一つを私に渡して、もう一つをできる限り遠くに投げた。意味の分からない行動に感じた既視感は気持ち悪くて、いつもは好きなはずの漣の音も不気味さを帯びていた。

「俺のせいだって分かってる。だから気に入らない」

 さっきまで晴天だった空に急に雲が集まってくる。こんな記憶、私は知らない。知らない記憶で、彼はその背景にとても馴染んでいた。だから、目眩がするような、気がした。

「責めてないよ。俺のせいだって言ったでしょ」

 明らかに責めている口調でそう言う彼の不気味さが積もっていく。気に入らないと言った口は、薄らと開いて、口角が僅かに上がっている。鋭い視線は私を刺して、許さないとでも訴えかけてくるようだった。

 彼は私に近づいてくる。後ずさろうとして、体が思い通りに動いてくれないことを思い出した。体が蝋で固められたように動かない中、視界だけが鮮明にあった。

「アンタは覚えていられるか?」

 一瞬、頭痛がした。前もこんなことを言われた気がする。だがそれは彼ではない。確か、高校生だ。高校生の頃に、同じくらいの年頃の男の子と会った。この場所で。だが、この男は今の私と同じくらいの年齢だったから、やはり違うのだろうと思った。それに似てもいない。

 高校生の頃に会った男の子は、記憶に残りづらい顔だったけれども、優しい目と口元のほくろが特徴的な子だった。少なくとも口元のほくろがない時点で別の人間なのだろうと思った。

「もう少し話をしたかったんだけど、おやすみ」

 彼のその言葉に眠気が襲ってくる。現実の体が起きようとしているのだろう。彼の考えていることとか、彼が夢に出てきた理由とか、そもそも何者なのかとか、気になることはまだまだあった。でもそれらは、夢の中では得られない気がした。

 抵抗するのも億劫で、その眠気に身を任せる。思考が黒く塗りつぶされていった。


 変な夢を見た。知らない男と話す夢だった。内容は覚えていないけれど、不快な夢だったということだけは何となく覚えていた。


 気づけば最寄りの駅に着いていた。耳元のイヤホンがアラームに設定した曲を流している。静かな雰囲気の、入眠の方が合いそうな曲だが私は存外気に入っていた。騒々しい目覚めより、柔らかな目覚めをいつからか好むようになっていたから。

 最寄り駅から家までは歩いて20分ほどの距離がある。家賃と会社までの時間を鑑みて、その場所に決めたのだ。それ以外の理由は大して大事ではなかったのか、忘れてしまって思い出せない。

 赤い月が空に浮かんでいる。たしか、大災害の前兆だとかいう迷信があった。誰かから、話の流れで教えてもらったのだ。信じていないが、昔の人の想像力には素直に感心した。

 赤い月は、桃色と朱色のところがあって、血というよりかはイチゴやスイカのジュースの色に似ていた。そんなことを考えてみればお腹が空いてくる。一人だから恥ずかしくはないけれど、遠慮願いたくはある腹の虫が鳴いた。コンビニに寄ろうかと思ったのに、あの夢の中のように、体は言うことを聞かずに帰路を進んだ。一人ぼっちの家で、もう冷蔵庫に何も無いから買って帰らなければいけないのに、矢張り体は私の意識には従わなかった。

「ただいま」

「おかえり」

 誰もいない家にそう呟けば、男の声が返ってきた。夢の中の男と同じ声だった。そして、私は今日も思い出し、落胆した。

「だからやめれば良いって言っただろ。俺のことは皆が忘れる。アンタだって忘れてしまえば楽だろう?」

 男、改め、幸人は自虐的な笑みを浮かべた。開けっ放しのドアから冷たい風が入り込んでくる。それに冷やされた手が、幸人に取られて温かみを分け与えられる。どこかに行けと言うくせに、自分が悪者になるつもりは毛頭ない人だから、私は離れられずにいた。中途半端な優しさと、時々牙を剥く現実がいい塩梅に私を沼へ落とし込んだ。飴と鞭の怖さを知ったのはこの人のおかげで、別に嬉しくとも何ともなかった。

 幸人は私の手を引いてリビングに連れて行った。いつも通りの、夕食が私を待っていた。

「ありがとう」

 喜んだ顔などせずに、言葉だけで礼を言った。幸人は、自分の大切な人にほど忘れられてしまうから。そして私はその狭間に立っているのだ。好きと普通の間ら辺。友達以上恋人未満とはまた違った、歪な感情だった。

 だから、その間を行き来するように、好かれる行動と嫌われる行動を交互に繰り返している。私たちの家の中でだけ記憶が戻る、そんな不確かな記憶を抱え生きていく。それは辛くて、温かいものだった。

「おいしい?」

「おいしいよ」

 少しだけ不味いが彼の言葉に、目を合わせて返す。彼は嬉しそうに笑った。先程とは打って変わったあどけなさを感じる笑みに、確かに私は傷ついた。彼のどれだけ傷つこうと幼さを残す表情は、奇跡的なものだと思っている。もっとやさぐれても良いはずなのに、彼はどこまでも純粋さを抱えていた。いつか壊してしまうのではないかと思いながら、ずるずると彼の傍にいた。

 でも、この家に帰ってきて、今日の夢を思い出した。そこから導いた結論は、私にとっても彼にとっても認め難いことで、それでも変わることのない真実だった。

 私は彼を覚えてはいられない。そのただ一つの真実に、言葉を発しかねていた。別れも傍も辛いなら、別れた方がマシな気がした。どちらでも辛いなら傍にいるなんて漫画の中だけの話で、現実なら別れて未来を見た方が良いに決まっている。それなのに言い出せないのは、傍に居た時間が思いの外長かった所為だ。ただそれだけだ。

「別れよう」

 いつもの会話の中、雰囲気の淀みすらも生み出さずに発された言葉は空気を震わす。彼は数秒止まって、迷子の表情をした。そして少し考えて、それは安堵に変わった。

「ありがとう」

 彼の笑顔を見ながら、やっぱり好きだと思った。後に引けるような思いで言っているわけでもなかった。会わなければ良かったと思って、流石に失礼かと改める。とりあえず後悔していることだけは確かだった。

 この家からは彼が出ていった。元から私名義で借りていた部屋だ。彼はいつから準備していたのか、綺麗に纏められた荷物を持って、家を出ていった。私が別れようと言ってから三十分もしなかった。人の気配の消えた明るい家は、いつもより暗く感じる。ああ、電気が悪くなったのかな、なんて変えてみても、明るさは変わらなかった。そういえば最近彼に変えてもらったばかりだった。

 どうしてか寒くて、粉のコーンスープを買いに行くことにした。作ろうと思ったら切れていたのだ。カーディガンを着て扉を開ける。家から一歩出れば、彼のことは忘れる。いつもならそうだった。だが、なぜが私の記憶は残ったままだった。彼の大切から抜けてしまったのだろう。もしくは、彼から私への感情がハナから好きなどではなく、期待だけが募っていたのかもしれない。

 息を吸い込めば冷たい空気が肺を焼いた。堪えるように上を向いたのに、雫は目尻から零れ落ちた。やっぱり私の選択はあっていた。彼と別れて正解だった。傍にいないだけで、気持ちがすぐに離れていってしまうような人で、面倒なくらい優しくて、意気地なしで、あと、あと。

「なんで、、、」

 迷子の私と、もうすでに前を向いているであろう彼の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。彼のためという詭弁と、私のためという脆い理由が私を縛り付けて動けなくする。彼から解放されたくて、どうしようもなく好きなのにその手を離すのだ。彼のためという詭弁で武装しなければならないほど追い詰められて、そうしてようやっと口にしたのだ。その仕打ちがこれならば、あんまりではないかと思う。

「どうしたのお姉さん?」

 失う記憶の次は幻だろうか。高校生の姿の彼が目の前に居た。

「覚えていられないって言ったでしょ」

 純粋なその目が狂気に濡れた目に見えた。明るい瞳は黒く染まって、すべてを飲み込んでしまいそうなくらいに。

「責めに来たの?」

「これは幻想だよ」

 あの夢も、この夢も、私が責められたがっていたのだ。これは、私が心のどこかでずっと持っていた弱さだった。

 強い風がひと吹き、幻想と確信を持ったそれは霧散していった。覚束無い足取りでコンビニに急いだ。温かいものが飲みたい。懐炉も欲しいかもしれない。着込んで着込んで、お風呂も沸かそう。

 私たちの家は、その寒さに取り残されて戻ってくることなともう二度とない。私の心の奥底で、黒くて重い何かがそう囁いた。

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私たちの家 堕なの。 @danano

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