第11話 裸になるのはおかしいです
地下室に続く白い階段を下りていると、目の前に木のドアが見えた。
ドアノブを握った保坂さんは不意にこちらに振り向く。
「ここで待ってて。準備してくる」
「わかりました」
準備?
一体何を準備するのかわからなかったけど、効率的な絵の練習方法に必要なことなのだろう。
俺は保坂さんが戻って来るまでドアの前で待ち続けた。
しばらくしてドアの向こう側からコンコンコンと保坂さんがドアを叩いた。
これはもう入っても言いということだろうか。
一応確認してみる。
「入りますよ」
ドア越しにそう声をかけると、保坂さんの声が返ってくる。
『良いよ』
「では、入りますね」
銀色のドアノブは少し冷たかった。
でも俺の手は少し汗ばんで体温が上がっていた。
この奥は保坂さんの部屋。つまり、女子の部屋。女の子の部屋。
今まで一度も足を踏み入れたことのない領域がこの先にある。
女子トイレに入る時よりも胸の鼓動はドキドキと高鳴っていた。
そして、ドアノブを捻り、ゆっくりとドアを開ける。
一秒くらいだったか。
開けたドアをすぐに閉めたのは。
だけど、たった一秒なのに、ドアを開けた時に見えた保坂さんの格好が目に焼き付いて離れない。
ドアの向こう側からドアノブをガチャガチャと捻って開けようとする保坂さん。でも俺が反対側からドアを引っ張っているので開かない。
『翔、どうして閉める?』
「どうしてって……自分の胸に手を当てて考えてみてくださいっ」
『…………どうして閉める?』
本当に胸に手を当てたのか数秒ほど静かになった後、再び同じ問いが返ってきた。
「どうして閉めるのかわかっていないようなので言いましょう。それは、あなたが裸ですから!」
ドアを開けた時に待っていたのは、文字通り一糸纏わぬ姿の保坂さんだった。
見た瞬間、反射的にドアを閉めた。それでも、一瞬見てしまったあの姿が脳裏に焼き付いて離れない。
準備というのは、服を脱ぐことだったみたいだ。
「服を着てください!」
効率的な絵の練習方法と何も関係ないように思える。でも、保坂さんが意味のないことをするはずないし……。
とりあえずあの姿のままだと俺が中に入れない。何とかして服を着てもらうしかない。
「服着ましたか?」
『着るの?』
「当然です! というか何で服脱いでるんですか!」
『絵、上手くなりたくないの?』
「なりたいです! でも、保坂さんが服を脱ぐ理由がよくわからなくて。とりあえず服を着てください。じゃないと入れません」
『わかった』
ドアの向こうからかすかにゴソゴソと物音が聞こえる。
それからしばらくして、保坂さんから声が掛かる。
『いいよ』
その合図を受けて、恐る恐るとドアを開けてみる。もしかしたら服を着ていない可能性もあったので、開いた隙間から中を覗いて確認。
するとそこには、ちゃんと制服を着た保坂さんがボーッとした様子で立っていた。
「はぁ……」
思わず安堵のため息が漏れる。
相変わらず保坂さんは突飛なことをする。今度からは要注意しておかないと。
「それにしても、意外とアレなんですね。その、何もないというか、片付いてますね」
十畳ほどの部屋にあるのは、机とその上にある大きなモニターの付いたデスクトップパソコンとその周辺機器。あとは座りご心地が抜群だとゲーム実況者の間で人気な椅子だけ。
俺が勝手ながら想像していたのは、絵の具が散らかっていて、あちこちに絵が飾られていて、床とか机に絵の具の液が散っているような、いわゆるアトリエっぽい部屋を想像していた。
でも、実際は絵の具なんてないし、絵もないし、アトリエっぽさはどこにもない。
あるのは、机、椅子、デスクトップパソコンくらい。
「前は散らかってた。今はアレで描いてるから汚れることがなくなった」
アレ、と言って保坂さんが指差したのはデスクトップパソコンだった。
「でも、目が疲れやすいのが欠点」
「だからよく寝てるんですね」
実際に見たわけではないが、保坂さんの噂を徳永さん経由で聞くことがある。徳永さんから、授業中はほとんど寝ているというのを聞いたことがある。
今日も屋上で寝ていたし、おんぶしている時もそうだった。
それで成績上位をキープできているのが凄いことなんだけど。
俺なんて必死になって勉強しても中の下くらい。暗記科目は得意なんだけど、計算とか応用が必要なのはあんまり得意じゃない。
「それは関係ないと思う。いつも眠たい」
「あんまり眠れてないんじゃないですか。眠りが浅いとか」
「うん、かもしれない。それより、効率的な練習方法教えてあげる」
「あの、服は脱がないでくださいね」
「え……」
「え、じゃないですから。というか全裸になるのと効率的な練習方法と何の関係があるんですか」
俺には全く関係ないように思える。いくら考えてもその二つがイコールになることはなかった。
「翔は絵を描く時、よく迷ってる」
「そうですね」
いつも描き始めの初動が遅いのは、頭から描くべきか、手の位置を決めてそこから腕を伸ばして描いた方がバランスが良いのでは、とか色々と頭の中で試行錯誤しているからだ。
「どこから描こうかとか、どうやったらこの形になるんだろうとかよく迷いながら描いてます」
「それが翔がいつまで経っても絵が上達しない理由」
「え、ダメなんですか」
「うん」
保坂さんは頷いた後、続ける。
「ある程度体の構造を理解している人が迷うのはグッド。理解している人はそもそも迷わないと思うけど。暗闇の中で懐中電灯を持ってる状態。でも、何もわからない人が迷うのはバッド。暗闇の中で手ぶらでうろうろしているだけ。いつまで経っても出られない」
手ぶらで暗闇の中をうろうろしているのか俺は。確かに、体の構造は知っているようで知らない。
「構造を理解していれば絵が上手くなるということなんですね」
「プログラム一ってところ。翔にはまだまだ足りないところが多い」
「ですよね……」
自分でもわかっている。
絵を描くための知識が圧倒的に少ないことを。
決して調べていないわけではない。
アタリの取り方。
線画の描き方。
輪郭の描き方。
手の描き方。
など色々と調べた。
調べただけじゃなく、ちゃんと実践もした。結果は散々だったけど。
調べ尽くして、俺が辿り着いたのは、ひたすら描き続けるということだった。
描き続ければ、いつか絵が上達するだろうと信じてひたすら描いていた。
「翔はよくデッサン人形使ってるけど、形から入るタイプ?」
「いや、あれは好きな絵師さんの影響ですね。その人がこれ便利ですって紹介してたから買ってみたんです」
かなりリアルな、けっこう出来の良いデッサン人形だったので、一万円くらいした。
「もしかしてデッサン人形ってあんまり使わない方がいいんですか?」
「今の翔には手に負えない代物。むしろ使わない方がいい」
「マジですか……でも確かに、あれを使って何か得られたかと言われたら怪しいです」
「翔に今必要なのは」
そう言って保坂さんは自身の胸に手を当てた。
「私の体」
「ま、まさか保坂さんがデッサン人形の代わりになるとかじゃないですよね」
「そのまさか」
「いやいやいや、さすがにそれは……」
だから裸になっていたのか。
俺に体の構造を理解してもらうために、自分が人形になったのだ。
でもそんなことすんなりと受け入れることはできない。というか受け入れてはいけない気がする。
けど、保坂さんは勝手に進めていく。
「第一プログラムは、翔が体の構造を理解すること」
「っ! ちょっと何でまた脱ぎ始めてるんですか!」
スカートのチャックを下ろす保坂さんの手を俺は慌てて掴んで止めた。
「私の体では不満? もっと大きい方がいい?」
寂しそうに胸に視線を落とす保坂さん。
彼女の胸はお世辞にも大きいとは言えない。ほんの少し、目を凝らせばわかるほどの膨らみがあるだけ。
「そういうわけではないです。ちゃんと考えてください。俺は男ですよ。保坂さんと付き合ってるわけでもない、ただの同級生なんです。そんな人の前で裸になるのはおかしいです!」
「なら付き合えば問題ない」
「大ありです。そんな簡単に決めちゃいけません。そう言うのはもっと真剣に、時間をかけて考えるべきです」
「翔は絵が上手くなりたくないの?」
「う……」
そんなこと、絵が上手くなりたいに決まっている。でも、保坂さんが裸になるのを見過ごすことはできない。
「も、もっと他の方法はないんですか」
「うーん……あ、今思いついた。ちょっと待ってて」
保坂さんはスカートのチャックを上げると、ゆっくりとした足取りで部屋を出て行った。
「はぁ……」
疲れた。
この疲れはきっと気疲れだろう。
「裸になろうとするなんて……」
もうちょっと考えるべきだ。
俺だって男だ。どうしても変な目で見てしまう。ただでさえ保坂さんは学校でもトップクラスに可愛い。よくわからない言動さえしなければ、学校で一番の人気者になっていたはずだ。
そんな彼女の裸を前にして、体の構造を理解するどころではなくなってしまう。
理性との戦いになってしまう。
俺は保坂さんが出て行った後の閉められたドアを見つめた。
「……嫌な予感……」
次に保坂さんが何をするのか全く予想できないけど、また裸になろうとしたら全力で止めることだけは変わらない。
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