第29話 ある一つの正義

 石川睦の死から二ヶ月が経った頃、小菅にある東京拘置所の運動場に奥村の姿があった。東京拘置所には、屋内と屋上に運動場がある。週に二・三度、三十分程度の運動をする事ができるのだ。

この時点で奥村は、売春周旋と詐欺罪及び銀行法違反。そして、毒劇物取締法違反の罪に問われていた。まず売春周旋は求刑一年、詐欺罪及び銀行法違反は求刑五年でどちらも係争中である。これらの係争は弁護士のお陰で、合わせて二年から二年五・六ヶ月位で落ち着くであろう。本匠が新居を通してたててくれた、弁護士のお陰である事は言うまでもない。そして公安が絡んだ毒・劇物取締法違反だが、森高融主導で全ての犯行を行った為自分には解らない。準備されていた段取り通りに犯行を行ったもので、「森高でないと解る筈がない。」と主張している。そして公安から執拗に聞かれた、「VXガス」の入手経路や背後関係についても同様の主張をしている。まあ奥村にしてみれば、・・・・・当然の事なのだが。

 拘置所で奥村は、独居房に収監されている。これは拘置所側が判断するのだが、奥村は正直この判断に「助かった。」と胸を撫で下ろしたものだ。というのは、東京拘置所には雑居房と独居房がある。雑居房とは想像通りで、十一〜十二畳の部屋に七・八人で収監される部屋である。そしてこの七・八人の人間関係が、奥村をはじめ苦手な者が多い。雑居房では、表の世界とは全く関係のない上下関係が存在する。拘置所への入所が早い順で、一番手二番手と序列が決められているからだ。そしてこの序列通りに、下っ端がトイレ掃除をやったりと何かと面倒臭いのだ。独居房は、読んで字の如く一人部屋の事である。三畳ちょっとの部屋に、トイレと洗面所が付いている。当然狭いのだが、虐めや繊細な人間関係が必要な雑居房よりもまだ”マシ”なのだ。奥村はこの狭い部屋で、朝七時起床夜二十一時就寝の規則正しい生活をしている。なので、何かと考え事をする時間が多くなってしまう。奥村の頭の中は、いつも自分を嵌めた人間が誰なのかを考えていた。

『ふぅ〜、・・・・・たまに外の空気を吸っとかないとな。』

大きく深呼吸している時に、側でストレッチをしている男が声をかけてきた。入所時にグループ運動を希望していた為、複数人での運動の時間を過ごしていた。

『もう十月だっていうのに、まだまだ暑いですよねぇ。』

『えっ・・・・・あぁ、そうですね。』

『私恐らく、隣の房だと思うんですがね。正仁会の、奥村さんでしょ?』

『・・・・・?ええ、そうです・・・・って言うか正仁会の・・・・ですがね。』

『やっぱり、そうでしたか。私はそっちの世界の人間ではないんですが、歯科矯正モニターとかで一儲けした川治とは一緒に仕事をした事がありましてね。南州製薬副社長を転がした件、感服させられました。あの筋書きは、奥村さんが書いたっていう噂は本当ですか?』

男は、目を輝かせて聞いてきた。なんとなく、奥村も良い気分になってきて軽く返事をする。

『うんまあねぇ、誰が広げたんだろうなそんな噂。まあどっちにしろ、ここにいるって事は下手打ったって事さ。ところで、おたくお名前は?』

奥村の問いに、男は頭を掻きながら応える。

『私、蒔岡勝己まきおかかつみと申します。詐欺などで、行ったり来たりという人生ですかね。ところで奥村さん、何かお悩み事といいますか恨み言とかあるんですかね?寝言なのか独り言なのか、結構な大きさで聞こえいますよ。』

奥村は、少し照れながら返す。

『いやっ・・・・これは申し訳ない、恨みつらみが声に出てご迷惑をかけていましたか。全く、みっともねぇ話ですね。今夜から気を付けますんで。』

蒔岡は、少し慌てて返す。

『いやぁ〜、そんなつもりで言った訳ではないんですよ。私はどうしても寝付きが悪いんで、ついつい聞き耳を立ててしまっているんです。奥村さんは、気になりませんか?音、・・・・・。』

、ですか?』

『はい。こんな所にいるんですもん、まともな生活していた訳ないじゃないですか。なのに、二十一時に寝ろって言われてもねぇ。それで、あれこれ考えるのも分かります。でもあまりに静かなんで、ちょっとした音に敏感になりませんか?』

『ああ、音はそこまで気にしていませんでした。ですが分かりますよ、ちょっと俺達には早いですよねぇ。』

そう言う奥村に、聞き取れるか取れないかの声で蒔岡が囁いた。

『もし良かったら、私がたまに使っているサプリなんですが試してみます?睡眠導入剤を少し入れてあるんで、結構重宝しているんですよ。看守には、絶対にバレないようにして下さいね。』

奥村は、不思議に思って聞いた。

『アンタ、どうやって手に入れたんだ?』

『私は、差し入れで色々なものを差し入れてもらっています。ただこの類は、看守にお願いをして手に入れやすくしてもらいました。』

『はぁ、お願いねぇ・・・・・。アンタ、・・・「アンコ」(同性愛の女性役)なのかい?』

『流石は奥村さんだ、察しが良いったらありゃしない。そうですよ、それが理由で私は独居房に収監されています。なので、色々・・やって入手できた代物ですよ。寝付きが悪かったら、少し分けてあげますよ。これがあれば、ゴキブリが出たのも気付かずに寝ていられますよ。』

そう言うと蒔岡は、さり気なく三センチまっ角のビニール袋を渡してきた。奥村は、周りを気にしながら受け取る。見ると錠剤が十錠くらい入っている。

『いいですか、ピンク色の大き目のヤツは本当に眠れない時に飲んで下さい。ピンクのヤツは、効き目が強いヤツなんでどうしてもって時だけですからね。朝起きれなかったら、すぐにバレちゃいますから・・・・。』

『ああ分かった。助かるよ、正直こういうのがあると本当に助かるぜ。早速、使わせてもらうよ。有り難うな、娑婆に出たら必ずお礼はさせてもらうぜ。えっと、蒔岡勝己さんだったな!』

そうしているうちに、運動時間終了となり各々の部屋へと戻って行った。蒔岡は、自室に戻って呟いた。

『奥村さんゆっくり眠るんですよ、ウチの重勝からのプレゼントなんだから。八百万一家の本匠って言ったかな、よろしく言っていたそうですよ。さあ、奥村さんはいつ飲むのかなぁ。ピンクの錠剤!クククククッ・・・・・。』

独居房で、笑うのを必死で堪える蒔岡だった。




 靖久は、暫く離婚の話し合いを弁護士同士に任せていた。それは勿論、社長職の引き継ぎに集中していた為だ。平日の業務から、休日のゴルフや食事会などの接待までをみっちりと。勿論、加藤と二人三脚という事なのだが。そうしているウチに離婚の話し合いを始めてから三ヶ月、先代の妻である大園玲子も陣内敬の社長就任を承諾してくれた。そんな折だった、靖久は陣内に誘われた夕食で瞳に合う事となる。

『すみません、なんか騙し討ちみたいで。でも、もうこんな機会ないだろうし本当にお節介なんですけど。最後に二人で、話せる事があればって思いまして。自分は、席外しますんで・・・・。』

そう言って俯く陣内を、靖久は軽く肩を叩きながら宥めた。

『いや、陣内君も一緒に居てくれよ。それに話す事と言えば、優樹と葵の事しかないしね。そうなると敬おじちゃんには、お願いしときたい事が沢山あるからね。』

三人はちゃんこ鍋を囲みながら、まずはビールで喉を潤した。

『ふぅ〜陣内君、頑張って下さいよ。年明けには、新社長で行きますんでね。無責任な言い方になるけど、社員皆んなの評判も良いしきっと良い社長になれるよ。』

『はい、何とかやってみます。優樹が会社に入って引き継ぐまで、しっかり勤め上げますよ。』

そんなやりとりの後、靖久が瞳に話しかける。

『瞳、・・・・優樹と葵の事なんだが。』

『・・・・・はい。』

靖久は、瞳の目を見てゆっくり話し出した。

『少なくとも大人に・・・。そうだなぁ、大学卒業とか成人する迄。それまでは、僕が父親だという事にしてもらえないかな。出来ればずっと本当の事は、教えてもらいたくはないんだけどね。そしたら駄目親父を憎む事はあっても、自分の出生の事なんて気にもしないだろう?』

瞳は目を潤ませて、そして靖久の目を見て返した。

『本当に、・・・・本当に優しい人なんだね貴方は。でも本当にいいの?浮気して出て行ったお父さんのままで。このまま悪者を一人で抱え込んで。』

靖久は、屈託のない笑顔で返した。

『全然大丈夫だよ。浮気したお父さんっていうのは本当だし、知らなくていい事なんて知らなければいい。それが、僕があの子達に出来る父親としての務めでもあるからね。これは、僕にしか出来ない事だろうからさ。』

瞳は、・・・・囁く様に言った。

『・・・・・有り難う。』

肩を震わせながら返す瞳を見て、陣内が口元を緩ませて言った。

『・・・じゃっ、食べましょう。ほら社長、つくねもそろそろ良い具合ですよ。』

『おお、そうだねぇ。塩ちゃんこかぁ、僕は初めてなんだよな。』

こうして、三人での最初で最後の食事会が始まった。三人はまるで古い知り合いだったか様に、和やかに会話と食事を楽しんだ。

この日の食事会から暫くして、筒井夫婦の離婚協議は終了したのだった。




 東京都港区南麻布と麻布十番、この二つの街を遮る様に仙台坂が走っている。この坂を登り切った所に仙台坂上という五叉路の交差点があるのだが、この交差点近くにある三階建てのビルが警察により封鎖されていた。木枯らし吹く中、辺りは普段と違う光景に少し騒がしくなっていた。現場には暴力団対策課の面々が取り仕切る中、別の捜査関係者が到着した。

『お疲れ様です、捜査二課の・・・・・・。』

『ちょっと待ってくれよ、ここは正仁会所有のビルで俺達が先に来てんだからさ。二課の皆さんには、ウチが終わったらやらせてあげるよ。今日のところは、お引き取り願います。』

二課の刑事が、眉間に皺を寄せて噛み付いた。

『何言ってんだよ!正仁会は南州製薬絡みの投資詐欺で、とっくの昔にこっちがマークしてたのは日本中が知っている事だろ?ここは、ウチにに譲るのが筋だろう?』

『何言ってんだよ馬鹿。筋って言うんだったら、正仁会のヤマはまずウチからだろうがよ。それに二課の方々には、何にも話してくれないって。もう、仏さんになっているんだからさ。山守引っ張って、ウチの聴取が終わってからで大丈夫だから。順番守って、ゆっくり聴取すればいいって。』

『えっ、・・・・・仏さん?』

そこに、また数名の刑事達がやって来た。それに気付いた暴対課の刑事が、一際大きな声でその刑事達に聞いた。

『なんだよ今度は、アンタらはどこ?ウチら暴対課に任せとけって、何しにノコノコ出て来てるんだよ!』

数人いる刑事の後ろから、主任格の刑事がいかにも刺々しい声で言った。

『すみませんねぇ、公安一課です。態々、ノコノコ出て来ました。勿論理由は言えませんが、取り敢えず二課も四課も譲っていただけますか。現場も、キチンと現状維持出来ていますよね?お願いしますよ。』

『チッ・・・・・。もう四課じゃねぇよ、もう二年以上前から暴対課だ!』

『ああ、失礼失礼。じゃあ、お邪魔しますよ。一回皆さんは、出て行って下さい。』

そう言って、公安の面々はビルへ入って行った。三階に上がり、先ずは三体の遺体の確認をする。捜査員達は両手を合わせて、哀悼の意を捧げ仕事に取り掛かった。

『先ずは、武器関連のものがないか徹底的に探せ。いいか、琥珀色した油状の物が見付かったらすぐに知らせろよ。もし見付けたら、絶対に触るな!いいか、・・・絶対に触るなよ!そして周りの者にすぐ連絡、そして捜査官全員にすぐ無線しろよ。いいか、絶対に周りの者に知らせろよ。』

捜査官全員に、指示を徹底させてビルの一階から三階までをローラーで探して行く。そこに、二階の捜査官からの無線が入る。

「主任!二階エントランス横の応接室の暖炉内に、琥珀色の油状の物が梱包されているのを多数発見。」

この無線と同時に、現場に緊張が走る。

「了解!機動隊に出動要請だ。全員建物から出ろ!」

現場は騒然となり、機動隊と消防の到着を待つ。呆然としている捜査二課と暴力団対策課の刑事達に、公安一課の主任が嫌味ったらしく言い放った。

『ほらね、こういう事になるんですから。先ずは、我々の指示通りに頼みますよ。手柄合戦は、後で好きなだけさせてあげますんで。』

騒然とする中、的確な回収作業が進められて危険物の回収は無事に終了する。この事件を機に、正仁会は暴力団を隠れ蓑にした極左暴力集団という認識のもと捜査が進んでいく事となる。




 十一月も半ばを過ぎた頃、飛鳥と靖久は久しぶりに長崎倶楽部に来ていた。靖久の話し合いも家庭と仕事の両面で、ほぼ解決する事が出来た為息抜きに来たのである。飛鳥は係長となり、益々職場での信頼と憧れを独占していた。会社自体が世間の注目を浴び、首脳陣の世代交代と血の入れ替えが社員にやる気を起こさせていた。そんな職場での噂話しを、飛鳥が靖久に話し出した。

『これも、恵美ちゃん情報なんだけどね。逮捕された森高さん、なんか出て来ているんだって。恵美ちゃんがよく行くスーパーに、買い物に来ているところを見たって言ってたんだけどさ。そんな事って、あり得るのかな?』

『あ〜、保釈されたんじゃないのかな。よくあんじゃん、裁判中なんだけど出て来ている人って。保釈が認められたんだよ。』

飛鳥が、口を尖らせながら言う。

『でもね恵美ちゃんの話、森高さんテロリストの仲間だったって話なんだよなぁ。そんな人、街中に出しちゃダメでしょ。』

靖久は、微笑みながら返す。

『その恵美って、どんだけ情報通なんだよ。全く・・・・・。まあ森高って人がどういう事をやっていたのかは、これからの裁判で判っていく事なんだろうけどさ。裁判所判断で、森高さんが逃げる事はないって判断したんじゃないのかな。保釈補償金が、いくらなのかは判らないけどね。』

『え〜森高さん、まだお金持っていたんだ。それにどんな人でも、お金払えば出て来れるって可笑しくない?』

『まあねぇ、可笑しくないかって言われたら可笑しいんだけどさ。カルロス・ゴーンが十五億円、昔の許永中が六億円って言ったかな。大金を出してうえで、逃げた人は結構いるもんなぁ。法律とかにしても、現実問題可笑しな事ばかりだしね。でも、テロリストの仲間っていうのは何?』

『えへへへ、よくは分かんないけどそう言っていたの。なんでも、その組織の為にお金を作っていたんだって。副社長を騙して、会社のお金を使って投資する様に仕向けていたんだって言ってた。だから、相当な重い罪になるって言ってたんだもん。』

『言ってたんだもんって、飛鳥ちゃんそういう時って凄く子供っぽくなるよねぇ。』

『んふふ〜、そこが良いんでしょっ?』

『はぁ〜い、これからもよろしくお願いしま〜す。』

『まぁ、いいでしょう。ところでヤス君さ、今年いっぱいで辞めちゃうんだったら、来年からはどうすんの?』

『実は、・・・・・まだ何にも決まってないんだよね。兎に角、陣内君に引き継ぐ事に集中していたんでね。申し訳ないんだけど、まだ何にも決めてないんだ。』

『いいよ、先ずは去り際をきちんとしたいんでしょ?そんな事は、もう判っていますよぉ〜だ。そういうところは、ヤス君頑固だよねぇ〜。』

「立つ鳥跡を濁さず」・・・・、飛鳥と靖久の新たな生活がここから始まる。




 南州製薬に森高保釈の噂が広がる十日前、森高融は保釈申請が認められて保釈されていた。保釈補償金三百万円は弁護士に頼んで、都市銀行の貸金庫の中にあった現金から支払われた。行動制限がされている為、毎日の日課は軽いジョギングをする程度だ。後は概ね、部屋に籠っての読書となっていた。そんな退屈な毎日の中、森高は得意の料理をして気を紛らわせていた。いろんな料理を、石川睦に味わってもらった事を思い出しながら。二日に一度は、石川とよく行ったショッピングセンターに買い物に行っていた。飛鳥の部下である、相沢恵美もよく通うあの・・ショッピングセンターにである。その日も森高は、食品と生活必需品の買い足しに出ていた。そのショッピングセンターからの帰り道、森高は後ろから声をかけられる事になる。

『ちょっとすみません!南州製薬にいた、森高融さんですよね。』

聞こえない振りをして、森高はやり過ごそうとした。しかし広めの通りから路地に入った所だったので、後方を塞がれているうえに両脇は建物で逃げ場がない。そして前方には信じたくない事に、黒いワンボックスカーが止まって待ち受けている様に見える。森高は白々しく、右側のマンションに入って誤魔化そうとした。だがエントランスに入ろうとした時に、見知らぬ男に肩を叩かれもう一度声をかけられる。

『ここは、貴方のマンションではないでしょう?森高さん、貴方と話がしたいという方がお待ちです。一緒に来ていただきますか?』

そう言われると、森高は前方を塞いでいた黒いワンボックスカーに押し込まれた。白昼堂々ではあるが、街中の死角で防犯カメラの無い場所をピンポイントで押さえた犯行・・であった。車は暫く都内を走った後、空港近くの工場跡地に止まる。サイドドアが開かれて、森高はまるでぬいぐるみの様に引きずり降ろされた。

建物内に入ると意外や意外、リビングダイニングキッチンにバスルーム。そして、驚く事にベットルームまでもがある。まるでモデルルームかと思う程、全てが綺麗に作られていた。森高は工場跡地に連れて来られた筈が、どういう事だと目を疑った。

『こっこれは?何処なんだ?貴方達は、一体誰なんだ?』

男達は何も言わずに、ただ々淡々と森高をダイニングチェアに座らせる。森高が呆気に取られていると、背後からドスの効いた男の声がした。

『随分と久しぶりじゃぁねぇか。なぁ、森高。』

振り返った森高は、目を見開きながら返事した。

『きっ・・・君だったのか。驚かせないで下さいよ。本匠君。』

本匠が森高の対面に座ると、睨み付けながらゆっくりと話し出した。

『もうアンタと会わなくなってから、どれ位になるのかな?』

森高は、戸惑いながら声を震わせて応える。

『じゅっ・・・・十年くらいになるんじゃんないですかね。』

『そう、十年。この十年で、色々変わったな。アンタ、知らないうちにテロリストになってたんだって?ははははっ、大した変わり様だ。公安から、事情聴取されているって聞いた時には流石に笑ったな。』

少しほぐれた様に、森高も薄笑みを浮かべて返す。

『それは、私にとっても青天の霹靂でしてね。まあ、これから裁判でハッキリさせますがねぇ。訳の分からない、「VXガス」なんて言われましてもねぇ。』

本匠と話して、心なしか粘着質のある本来の森高に戻っているように見える。そんな森高から、視線を逸らさずに本匠が続ける。

『会社も解雇されて、今じゃプータローって事か。エリートさんだったアンタにしてみりゃ、五十過ぎてこんな事になるなんて計算外の事態だろ。しかも係争中ときたもんだ、最悪の事態だろ?』

『まあ、そうですねぇ。先ずは謂れのない罪での告訴を、棄却していただかないとなりませんからねぇ。』

森高がそう言うと、服部がダイニングテーブルにワイングラスを持って来た。その後ワインを持って来て、栓を抜くと同時に本匠が言った。

『シュタインベルガーの、1997年だったっけ。良い香りがするんだろう?』

少し驚いた顔をして、本匠を見ながら森高が言う。

『ほう、貴方にもこのワインの良さが解るとは。意外ですねぇ。』

ワイングラスに注がれたシュタインベルガーを、森高は目を閉じて口に含んだ。

『ほら、つまみもあるから食えよ。』

テーブルには、生牡蠣やサーモンが並べられた。

『あらあら、これは有り難い。自宅のワインセーラーを壊されたままなんで久しぶりなんですよ。しかも、私の好みを押さえたもてなしとは格別です。』

『まあ、出所って訳じゃないが一応祝い酒だ。遠慮なくやってくれよ。』

『それでは、遠慮なく。』

本匠が煙草を咥えて、素早く服部が火を着ける。そして大きく吸い込んで、森高に吹きかけた。

『ちょっと、やめて下さいよ。貴方は、昔っから私にそういう事をしますよねぇ。そうそう、陣内君もそんな人でした。彼も、元気にしているんですか?』

『ああ、敬は元気にしているよ。来年からは、社長になるんだとさ。アンタも知っているだろう?瞳ちゃんの所の、浮気調査をやっていたくらいだからな。』

『ほう、彼が社長にねぇ。と言うことは、離婚はうまく行ったんですね?それは良かった、そして、弟の陣内君が社長ですか。なるほど、・・・・・うんうん。』

そう言いながら、森高は生牡蠣のジュレを口に含んだ。そして牡蠣の殻を皿に置き、少し指先を気にしながらおしぼりで手を拭く。本匠はそれを見ながら、冷めた視線で話しを続ける。

『あの頃の面子は、皆んな元気だよ。皆んな・・・・・、睦以外はな!随分な事、してくれてたみてぇじゃねぇか。』

森高は頭を抑えて、本匠を見ている。本匠は、・・・・構わずに続ける。

『睦は後ろから右脇腹、そして前から腹部を二箇所刺された。アイツのマンションのエントランスは、信じられないくらいの血の海だったそうだ。それはアンタも知っているだろう?松田検事に、写真を見せてもらっただろうからな。』

森高はふらつきながら席を立ち、倒れ込んで腹部を押さえている。

『アンタ、小便漏らしながら泣いたそうだな。でも睦の苦しみは、そんなもんじゃなかっただろうよ。それはそうと森高、テトロドトキシンって知ってっか?まぁ、知らねぇだろうけどな。俺も、この前まで知らなかったもんな。』

森高は、嘔吐をして息が出来ない様だ。

『テトロドトキシンってのは、青酸カリの千倍って言われてる猛毒だそうだ。どうした森高、苦しいだろう?』

森高が、もがきながらのたうち回る。

『無味無臭で今まで食ってたつまみには、テトロドトキシンが入っていたんだよ。どんな感じだ、美味かっただろ?大好きな白ワインと、一緒によく味わえたか?息出来なくなって、苦しいだろ?睦の何万分の一かは知らねぇがよ、たっぷり味わってもらわねぇとな。睦も、気が済まねぇだろうからよ。たっぷり踠けもがよ、そんでもっと苦しめ。今まではお前は安全なところで、絶対にテメェの身は危険に晒さなかったんだからな。今日ここで、精算するって事だよ。』

苦しむ森高を見下ろしながら、本匠はタバコの煙を吹きかけながら続ける。

『睦が世話になった分は、精算してもらうぞ。たっぷりと苦しんで逝けよ!アンタは知らねぇだろうが、今日は・・・・睦の月命日だしな。』

そして本匠は、森高が息を引き取るのを確認して立ち去るのだった。

『少しは、気が済んだか?・・・・・睦よぉ・・・・・。』

石川睦が息を引き取ってから、四ヶ月が経った日の事であった。




 師走になり、街のイルミネーションが華やかになりだした頃。陣内への引き継ぎも大方終わり、靖久と加藤は昼食に定番の天ざる蕎麦を摂っていた。

『どうですか加藤さん、腰には響きませんか?』

心配そうに話し掛ける靖久を見て、加藤は嬉しくなった。

『本当に社長は、・・・・・強くなられましたなぁ。』

靖久は、驚きながら加藤を見た。

『・・・・・えっ?』

『いえいえ、何でもありません。・・・・それはそうと、瞳ちゃんと折り合いは付きそうですか?』

靖久は、頷きながら応えた。

『はい。慰謝料と養育費、そして共有財産を七対三で瞳に持って行ってもらいます。浮気した男が、貰い過ぎるのもなんなんで。』

『おおっと、そうでしたなぁ。』

加藤は、微笑みながら返した。

『そして、もちろん親権は瞳です。それと、・・・・予定通りに私は今月で退職となります。』

加藤は、静かに口を開いた。

『そうですか。私が帰って来たと思ったら、陣内君への引き継ぎを二人でバタバタとやって。一息吐けると思ったら、社長は出ていかれるんですね。』

『はい、そうなってしまいましたね。本当に、御迷惑ばかりおかけしまして申し訳ありませんでした。』

『それで、・・・・次はお決まりですか?』

靖久は、首を横に振った。暫し、・・・・蕎麦を啜るだけの時間が過ぎていく。そして加藤が、靖久を頷きながら見て言った。

『・・・・・社長、薩丸運輸の会長とよくラウンドしてたでしょ。』

加藤はエアーで、ゴルフのスイングをしながら言った。

『薩丸・・・・、ええ・・・・・まぁ。』

少し戸惑って応える靖久に、加藤は照れ臭そうに話した。

『実は、差し出がましいと思ったのですが、薩丸運輸の会長に事情を説明して話を通しています。もちろん、・・・瞳ちゃんの事などは話していませんがね。そういう訳でどうですか?』

靖久は、キョトンとして聞き返した。

『・・・・・ん?・・・・・っと言いますと?』

加藤は、靖久を見上げながら言った。

『薩丸運輸は、息子さんが社長職に就きましたがまだ二十代です。副社長として、若社長を支えてもらえないかと言ってくれています。・・・・如何ですか?もしよろしければ、夕食の席をもうけますが。』

靖久は驚きながら、そして感謝を込めて応えた。

『加藤さん、何から何まですみません。是非、お願いします。』

加藤は、和かに頷いた。

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