二〇二三年六月一五日

 販売担当としての研修三日間の内、二日はひえ美羽子みわこさん、ベテランの女子薬学部生が担当してくれた。店舗代表の浜迫はまさこ千佳ちかさんが翌日の仕込みを準備しながら自分たちを監督していた。店長ではなく「店舗代表」というのは、浜迫さん自身もアルバイトの立場だからだ。「あの店」は従業員全員がアルバイトという構成にて成り立ち、浜迫さんが他の従業員を率いている。そのため、私の面接官も彼女だった。彼女はフレンドリーな性格と人辺りを装っていたが、上下関係と常識を尊ぶ女性だった。そのため大学生アルバイトの女の子でさえ、比較的年が近い自分に対しても、礼儀正しさを通り越していた。

 稗さんは年明けの春、大学のカリキュラムでイタリアへの短期留学が決まっていた。その間、当然のことではあるが出勤できない。

『ただでさえ人手不足なのに。さらに自分が一時期でも抜けてしまうから、申し訳なくて仕方がありません。必須カリキュラムでなければ留学を辞退したのに』

 鳥肌が立った。彼女の目は狂気に侵されていないように見えたので、さらに血の気が引いた。幼いころより変人と称されている自分には、彼女の偽りのない発言が理解できなかった。

 一方で、彼女による業務手順の指導は完ぺきだった。木箱から飛び散るおはぎのきな粉を掃く刷毛でさえ、彼女が手にすれば川のせせらぎのように優美だった。自分が消費者であれば、彼女が作業を優先したところで苛立つわけがない。むしろ商品を購入するよりも、彼女の作業が終わるまで見ていたいほどだ。

 彼女の指導は拭き掃除からパッキング容器の補充に至るまで細かく、説明と補充も静かで無駄のない動きだった。典型的なO型の私にはできない所作だ。聞くと、彼女の血液型はA型とのことだった。人が勝手に枠決めした血液型信仰など自分には無関係だと思いたかったが、これほど枠に収まった例の比較が容易であれば信仰の一割でも受け入れるべきだった。

 彼女の接客時の受け答えは、静かで上品だった。対する私はあらかじめ「リサーチ」していた舌の情報をもとに、お客の質問に応答、好みの味覚を聞き出して追加購入の提案をした。英語圏の旅行者に対しても同じように対応した。当然ながら英語で。面接でアピールしたことは最大限に活かす。売上に貢献して賃金を得るのだから、自分にとっては当然の行為だった。会計後、稗さんは私に向かって、静かに拍手をした。その白い手のひらと細い指の乾いた音が、神社で聴く鈴の音色のようだった。間違っても、百円ショップで販売されている鈴の根付には例えることができなかった。

 ガイドとしての閑散期、ここでもそれなりに世渡りができることを願っていた。しかし絶望が待っていた。この絶望には、退職日まで一度も慣れることがなかった。

午後九時にショッピングモールが閉館、各店舗が一斉に閉店作業に取りかかった。自分は稗さんに教わったとおりに、売れ残りの和菓子を数え、ノートに記帳した。後にレジに廃棄登録すると、おはぎ、団子、大福などを合わせて百五十個。それをすべて、浜迫さんが作業場で廃棄用袋に詰め込んだ。自分は息をのみ、稗さんを見た。この日が、三度目に見る光景だが、未だに驚いてしまっていた。

「そうなんですよ。私も最初は期待して入社したんですけど、売れ残りの和菓子は絶対に持ち帰り禁止なんですよね。このモール、じゃなくて本社の方針で」

 ショッピングモールではなく「あの店」の本社を指していた。余談だが、モール内他テナントは売れ残りのベーカリーパンや弁当をモール内従業員へ無償で配布してくれることがある。自分も退社するまで何度か食費が救われた。

「本社の方針ですか……今の時代、SGDsで騒がれている中では珍しいですね。和菓子は生菓子だから無理だとしても、これだけの食べられる数だけを見れば、世界中のどれだけの子どもたちがお腹を満たすことができるか」

「そうなんですよ!」

 稗さんは目を見開き、自分の両手を掴んだ。

「私、大学で社会問題を取り上げる授業を履修しているんで、なおさらここのシフトに入るたびに胸が痛んで……というわけでさっき買ったんです」

彼女自身が詰めたパックを見せてきた。みたらし団子が二本、つぶあんのおはぎが二個。どちらも翌日の朝食に充てるとのことだった。

「だからつい買っちゃうんですよね。自分のお金が減るってのは分かっているんですけど、誰かが買ってあげないとなんですよね。そうしないと、おはぎたちが作られても報われないから」

 稗さんはパックの中身を愛おしそうに眺めていた。彼女が製造を担当しているわけではないのに。

 浜迫さんは無表情で、廃棄商品を詰め込んだビニール袋の口を締めていた。その手際の良さは、テレビ番組などで見かける製造マシンを越えていた。稗さんの手中にある商品を見ても、眉一つ動いていなかった。浜迫さん自身が商品を購入しても、稗さんが購入しなくても、それは自然な流れ。店のために金を落とすことは、必須作業ではなく、任意行為として認識されていた。

 自分は空腹の胃液が緩やかに逆流してくるのを感じた。金を稼ぐために働くのに、金を落としに出勤しなければならないのか。それ以前に、この時点で一言も強要されていないことに善意を消耗しなければならないのか。それが当然とされる「社会」で自我を保つ保証があるのか。和菓子職人風の制服を纏う肌が痒くなってきた。しかし和菓子に関する知識を得られないことはあまりにももったいないことだった。自分が事前に購入して食べた商品は、仕事に必要だから。自分にそう言い聞かせて働いた半年間。

 その初月、ショッピングモールの洗礼を重ねて受けることになった。

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