24 鏡越しのおひめさま
「さて、ノイはどこだ」
すたすたと、シャルは暗い邸内へ入っていった。
正規の順路で招かれたときは要所要所に置かれた、大振りのオイルランプに
「待って、待ってください。シャル」
オユンは黒い
サンジャーは、この屋敷を
「あいつのことだから、ふらふら気になった品に近づいたんだろう。ここには骨董品がそろっている。そういう古い遺物は精霊にとって罠なんだ。これだけ収集してあると、思いがけない掛け算になって——」
とある部屋の前で、シャルの足が止まった。
入り口の上の彫刻は水面を見つめる女だった。水面に女の顔が映っている。
「鏡の間だな」
シャルは、まず、左手だけ部屋に差し入れた。手のひらを上に向ける。そのたなごころに微細な氷のかけらが無数に現れると、片手にのるほどの
「鏡がたくさん、ありますね」
オユンが、のぞきこんだ向こう側に細い人影が動いた。びくりと
「あいつは、うぬぼれ屋だからな。もし、鏡に己の姿が映ったら、近づいてみたくなったろう」
「精霊って、鏡に映りましたっけ?」
「たまにね。映る鏡があるんだ」
鏡の間は、その名の通り壁にもテーブルにも鏡が置いてあった。くすんだ金の縁取りの
「とある部族は呪術の道具として鏡を使う。御神体が鏡だという種族もいる。そういうのが集結していたら、そりゃ、魔法も発動するさ」
全方向、すべて鏡。鏡は壁を背にして置いてある。だから、左手にある鏡は右の壁を向き、右手にある鏡は左の壁を向いている。
「合わせ鏡。掛け算で増幅するんだよ。鏡の力が」
シャルは、ずっと左手を前に差し出したままだ。手のひらの上の結晶で何かをたしかめるように、一歩一歩、部屋の奥へ進んだ。
いちばん奥にさしかかったとき、一瞬、結晶が強い光を放った。
「このあたりだ」
シャルに言われてオユンは、辺りを見渡す。
奥の1枚が、より強く、
その1枚を、じっと見ていると、きゃしゃな人影がよぎった。それは、オユンでもシャルでもない。
「ノイ?」
思わず一歩、踏み出してしまった。と、いきなり足元が沈んだ。
引きずり込まれる。
そう思ったときは遅かった。
——オユンは子供のころ、川で溺れかけたことがある。
ひざくらいの浅瀬で丸い川底の石についた
ぱしゃん! と水に似たようで似ていない何かが、オユンの
まるで水底のような場所。
「シャル……!」
声をあげるけど誰もいない。
天井はあるのかないのか、仄白く発光している。そこから、薄布のような空気の層が幾重にも、たれ下がっていた。
どこへ紛れ込んでしまったのだろう。
とりあえず、息をととのえることに努める。
(大丈夫よ)
オユンの
「——」
「——」
かすかだが、波紋のように何か聞こえた。女の声のようだ。
「……おまえの、よいと思うように……て」
聞こえてきた声に、オユンの心臓が跳ねあがった。
知っている少女の声だ。そう五感のすべてで感じた。
声のする方向へ、考えるより先にオユンは駆け出した。
その風景は、にじむように見えてきた。
どこかの一室だ。大きな
オユンの前面の空間、両手を広げたほどの面に椅子に腰かけた少女の上半身が、ゆらりと映し出されていた。
座っているのは、ウーリントヤという名の少女だった。嫁する前は、
少女は鏡の前で身支度を整えているところだ。
侍女が少女の、つややかにうねる黒髪を
まじまじと、ウーリントヤは鏡をみつめていた。
それは、オユンをみつめているということだった。
彼女は鏡の向こうに、オユンの姿を認めたのだ。
「オユン……。そこに、いるの?」
少女はつぶやいた。
「……さま」
少女のうしろで、ひきつった小さな声をあげた女にも、オユンは覚えがあった。自分の上司だった侍女頭だ。
ウーリントヤは自身の家庭教師でもあった侍女を亡くした悲しみに、ずっとふさぎ込んでいた。
婚礼の儀の間も、その愛らしい
花婿はそんな花嫁を持て余しつつも己の二度めの婚儀ゆえに、この年若い妃に寄り添う姿勢を見せた。
ともかくも今、鏡を仲立ちにして、オユンとウーリントヤ、二人は向かい合っている。
オユンは、どくどくと波打つ自分の鼓動を落ち着かせるためにも、ゆっくりと右手のひとさし指を自分のくちびるに当てた。
それは、『大丈夫ですよ』という、
「幻かしら。夢かしら」
ウーリントヤは小さくつぶやき、鏡を覗き見た。
「わたしこそ。これは幻でしょうか。夢でしょうか」
オユンも鏡を通して、少女をみつめた。
「——そこにいるの。オユン」
「いるけれど。すぐ、お側というわけではなさそうです」
「生きているように見える」
生きています。うなずきそうになってオユンは少し、きまり悪い顔をした。
死んだとして契約の違約金も取られず、見舞金までもらってしまった大人の事情は、この高貴な少女には話さないほうがよい。
「
「——えぇ。えぇ」
ウーリントヤも、うなずいた。
「わたしも、いつまでも、うなだれてばかりではいけない。オユンが側にいないなら、なおさら——。ここで、
「大丈夫です。わたしが抜けましても、侍女たちは最強。われらの邪魔立てするものは、すべて——」
水面に石が投げ込まれたように、オユンとウーリントヤは互いの姿がゆらいで、声も聞こえなくなった。
次にウーリントヤが鏡面を見たときには、そこには己の姿と、うしろで見守る侍女頭の姿しか映っていなかった。
「
侍女頭の顔は、その数分で血の気が引いていた。鏡に向かって独り言を言いはじめた
砂漠で魔物に襲われ、慕っていた家庭教師を目の前で惨殺された記憶が、ついに彼女を壊したと。
しかし。
「——オユンが来たの。オユンが大丈夫ですよって」
その瞳には輝きがあり、言葉にも張りが戻っている。以前の、
「
侍女頭の目頭が熱くなった。
(きっと、あの世からオユン殿が立ち寄ってくださったのだ。ありがとう。オユン、ウーリントヤさまを見守っていておくれ)
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