第2作 ノイズキャンセル

 静かな暗闇の中を走る終電列車の音、窓をガタガタと揺らすほどのその音を聞いていた男はボサボサの頭を掻きむしってベッドの上でうなだれる。紙やホコリが散らかる汚い部屋の中でも一際きれいにされている机の上には、『雑音〜ノイズ〜』というタイトルの小説の原稿がいくつがおいてあった。


 東京にある出版社の叡明えいめい社に所属している家長さとしは、芸術的なボサボサの寝癖を変えず、気だるそうに本社へ赴いた。3階にある編集オフィスの奥で朝刊の新聞を読んでいた編集長の松本は入ってきた家長の顔を見ると、苦虫を噛み潰したような顔をして言う。

「あ、おい家長、いい加減その長い髪を切ったらどうだ?君の顔も相まって、余計不潔に見えるぞ。」

「はぁ...すいません...あ、これ、原稿です。一応何度か修正はしました。」そう言って家長が差し出した茶封筒を受け取ると、松本はすぐに中の原稿を取って確認した。松本はかつて大手出版社の編集部に所属しており、今はこの出版社で一番のエリート編集長になって幅を利かせている。小説を原稿に目を泳がせて何度か頭を振ると、松本は茶封筒に原稿を戻して家長に差し出した。

「もう一度、やり直しだ。」

「え...ま、また...?」呆然と立ち尽くす家長をよそに、松本は続けて言う。

「なんというか...君の小説って良く言えばすごく感情的だよ。キャラの気持ちがよく分かる。ただまぁ、感情的すぎて読んでて胃もたれするんだよね。周りの情景描写も薄いし、登場人物たちの関係もよくわからない。感情的な小説が書きたいなら、太宰治の小説を参考にしな。ほら、『メロスは激怒した。』ってさ。ハハハ。」微笑しながら松本は手に持っていた朝刊に再び目を落とした。家長は茶封筒を強く握りしめながら、静かにオフィスをあとにした。


 家長が本社の廊下をズカズカと歩いていると、向こうからメガネを掛けてカッチリとした服装の男が歩いてきた。彼は目の前の家長に気がつくと手を上げて声をかけた。

「お、聡じゃないか。久しぶりだね、今日は何をしにここに来たんだ?...まぁ、お前の顔と持ち物を見れば大体は検討つくけどさ。」家長はその男に、今までためていた松本への愚痴を一気に溢す。

「クソ!あのハゲだぬき、なんで俺の小説の良さがわかんねぇんだよ。あれでベテランとか、ホント冗談じゃないぜ。...お前はあれか、今から如月賞の選考会にでも行くのか?」

「あぁそうさ。今回はかなりの力作だからな。今回の如月賞で良い結果を出しつつ、半年後の直哉賞で大賞を取って、今度こそ文豪・秋吉学あきよしまなぶの名前を世に知らしめてやるさ。今年はお前も直哉賞の選考会に出してみろよ。」男はそう言ってニカッと笑った。秋吉は家長とほぼ同時期に叡明社に入った同期であり、家長の数少ない親友である。彼は主に『マリア探偵の白眼鏡』というシリーズミステリー小説を書き、その内容の難しさや緻密な伏線などが評価されて一度直哉賞候補に名前が上がった事があるが、その賞を逃しているのだ。


 家長は横の壁をジッと見ながら秋吉に言う。

「いいよ、賞には興味ないんだ。小説みたいなのは誰かに深く刺さる、そんなのがいい。みんなに好まれるような大衆ウケを狙ったバラエティはいずれ飽きられちゃうんだ。」

「まぁそれは一理だけどよ...まずは沢山の人に知ってもらうのが先だろ?」そう言うと家長はいつもの調子で秋吉を諭す。

「でも選考してる奴らなんてどうせ作品の本質が分かってない。お前のやつだって、俺のやつだって、結局はあいつらに...うおっ!」そう会話をしてると、一人の見知らぬ男性が曲がり角から走ってきて、立っていた家長にぶつかった。驚いた家長は湧き上がる怒気を顕にして言った。

 「びっくりした...おい、危ないだろ、避けろよ!」そう言うが、その男は落ちたペンなどの荷物をまとめ、眉間を手でつまみ前に下ろす仕草を何度かするだけで、特に何も言わずにそのまま走っていった。その態度にひどく腹を立てて何度か舌打ちをしていた家長に、秋吉は何かに気付いた様子で告げた。

「あっ!違うぞ聡、あれは手話だ。確か今の仕草は...『ごめんなさい』だったっけか?」

「は?手話?なんでわざわざ手話なんかするんだよ、普通に喋ればいいじゃないか。」眉間にシワを寄せる家長に、秋吉は続けて言った。

「知らないのか?『聾唖者ろうあしゃの文才・森浩生こうせい』だよ。ほら、つい最近新人賞を取ってこの出版社にスカウトされた新人、聞いたことないか?」そう言われ、家長はやっと今の男のことを思い出した。


 森は生まれつき耳が全く聞こえないという聴覚障害を持っていて喋ることができないのだが、彼の処女作である現代ドラマ小説『蛾のいのち』の正確な情景描写とリアリティのある文面が評価されて、ついこの前にあった新人作家賞にて最優秀賞を取り、叡明社を含めた多くの出版社が彼のことをスカウトしたらしい。あの松本が血眼になって森を必死に勧誘したという噂が流れたほどだった。

 家長は声を低くして秋吉にぼやく。

「何が文才だよ。ただ子供でも分かりやすいってだけじゃないか。そんなの、俺が認めないね。」そう言って落とした原稿入りの茶封筒を拾い上げ、そそくさと出口のある階段へと歩いていった。秋吉は一人大きくため息をついて空につぶやく。

「はぁ、同じ同僚だってのに...あいつはいつも意地っ張りなやつだな...」


 近くの上野恩賜公園に向かった家長は、自分の書いた『雑音〜ノイズ〜』の原稿をジッと眺めては頭を掻きむしり、一人で静かに苛立ちを覚えていた。

「クソ...俺の作品には何が足りないんだ?あいつに言われた事はやってみたが、もう手の施しようがないぞ。」ベンチにもたれかかって漠然と考えるが、空の遠いばかりにただ虚空であった。

 その日は土曜日だった事もあり、噴水やその周りには多くの子連れの家族やカップルで賑わっていた。水の弾ける音、人が賑わう音、木々がこすれ合う音...そんな環境音に一人で飽和していた時だった。突然誰かに肩を叩かれる感覚があった。家長が飛び上がるようにしてベンチから立ち背後を振り返ると、そこにはさっき廊下で出くわした森浩生の姿があったのだ。


 「お...何だ、お前か。びっくりさせんなよ...ったく...」そう言っていると、森は手元にあったタブレット端末を操作して、その画面を家長に見せる。

『さっきはごめんなさい。もしよかったら、僕とお話しませんか?』その手には白いホワイトボードとペンがセットで抱えられていた。今までに筆談をした経験がない家長は動揺したが、森の誠実な答えかけに押されるように会釈をし、そのボードを手に取った。


 ベンチに並んで座った後、森がすぐに文字を打って家長に見せる。

『あなたのお名前は?』家長もペンを走らせて森に見せる。『家長聡 26歳の小説家です』それを見た森は驚いたような表情を浮かべつつ、次の文字を打っていった。

『先輩ですね!家長さんって呼んでもいいですか?』それを見た家長はクスっと笑って、静かに頷いた。賑わう昼時の公園で繰り広げられた、静かに進んでいくこの筆談と、森のやや幼稚な反応にいささかの恥ずかしさを感じていたからである。

「おいおい、こいつが本当に新人賞を取った文才なのかよ...本当に呆れた。」ボソボソと呟く家長に、森は続けて文字を打って聞いてくる。

『家長さんは、どんな小説を書くんですか?』それに対し家長は、思いついたかのように持っていた茶封筒の中の原稿を森に渡した。森は目を輝かせてその原稿を手に取り、まじまじと読み始めた。


 「ふっ...どうせお前には分からない作品だ。せいぜい見て、本当の社会ってやつを知るんだな。」家長はそう言いつつも、なぜか体をソワソワさせながら森の事を静かに見ていた。ある程度読み終えた森は興奮した様子で文字を打ち込み、それを家長に見せた。

『凄いです!僕には分からない、沢山の感情が明確に表現されてて、感心しました!』それを見た家長はかすかに笑みをこぼしつつ、ボードに書き込む。

『ありがとう、読んでくれて嬉しいよ』

 家長は少し考えて、ボードに質問を殴り書いていく。

『森くんの『蛾の生』は、どういう意図があるの?』それを見ると森は素早く文字を打っていき、内容を家長に見せた。

『蛾っていうのは蝶と違って美しくない事が多い。それに夜行性が多いんです。だから夜の街の人を蛾に見立てて、登場人物はどんな価値や意義が生まれるの?というのがテーマです。でも、僕自身まだ分からない表現があって、どうしても幼稚になってしまいます。その点で言えば、家長さんのほうが上手に書けるのでしょう。』

 

 すると森は、さっきまでとは毛色の違う事を聞いてきた。

『家長さんの夢はなんですか?』あまりに突拍子もない質問だったので家長は困惑舌が、冷静に考えてボードに答えた。

『小説家。もう叶ってるけど、まだ売れてないから頑張ってる。いつか有名になってやるんだ。』それを書いた家長は、思い出したように一人で語りだす。

「俺、小さいガキの頃から小説家になるのが夢だったんだ。子供の頃はみんな野球選手とかアイドルとか、パイロットとか、色んな夢を語っててよ。それは大層ご立派な夢だったさ。でも歳を取るにつれて現実を知っていき、そういった夢を忘れ、諦め始める。挙句の果てにはまだ夢を追うやつを馬鹿にして来やがるんだ。それが何よりの苦痛だった。お前には聞こえないから分からないだろうな...世の中ってのは、雑音と罵詈雑言にまみれてる。お前みたいに聞こえないほうが幸せなんだよ。」それは森への侮蔑ではあるが、それ以上に自分の今までの悩みを打ち明けるようでもあった。


 森は家長の顔を見て、少し申し訳無さそうにしていた。家長はハッと我に戻り、ボードにペンを走らせて森に見せた。

『森くんの夢は何?』すると森は少し俯き、ゆっくりとタブレットに文字を打ち込んでいく。

『僕の耳が聞こえるようになる事。皆の声が聞こえたら、僕はとても幸せだよ。』すると森の手がプルプルと小刻みに震え始めた。歯を食いしばりながら、突然涙ぐみ始めたのだ。唖然としている家長をよそに、森はブレる指を抑えながらも続けて文字を打っていく。

『お願い聞いてほしい。僕は耳が聞こえない。でもそれ以上に話してる皆の気持ちがわからない。ただ白いボードに書き込まれていく黒の文字だけじゃあその人の考えている事なんて何も分からない。風も水も生き物も、みんな音に感情が乗ってるんだ。家長さんには分からないでしょ?僕の事を好いてくれている人の「愛してる」が聞こえないこの気持ちが。離された無音の中に置き去りにされる気持ちが。』


 整頓されていない心の文字を羅列し打ち終えて気持ちが落ち着いたのか、何度か肩を揺らして深呼吸をした森はゆっくりと文字を続ける。

『だから、僕は小説を書いてるんです。自分が見て、考えて、そして想像するありのままの景色を知ってもらうために。そして誰かに、僕の気持ちを知ってもらうためにです。』家長は気付いた。森浩生というこの男は、自分が考えていたよりもずっと多くの現実に打ちのめされていた。それは耳が聞こえない状態でなければ分からない、「孤独の悩み」であったのだ。家長は何も言わず、ただ微笑みかけるように優しく森の肩に手を添えた。噴水の音が周囲の雑音をかき消し、周囲の音から二人は遮断された。


 気づけば時間は16時を過ぎていた。筆談が普通の会話に比べてどうしても遅くなってしまうからだろう。しかし二人にはそんなのに気づく余白はその時にはなかった。時計を見た家長は森に指を指して教える。森もそれに気づき、焦ったように文字を打って家長に見せる。

『こんなに長い時間僕と話してくれてありがとうございました!今すごく気分がいいです。』荷物をまとめた森は、笑顔で家長に会釈をして歩いていった。家長は自分の手にある原稿を見て、そして呟く。

「『ありのままの景色を知ってもらうために』か。ハハッ...俺の目は、盲目だったのかもしれないな。」黄色くなってきた空を見上げて顔を手で覆う。眩しい西日の光が、家長には淡く煌めき、ひどくボヤケて見えた。


 それから時間が立ち、公園のイチョウの葉が生えては色付いてきた頃の事。直哉賞の贈呈式の壇上には森と家長、下の関係者席には松本と秋吉が座っていた。会場にいた記者が質問を投げかける。

「今回の作品、『ノイズキャンセル』は森さんと家長さんの二人で共同制作された作品で二人での入賞となっていますが、なぜこのようにされたのでしょうか?」するとそれを聞いた家長は手話をして森に伝え、森が膝においてあるタブレット端末に文字を打ち込んでいった。

『この作品は家長さんに誘われて作り始めた物になります。耳が聞こえない人の気持ちや感覚など、その当人になってみないと分からないところを詳しく教えてほしいとお願いされました。』すると続けて別の記者が質問をしてきた。

「この作品は主人公の介護士の、森さんと同じ障害を持つ人との関わりを綴った内容ですが、なぜそのようなコンセプトの内容にしたんですか?」すると家長はマイクを持って冷静に話す。

「障害を持つ人の人生をもっとよく知ってほしいからです。僕や皆さんに悩みがあるように、森さんやそういう障害を持つ人にはそれなりの苦悩があるんです。その心の苦しみを、その背景を僕らは色々な言葉で表現しました。」


 すると家長は席を立って、会場にいる関係者や記者に向かって話を続ける。

「それで僕は、その苦しみで心を病んでいる読者に気づいてほしいのです。あらゆる苦悩、雑音に頭を抱えている人にわかってほしいのです。その苦悩や雑音は、いわば見えない『障害』。ですがそれは耳が聞こえない、喋れないといった物とは違って自力で治すことが出来ます。どうかこの小説を機に乗り越えて、幸せな日々を送れるようにと思っています。」そう言って深々と頭を下げた。周囲からの眩いフラッシュ、そして押し寄せる拍手の音。家長は後ろを振り返り、座ってる森に向かって、笑顔で『ありがとう』の手話をした。


 


 




 

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短編小説集「色」 川野 毬藻 @kawano_marimo

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