#35 契約更新
美姫が休んでいることを心配してくれていた人は多かったようで、美姫宛の電話が店舗から何本もかかってきていた。復帰の連絡をするだけのものは良かったけれど、仕事の質問をされたものは美姫では判断できないものもあったので祐宜に交代してもらった。
鳴った電話に美姫が出ると、それは咲凪からだった。
『美姫ちゃん? 良かった、出てこれたんや』
「うん、ごめん心配かけて」
『ううん。元気そうで良かった。……あの人とも、順調?』
それはおそらく、祐宜のことだ。
「うん……。それもやけど、咲凪ちゃんが連絡くれたのも嬉しかったわ」
『またいろいろ教えて。ところで、肇いる?』
「うん、ちょっと待ってて」
咲凪の店舗のパソコンの調子が悪いらしい。
美姫は電話を保留にして、システムの部屋へ行って肇に声をかけた。彼の先輩は席を外していて、咲凪からだと言うと肇は嬉しそうにしていた。
美姫が席に戻ると、今度は祐宜からミーティングルームに来るように言われた。相談役も一緒なので、週に一度のミーティングをするらしい。
相談役はあまり本社には来なくなっていたけれど、美姫が休んでいた頃は頻繁に顔を出してくれていたらしい。
「ありがとうございます。もう、また今まで通り来れると思います」
「岩瀬さんが出てきたらもう来んで
「いや、そこまで強くは言ってないですよ。岩瀬さん来てくれたら、任せられることもあるから、異動したときくらいにはなると」
それでも本当は本社に来るのは面倒で近くの店舗に顔を出すほうが体が楽なようで、相談役は嬉しそうにしていた。美姫も再び祐宜と働けることが嬉しくて顔が
「美姫、また体調悪いんか?」
「うん、ちょっとだけ……。でも大丈夫」
「そうか? あんまりひどかったら病院行けよ? なんやったら車で連れてったるから」
「うん。ありがとう。大丈夫やから……。それより、忘れてることいっぱいあるし、もうすぐ給与のデータ来るから頑張る」
「無理はするなよ?」
それから予定通り、美姫は給与データが確定するまでの作業に取り掛かり、祐宜の助けもあっていつもより少しだけ早めに終わらせることができた。体調は良くはならなかったので、週末も祐宜の部屋には泊まりに行かなかった。既に彼とは休日がずれていたのもあって、平日に病院へ行った。そして予想通りのことばを医師からもらった。
祐宜の部屋に泊まりに行くのは躊躇ったけれど、美姫も彼とはデートしたかった。だから彼に来てもらうことになって、日曜日、美姫はマンションの前で彼を待っていた。
美姫は車を持っておらず駐車場が空いていたので、祐宜にはそこに停めてもらった。マンション契約のとき無料でついてきたものだ。
「そういえば来てもらうのって初めて?」
「──そうやな」
「そっか……」
それからエレベータに乗って部屋に向かい、中に入ると美姫は届いていた郵便物をテーブルに置いた。それを祐宜はたまたま見たらしい。
「……契約更新?」
「あ──うん。四月やったかな」
いま住んでいるマンションは大学一年の春に契約した。就職してから引っ越そうかとも思ったけれど、どこが良いか分からないままに四回目の契約更新の時期になった。
「美姫──そろそろ籍入れよか」
プロポーズは既にされていたので特には驚かなかったけれど。
「……ひゃぁっ」
祐宜が手に持っていた指輪を見ると小さく悲鳴を上げてしまった。
「受け取ってもらえるか?」
美姫はそれを受け取ろうとして、直前で手を引っ込めて祐宜に背中を向けた。溢れる涙を見せたくなかったのではなく──、気持ちが悪くなった。その場にしゃがんで、うずくまってしまった。
「美姫……? どうした? こないだから」
立ち上がれずにいると、祐宜は背中を擦ってくれた。
祐宜に助けてもらって立ち上がり、椅子に座らせてもらった。
「こないだ、病院行ってきた」
「うん……どうやったん?」
「何となくそんな気はしてたんやけど──」
美姫は祐宜の手をとって自分のお腹に当てた。
「え──もしかして」
「もうすぐ三ヶ月やって」
最後につきのものが来たのは十一月だった。鍋パーティーの夜に祐宜に抱かれたあと、会社の忘年会の頃から調子がおかしくなった。予定では休みだした頃に来るはずだったものが、一週間待っても、二週間待っても来てくれなかった。遅れたり一回なかったりすることは過去にもあったけれど、自分で検査してみると陽性か出た。きちんと病院で検査して、三ヶ月だと聞いた。
「それでずっとしんどそうやったんやな……気づかんでごめんな。──あ、もしかして、大夢でマスターに言った?」
「ううん? 朝倉さんには気付かれたけど」
「え? 俺とは言ってないよな?」
「うん。……私が珈琲じゃなくてココア飲んだからマスター気づいたんかな。ときどきお腹も触ってたし」
「あ──勘やから、って教えてくれんかったけど、珈琲がヒントやって言ってたわ」
気分は少し落ち着いたので、美姫は祐宜にぎゅっと抱きついた。祐宜が抱きしめ返してくれてから、美姫は顔を上げた。
「元気なうちに、祐宜のとこに引っ越して良い? 会社に言うのは、バレンタイン過ぎてからが良いな」
「なんで?」
「今年は本命だけ渡すことにして、義理チョコはやめる。祐宜にだけ渡せるし、もうちょっとだけ騙せるし」
「美姫……騙して楽しんでないか?」
「はは、バレた?」
美姫は妊娠したことは両親には年末に既に話していた。祐宜と挨拶も済ませて結婚することも伝えていたので〝順番が逆だ〟と怒られることはなかった。
改めて真剣に話し合った結果、美姫と祐宜は出会った四月に入籍することになり、その日が近づいてから──もしもお腹が目立ってきた場合はそのときに会社にも報告することにした。
「産休、育休も取るよな。夏くらいやな」
「うん。あ、また……祐宜に仕事を任せてしまうことになる……しかも長い」
「それこそ気にすんな。周りがみんな助けてくれる。こないだ実は、川原さんも手伝ってくれてな」
「えっ? 総務やのに」
「総務部長には許可もらったし、向こうから言うてきてくれた。次どうなるかは分からんけど、大丈夫やから、美姫は子供のことだけ考えて」
祐宜に優しくされるのがものすごく久々に感じて、美姫は思わず涙を流してしまった。妊娠は奈津子には気付かれたけれど、美姫が言うまでは秘密にしておいてほしいと言ってある。
「祐宜──会社で、ニヤけんようにしてな? いますごい緩んでるから……」
「だって嬉しいし。……聞かれたら入籍決まったことだけ言うわ、総務部長またうるさくなってるし」
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