#02 研修と不安
本社での研修は入社式と同じ会議室で行われた。長机がいくつか並べられ、本社勤務の先輩社員たちがそれぞれの部門について説明してくれた。総務からは会社組織についての話、保険契約の話。人事からは出退勤システムの話、有給休暇の話。それから生鮮食品や加工食品の仕入れなどの話、レジ操作や接客などの店舗業務に関係する話。
「お金はバイトで数えてたけど、難しいなぁ」
レジでお釣を返すときのお札の数え方もスーパーとコンビニでは異なるようで、就職直前までコンビニでバイトをしていた何人かは癖を直すのに苦労していた。最近は支払方法も複雑になっているので、レジひとつでも覚えることは山のようにある。セルフレジが導入されているし有人レジも支払いは機械になっているけれど、お金を数えることがないとは限らない。
「レジ研修は動いてるから良いけど、他の話……あんまり分からんかったし、眠かった」
「そうよなぁ、実際にやらんとなぁ」
研修をしてくれた先輩たちも、おそらくそれは感じていたはずだ。入社式のあとで何店舗かを見学したけれど、バックヤードで働いている人たちを見た程度なので詳しいことはほとんど聞いていない。
入社式のときから新入社員たちの様子を気にしていた祐宜は、研修中も休憩時間にも様子を見に来ていた。他の社員たちはだいぶ年上なので緊張するだろう、という理由で、彼が人事なのもあって対応を任されたらしい。彼は特に何も言ってこないし、たまに口を開いても肇や他の男性としか話さなかったので、美姫や咲凪は関わることがなかった。それでもやはり女性陣には格好良いと認識されているようで、祐宜がいなくなってから彼の話をしていた。
「もうちょっと若かったらなぁ」
「なんか……〝話し掛けんな〟ってオーラ出てない?」
「出てるー。男子たちとは話してるけど」
「はは、男子って、学校じゃないんやから」
本社での研修のあとは自宅から近い中型店舗での研修ですべての部門を経験し、一ヶ月後、美姫は希望通りその店舗での出納部門に配属された。ちなみに咲凪も別店舗での出納で、肇はパソコンに強いことが認められて本社のシステム担当に配属されたらしい。
「すごいなぁ、佐倉君、いきなり本社って。でもなんか、怖くない?」
「怖いけど……兄貴が、本社はみんな面白い人、って言ってたし、堀辺さんのことも知ってるから……たぶん、大丈夫」
同期たち全員で集まったのは、研修お疲れ様、という名の飲み会が最後になった。美姫と咲凪、それから肇や他数人は真面目に働き続けたけれど、数ヶ月後には何人かが辞めてしまっていた。入社早々に寿退社をした女性に至っては、羨ましかったけれど、意味が分からなかった。
美姫は接客はあまり得意ではなかったけれど、いつのまにかそれは苦ではなくなっていた。母親と同年代のパートたちに娘のように可愛がられ、顔を覚えてくれた常連客には励ましの言葉を掛けてもらえた。もちろん、理不尽なクレームを言われて落ち込むことも多かったけれど、それでもなんとか楽しく働いていた。
「岩瀬さん、今日な、昼から本社の人が来んねん。面談やって」
仕事にも慣れた秋の頃、事務所で帳簿をつけていた美姫に店長が話しかけてきた。
「え……何の面談ですか?」
「ん? 知らん、何やろな?」
同じ店舗に配属された同期にも面談の話が来ていたので、仕事には慣れたか、という話かと簡単に考えていた。けれど美姫や同期に会いに来たのは総務部長ともう一人の年配男性で、簡単な話ではなかった。
「仕事は慣れた?」
そんな話も、もちろんあったけれど。
「あのな──、うちの会社、いくつかグループ企業あるの知ってるよな?」
「はい」
「毎年、何人か親会社に出向してもらってるんやけど、岩瀬さんにも来年から行ってもらおうと思ってな」
「え……出向……?」
「予定では三年くらいやけど、もしかしたら延長なるかもしれんし、逆にそのときの事情で早めに戻ってきてもらうかもしれんし」
今までは数人程度だったのが今回は二十人ほど出すようで、そのメンバーに美姫は選ばれてしまったらしい。
「入ってすぐやけどなぁ、勉強のつもりで行ってきてもらわれへんか? 部門は今と同じレジで、て言うてるから」
「わかりました……」
複雑な気持ちで事務所に戻ると、同僚たちが『何やったん?』と美姫に聞いてきた。
「……出向って言われました」
「ええっ?」
一番驚いたのは、美姫の直属の上司のレジチーフだった。美姫が任されていた事務を引き継ぐことになるので、シフト調整が大変だ、という顔をしていた。
「岩瀬さん、出向なん?」
遅れて驚いたのは、パソコン操作をしに来ていた男性の先輩だ。何かを印刷してから立ち上がり、美姫のほうを見た。
「俺、出向したことないけど、めっちゃ風当たり強いって噂やで」
「え……そうなんですか?」
「そうやな……風当たり強いっていうな……私も知らんけど……ま、頑張れとしか言われへんわ」
美姫が出向する先は、グループのトップ企業──ではないけれど。それでも規模が全く違うので、過去に出向した人たちは散々な目に遭って帰ってきたらしい。
数日のうちに、美姫の出向のことはパートやアルバイトにまで知られることになった。寂しくなる、と言ってもらえたけれど、勉強だ、と意気込んでみたけれど、風当たりが強いらしい、と何度も言われるのでその日が近づくにつれて不安の方が大きくなってしまった。
「出向したことある人に聞いたんやけど、派遣みたいに扱われたんやって」
「派遣? ひどいなぁ……どうしよう……」
出向者全員を集めて激励パーティーをしてくれたけれど、咲凪も出向だったので話をできたけれど、不安なことしか浮かんでこなかった。
「岩瀬さんって……今年の新入社員か? まぁ、向こうの会社は、大きいからいろんな制度はうちより充実してるはずやわ」
「そうなんですか? でも、給料は今のままなんですよね?」
勤務体制は出向先に合わせるけれど、給料は今のままで変わらないらしい。同じ店舗に行く人がいて仲良くなれたけれど、あまり前向きにはなれなかった。
「岩瀬、どうした? 暗い顔して
帰り際に声をかけてきたのは、美姫に出向だと言いに来た本社の人間だ。
「私の行くとこ、聞いたことないんですけど……どこですか?」
「ああ、あそこな、岩瀬の家からやったら──一時間半くらいやな」
「ええ……そんな遠いんですか?」
「まぁ、ギリギリの距離やろな」
美姫は学生時代から一人暮らしをしていた。大学には近かったし、バイト先もたくさん選べたし、就職してからも不便はなかった。けれど、出向してからは勤務時間が今以上に変則になると聞いて不安になって、体調を崩さないかも心配になった。
やっていける自信が美姫にはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます