#20 月明かり
美姫が人事になって最初の一週間は、あっという間に過ぎていった。今までと全く分野の違う仕事に戸惑いながら、分からないところは祐宜に教えてもらいながら、相談役からの急な召集に慌てながら、いつの間にか金曜日の夕方になった。美姫が仕事に慣れるまで祐宜は休みを合わせてくれたので、出勤すればいつも隣にいた。里美や総務部長の視線は相変わらず感じているけれど、関係をしつこく聞いてくることは減った。
仕事を終えて会社を出ながらスマホを開くと、先に帰った祐宜からLINEが入っていた。一週間前に行ったダイニングバーで待っているらしい。
店に着いて中に入ると、祐宜は一番奥の席にいた。
「部長、俺が美姫を残したこと何か言ってた?」
「ううん。私も終わりかけてたし」
「そうか。仕事は、やっていけそうか?」
「今のとこ……」
「来月、ちょっと落ち着くから、店回り行こか」
祐宜が各店長と話をするついでに、美姫も挨拶をするらしい。事務は嫌いではないけれど、久々に店舗に行けるのは良い気分転換だ。相談役は放置して祐宜と二人で車で行くようなので、それもまた嬉しい。
美姫は週末は連休になっているけれど祐宜は土曜の朝に仕事が入っているので、軽く食べてからすぐに店を出た。美姫が会社を出るときに残っていたのはほとんどが車通勤の人だったので、駅までの道では誰にも会わずに済んだ。
「今日はゆっくり休め。明日のことまた連絡するわ」
積もる話は特にせず、美姫はそのまま家に帰った。同じ電車に乗った祐宜は美姫より先に降りて、見えなくなるまで手を振ってくれていた。
翌朝、美姫はあまり気はすすまなかったけれど、祐宜から預かっていた合鍵を使って彼の部屋に入った。泊まる予定で持ってきた荷物はとりあえず置いて窓から外を眺めていると、急に暗くなって雨が降りだした。天気予報通りではあるけれど、祐宜のことが少し心配になった。
ガチャガチャ──。
「美姫、いる? タオル持ってきてくれ……洗面所にあるから」
玄関の方から音がして、すぐに祐宜の声が聞こえた。
「おかえり。うわ、びちゃびちゃ」
祐宜は傘を持っていたけれど、雨は風に煽られて傘の下まで入ってきたらしい。
昼も夜も外食の予定にしていたけれど、雨風が強いので昼食はとりあえず美姫が簡単に作ることになった。材料は一週間前から変わっていないので同じような料理だ。
「美味いな、料理教室とか行ってたん?」
「ううん。お昼はいつも外やから、せめて朝と夜は作ろうと思っていろいろ覚えた」
「ふぅん。こないだ作ってくれたやつも美味しかったし……」
祐宜が本当に美味しそうに食べてくれるので、美姫も嬉しくなった。就職が決まったときは希望職種と違っていたので残念な気持ちがあったけれど、彼と出会えたことはラッキーだったと思う。
雨が止むのを待ちながら、美姫は一週間の出来事を彼に話していた。咲凪に連絡はしたけれど、それ以外は家と会社の往復しかしていないので話題は本社でのことばかりだ。
「そういえば美姫、朝倉さんから預かった写真、友達に見せたん?」
「ん? うん、会われへんからLINEで送った……あ、返事するの忘れてた……。とりあえず会ってみるって」
休日に汐里と会えれば渡すつもりにしていたけれど、予定が合わなかったので仕方なく送った。汐里も彼の外見と簡単なプロフィールに不満はなかったようで、会ってみて判断したいと言っていた。
「ふぅん。……来月、店回りって言ったけど、嫌な店あるやろ?」
「え? ううん。ないけど……なんで? あ──もしかして、聞いたん?」
「今日、あの店長から電話かかってきて、ぽろっと言ってたわ。喧嘩ばっかしてたって」
付き合ったのは一瞬だったので、忘れかけていた。嫌なことを思い出して顔を歪めていると、祐宜は『あいつの性格が悪いだけで美姫は悪くない』と言ってくれた。
「俺にとっては最高の彼女やけどな。だから──結婚してください」
祐宜からそう言われることは初めから覚悟していたけれど、実際に言われるとまたすぐには言葉が出てこなかった。
それでも好きな人からプロポーズされるのは誰にとっても嬉しいことのはずだ。美姫ももちろん例には漏れず、涙が出てきてしまった。美姫は返事をする代わりに、彼の胸に飛び込んで泣いた。抱きしめてくれた祐宜の手に上を向かされ、口付けられた。
「……返事まだしてないのに」
「その顔、YESやろ」
「違うって言ったら?」
「言わせへん」
悪戯っぽく笑う祐宜の顔を見た直後、美姫はまた唇を塞がれてしまっていた。嫌な気はしないし寧ろ嬉しかったので、そのまま彼に従うことにした。美姫は当然──YES以外の返事をするつもりはない。離れてから祐宜は美姫を見つめ、再び抱きしめてくれた。
「会社には言うん?」
「言わなあかんな。でも──まだ良い。美姫ももうちょっと、俺のこと知ってからが良いやろ?」
「そうやなぁ……」
「俺も今は、このままが良い。でも、結婚したいのはほんまやからな? 前も言ったけど、来年にはしたい」
「……うん」
いつの間にか雨は上がっていたので、二人で車で出掛けた。会社の誰かに会うと面倒なので、少し遠くに出た。デートらしいデートを楽しんで、祐宜の部屋に戻ったのはすっかり暗くなってからだった。
特に買い物はしなかったけれど、唯一、祐宜が買ってくれたのはお揃いの指輪だ。婚約指輪でも結婚指輪でもないので会社に着けていくことは出来ないけれど、それでも美姫は嬉しくてお風呂に入るまではずっと着けていた。出てきてからはそれを手に取り、ずっと眺めていた。
「美姫……ニヤけすぎ」
「だって、嬉しいんやもん。仕事中にニヤけんようにせなあかんなぁ。危険人物がいるし」
「ああ──総務部長な。いちばん危ないな」
美姫と祐宜はバーベキューで仲良くなった、と一応は信じてくれたけれど、いまだに疑いの目を向けられる。だから彼が近くにいるときは、なるべく話をしないようにしていた。
「金曜は──ここに帰ってくるか?」
「え……週末はここにいるってこと?」
「土曜は仕事の日もあるけど、それでも……俺はちょっとでも美姫と一緒にいたい。誰も
祐宜がニヤリと笑うのは、美姫に触れようと考えているときだ。美姫は持っていた指輪を取り上げられ、座っていた床からベッドに持ち上げられた。
「いろいろって……」
「俺のこと。会社の奴らには構う気ないけど、美姫には教えたい」
美姫は押し倒されて、お風呂上がりで整髪剤の取れた祐宜の髪が顔に触れた。シャンプーの香りが爽やかで、思わず息を吸った。
「わかってるよな? 〝そのつもり〟で呼んだって」
「……うん」
美姫が一瞬、視線を逸らすと、祐宜はリモコンで部屋の電気を消した。月明かりに見つからないように、二人で愛を確かめあった。
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