ハチミツ in ビターチョコレート

玲莱(れら)

第1章 出会い

#01 入社式の日

 世の中にはものすごい大企業があって世間一般とは桁違いの給料を毎月もらって、親のコネで入社したり昇格したりして贅沢三昧な暮らしをしている人がいるらしい。

「そんな会社、どうせ履歴書で落とされるって。一流大学とそれ以外を振り分けるって聞いたことあるし」

 就職活動をしていた大学三年の頃、綺麗なオフィスでお洒落をしてバリバリ働くことを夢見ていたけれど、普通の家庭に生まれて普通の大学に通っていた岩瀬いわせ美姫みきにはそれは夢のまた夢だった。まじめに大学生活を送って単位も取ってバイトもしながら面接もたくさん受けたけれど、希望上位の企業からはが届くばかりだった。一次面接をクリアして次に進んでも、他の就活生に圧倒されて思っていること全ては伝えられなかった。

 周りの友人たちが次々と内定をもらってくる中で、美姫は最後まで内定をもらえずにいた。面接を受けた企業で通知が来ていないのは、残すところあと一社となった。希望していた職種ではないし、大手でもないし、どちらかというと地味すぎて避けていた企業だ。それでもどうにか内定がほしくて、美姫は藁にもすがる思いで面接に臨んだ。そして書類も筆記試験も、面接も全てクリアしたようで内定通知が届き──大学四年の後期になってようやく就職が決まった。

 美姫が入社したのは地域密着型のスーパーで、十店舗ほど展開しているのは入社してから知った。本当に小さな企業なので給料もそれほど期待していなかったけれど、親会社は大型店舗を全国展開している有名企業だった。だからいつかは給料の大幅アップもあり得るか──と少し期待していたけれど、そんなことは起こらないのは働いていくうちに分かることになる。

 入社式が行われるのは本社の会議室のようで、長机が全て端に寄せられてパイプ椅子が小ぢんまりと並べられていた。会議室──といっても、会議がない日は物置として使われているただの広い部屋のようで、棚にはダンボール箱が積み上げられていて少々埃っぽさを感じてしまったけれど。全部で十数名しか採用していないようで、椅子の背には小さく名前が貼られていた。美姫の席は最前列で演台に向かって一番左だった。

「岩瀬さん……確か、面接で一緒やった……」

 話しかけてきたのは美姫の後ろに座っていた青年だ。

「あっ、ええと──佐倉さくら君?」

「名前覚えてくれてたん? 僕いま、ここに貼ってるの見て思い出して……」

 佐倉はじめとは最終面接で一緒になって、途中まで一緒に帰ったので記憶に残っていた。人懐こそうな爽やかな青年で、すぐに打ち解けた。

「あと確か……あっ、来た! 良かった!」

 美姫が見つけたのは、一緒に面接を受けたもう一人の女性だ。彼女・中野なかの咲凪さなも美姫と肇の顔を覚えていたようで、自分の席に着いてから会話に加わった。

「美姫ちゃんって可愛い名前」

 羨ましがったのは咲凪だ。

「そうかなぁ……なんか、姫、っていかにも女の子ってイメージで、名前負けしてる感じであんまり好きじゃない」

「そんなことないで、合ってると思う!」

 咲凪は名前を褒めてくれるけれど、美姫はいつからか自分の名前が嫌いになっていた。漢字はお姫様のイメージがするけれど、美姫はそんな状況になったことはないし、王子様のような恋人が出来たこともない。

 新入社員たちはいつの間にか最終面接を受けたグループごとに分かれてしまっていたので、美姫もそのまま三人で話を続けていた。大学で学んでいたことや、これからやってみたい仕事など。

「佐倉」

 肇を呼んだのは、会議室に入ってきた先輩の男性社員だった。美姫が到着したときから会議室の様子を何度か見に来ていたので、総務もしくは人事なのだろうか。

「あ──堀辺ほりべさん、お久しぶりです」

「久しぶり。兄ちゃん元気?」

「はい。あ、そういえば、これ、読むんですよね」

「うん、いけるか? よろしくな。それから──岩瀬さん」

「は、はい?」

「入社式で社章を全員に渡すんやけど、代表で受け取ってもらえる?」

「はい……」

 社章を受け取ってから席に戻るまでの動きを説明し、美姫が了承するのを確認すると、彼はそのまま会議室から出ていってしまった。

「なんで私が……?」

「……名前の順じゃない? それより佐倉君、さっきの人、知り合い? 何を読むん?」

「あ──採用通知と一緒に、〝入社式で入社の誓いを読んでくれ〟って手紙が入っててん。兄貴が前にここの本社で働いてたから何となく知ってて……。さっきのは堀辺さんていって、人事の人」

 肇の兄はすでに退職して、違う会社で働いているらしいけれど。兄と堀辺祐宜ゆうきは少しだけ仲が良かったようで、今でもたまに連絡は取っているらしい。それでも一応、祐宜のほうが年上だったので、兄から連絡をすることはあまりないらしい。

「あの人、何歳? 格好良かったよなぁ?」

 咲凪は肇に聞き、美姫に同意を求めてきた。

「まぁ……そう、かな?」

「何歳って言ってたかな……確か兄貴より五歳くらい……あ、そうそう、僕より九歳上。だから今は三十一か二」

「九も上かぁ……。彼女いるん?」

「いや、そこまでは知らんけど……。でも、個人的に、あの人はやめた方が良いと思うな」

 肇は祐宜が出ていったドアの方を見て、先輩たちの気配がないのを確認してから口を開いた。

「噂では、女性には冷たいというか、興味ないというか、あんまりプライベートのこと話せへんというか……兄貴と仲良いのは例外らしくて」

 肇は祐宜のことを説明してくれた。

 美姫も確かに彼を格好良いとは思ったけれど、背も高いしスーツも少しお洒落だったけれど、もちろん顔も髪型も整っていたけれど、話したときに一瞬だけ見た彼の目は死んでいるように感じた。仕事のことしか考えない、機械のような人だと思った。

 やがて入社式が始まって、社長以下役員たちの挨拶のあと、総務部と人事部の社員を紹介された。新入社員たちが一番関係ありそうな部署になるし、全員が一旦、総務部に配属されている。

 肇が言っていた通り堀辺祐宜は人事部のようで、けれど彼はまだ平社員らしい。ちなみに人事部長は山田やまだ敏夫としおという、年配のタヌキみたいな小太りの男性だ。

 その日のすべての予定が終わってから、全員で本社を出て、美姫と同じ電車に乗るのは咲凪だけだった。都心に近くはあるけれど各駅停車しか停まらない駅なので待ち時間は長い。

「みんな仲良くなれそうで良かったなぁ」

「うん。明日から研修かぁ……本社で研修のあと店舗の研修で、そのあと辞令が出て……」

 美姫はまだ、店舗のバックヤードで何が行われているのか詳しくは分からなかったけれど、生鮮食品を扱うよりは事務職が良いな、と何となく思った。

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