14  とどまってしまった

 月初めにあるという村のいちへ、オユンは行くと言ったつもりだった。しかし、考えれば、おかしなことだった。


 なぜ、さらわれた女が、おでかけ計画を?

 その前に、なんで城へ帰ってきた?

 村で、「助けて!」と言うべきところだった。まちがえた。

 もういっぺん、村へ行くところからやり直したい。

 替えの下着が1枚もないということにとらわれすぎた。

 だが、村人は長くシャル・ホルスの支配下にあるようだ。「助けて!」と言ったところで無駄だったかもしれない。


 次に逃げるとすれば、いちがチャンスか。


(逃げる? いちの人込みにまぎれて?)

(行商人に助けを求める?)


 いまいち、できる気がしない。向こうも、いきなり見知らぬ女が「助けて」と言って飛び込んできて、「よし」なんて気になるとしたら、よほどのお人よしだ。その女が強盗の手先だったら、どうする。

 女が単独犯というときもある。金目の商品を、まんまと持ち去られるわけだ。

 行商人が、とんでもない悪党だったらどうする。海の向こうのハレムに売り飛ばされて——、いや、29歳じゃ下働きの奴隷がいいとこ二束三文——。


「どうしたの、奥方。顔がこわくなってるヨ」

 ノイの声で、オユンは我に返った。

「なんでもない」

「よからぬことを考えている顔だヨ」

 ノイは油断ならない。


 オユンは長櫃ながひつの中の服やら、シャルの服やら、村長の奥さんにもらった服を、応接間で自分サイズに直しているところだった。

 お針道具は、家令の裁縫セットを借りた。

 

 針仕事は得意ではないが必要に駆られて、そこそこできる。

 実家にいる頃は、十数人の弟妹の衣服を直しては着せていた。

 義理の親となったツァガントルー父さまは、〈手に職〉という考えの人だったから。


(というより、召使い、少なかったな)


 引き取った子供たちが召使い候補だったのかも。

 オユンは物覚えがよくて、字を書いたり読んだりの理解が早かった。


「ねぇ、奥方。逃げようとか、考えてた?」

 ノイはお見通しだった。

「まぁ、気持ちはわかるヨ。ここに来たくて来たんじゃないしネ」


 ノイの問いには答えずにオユンは針を、ちくちく進めるに徹する。


「アルジのこと、好きになれとは言わないけど、生理的嫌悪感とかないんならさ。様子見たら?」とも言われた。

 

 たしかに、貴族社会の婚姻にも通じることだ。

 下級でも貴族と名がつけば、自由恋愛は難しい。

 生まれ落ちたその日から、家のための個人であり、個人のための家はない。

 ツァガントルー家が婚姻に頼らず、養子を増やした考えの底にも、それがあるだろう。ただ救いなのは、ツァガントルー父さまは、そのことを楽しんでいたし、養子たちに、自分は引き取られてラッキーだと思わせてくれたことだ。


 子供のころから読み書きが達者だったオユンに、「学問に向いている。宮廷付きの家庭教師になれば、一生の仕事だ」と勧めてくれたのは、ツァガントルー父さまだ。

(もし、父さまが、おまえは家庭の切り盛りが向いてるよ。嫁に行けって言ったら、そのとおりにしていただろう)


 自分の意志で道を選んできたと思っていたが、案外、そうではなかったのかもしれない。

 今も、さらわれて抱きしめられて流されている。この事態に頭がついていってない。


「あなたのあるじについては、今のところ何と言っていいのやら。でも、こんな世界があったんだと驚いているの」

 正直な気持ちだ。


 窓からさす光が西日に変わったので、「針仕事は終わり。家令さんをお手伝いに行きましょう」ということにした。


 実は、城は人手が足りていないと思う。

「ふたり分の食事の支度が三人分に増えるのは、たいした手間ではありません」

 家令が厨房係もかねていた。

 魔導士のしもべたる精霊たちは大勢ではないが、食堂や風呂場にいるのを見かける。

 彼らの食事はどうしているのと思ったら、空気中から水分を取り出したり、植物や動物の精気で食事代わりになるということだ。

(ファンタジぃ)


「あまり大きな声で言えないんだけど、人間からも精気をわけてもらってるんだヨ」

 ノイの目が金色に光った気がして、「げっ」思わず、オユンは後ずさりそうになった。


「奥方はアルジの奥方だからね。さすがに僭越せんえつすぎて」

「う」

「おいシそーだヨ」

「——子供の頃に、よく精霊を視たの」

「あ、それ。おいシくなーれって、あっちは見てたんだと思うヨ」


 聞くんじゃなかった。



 日が沈むころが、夕餉ゆうげの時間だ。

 橙色だいだいいろ岩塩がんえんランプに光が灯る。


 長テーブルの席に魔導士はいなかった。そういえば、朝早く出かけたようだ。今日は顔を見ていない。オユンは、ほっとした。

 シャルを真正面に据えての食事は多少緊張するのだ。というより、心拍数が上がる。


(わたしは完全に浮ついている)

 相手は魔族の男で、人さらい(しかも、さらう人間をまちがえている)なのに。

 

(そういう機会がなかったから)

 王宮家庭教師になって7年。その前は、十二日女じゅうにひめの遊び相手として試用期間が4年。女子だけの環境だった。

 そのうえオユンのいた侍女集団は、〈鋼鉄の処女隊〉と異名をとるほど男女の交際には厳しかった。

 いや、オユンは契約書で『生涯独身』を誓ったのだから、よいのだけど。


 とりあえず、さっさと眠ることにする。

 朝が来たら、明日も針仕事の続きだ。



 そして、何かの拍子に目が覚めた。

「……」

 寝台のそばに立っている人がいた。浮かび上がったシルエットは、シャルだ。彼自身が燭台のように、ぽうっと青白い光をまとっている。


「え」

 そのオユンの一言に、『あなたの部屋は向こうでしょう』『こんな夜中に』『寝ているところに何』という抗議のすべてを読んだのだろう。


「——さっき、帰ってきた。今日は顔を見ていなかったから。土産みやげもある」と、シルエットは言い訳した。


「おみやげ」

 現金だが、その言葉にオユンは起き上がった。

 シャルがオユンの手に、かすかな重さの小さな包みをのせた。中身を見ると、ころんとした石鹸せっけんだった。

無患子ムクロジの石鹸。女の人は香りのよいものが好きだと。この城には、石鹸せっけんなんて置いてなかったって気がついて」

 そういえば、糸瓜へちまタオルしかなかった。


「それから。漢方薬」

 かさっと、また紙袋の音がして、中くらいの紙袋を渡された。

「オユンの飲んでいたのは、これだろうと教えてもらった」

 たしかに、常飲していた薬の香りがした。


「教えてもらった?」

「オユンの実家と話してきた」

「えっ」


 話が、いきなり飛んだ。

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