短編小説集「色」
川野 毬藻
第1作 某日、少年、線路を跨ぐ
「只今悪天候の影響により、高之原線で遅延が発生しております。
...今から二年前、僕は少しの違いですべてを失った。中学校三年生のある時、自分には周りの人とは違う感情があることにふと気が付いた。好意だ。周りは同級生の異性に興味が向くようだが、僕はなぜかそれが男子に向いていた。世間的には異性を好きになることが「普通」、「常識」だったが、僕にとってはそれが全く違和感でしかなかった。誰にも僕の感情を分かってもらえていない感覚に、僕は微かな不安と焦りを感じていた。
思い悩んだ末に僕は覚悟を決め、放課後に一番親しかった友達にそれを打ち明けた。その時の彼の顔を、今でも鮮明によく覚えている。唖然とする表情の奥にあった軽蔑の、そして醜いものを見るようなその眼差しは、当時の僕の心を抉る最初の見えない凶器だった。その後彼は、僕から必死に逃げるように帰ってしまった。まるで言葉の通じない「異常者」から逃げるように。
その日以降、僕の人生は地獄の日々だ。次の日、今まで仲の良かった男友達の一人が僕の肩を叩いて唐突に言った。
「なぁ、お前男が好きなのか?...ぷふ、おいおいまじかよ!本物のオカマじゃねぇか!おい皆、こいつオカマだぜ!!」それを聞いた周りの人が、一斉に僕に黒い目線を向ける。僕はしどろもどろになって冷や汗をかく。
「いや、オカマって…ぼ、僕はただ...男性が好きってだけで...」言い返そうと僕の肩に乗った手を握るが、その手をそいつは必死に振り払う。そして含んだ笑いをこぼしながら周りに仰ぐ。
「うわ、やめろよ!お前みたいなオカマと付き合うなんて俺はゴメンだぜ?なぁ皆!」周りの皆はその現場を見て蔑むように笑った。中には大声で、中には隠れて小さく。
...今まで僕は違和感を感じながらも皆と同じように生きてきたのに、その思いすら分かってもらえない現実とそんな自分を認めない周りの人達への悲しさに、僕は静かに歯を食いしばっていた。
ただ、それ以上に僕を傷つけたのは大人の反応だった。
家族で食卓を囲んでいる時、ふとテレビを見ていると父の口からこんな話題が出た。
「最近、同性婚ってのがよく言われてるよな。」それを聞いた母はサラダを食べながら静かに頷いていた。
「ホントね。...そういえば、私の職場の人が昔そういう『同性愛者』の人と関わりがあったことがあったんだって言ってたわ。」それを聞いた父が缶ビールを一口飲んだあとに言った。
「そうなのか。いや〜、でも正直同性愛とか心の性とかわからないよな。だって本人じゃなきゃ分からないし、心の性が違うからどうのこうのって言い始めたらもうキリがないよな。」
「そうよね〜...本当、怖いわ~。」僕はそれで、持っていたお茶碗をテーブルの上に置いた。
「ん?どうした昇喜。今日はお前の好きなハンバーグじゃないか?」
「いや...ちょっと今日はお腹一杯かも...ごちそうさま」そう言ってすぐに食器を片付け、僕はそそくさと自分の部屋に行った。
「何なんだよ…何もおかしくないのに…」
暗い部屋のベッドに飛び込み、僕は枕に顔を埋めた。目から大粒の涙を流しながら、僕は静かに泣いていた。自分は社会の大人達に、しかも親にまで存在を認めてもらえない。悔しさで息苦しさを覚えたのはそれが初めてだった。
学校でもそれはあった。中学校のいじめが発覚し、急遽先生を交えた話し合いをいじめをしていた生徒数人としていた時だ。
「お前ら、何でいじめなんてするんだ!昇喜君が何か君等に悪いことでもしたのか!?」そう言うと、ある生徒が先生に答える。
「だって、昇喜君が男の事が好きって言ってるんだもん。そんなの、私達からすればただ気持ち悪いだけじゃん。」それに、先生はこう言った。
「...確かに「普通」に考えればそうかも知れないが、それが彼の好みなんだ。いちいち気にしてやるなよ。クラスメイトならもっと互いに協力して助け合いなさい。」
『「普通」なら』というその言葉。その「彼は普通ではない。でも彼を信じてやれ、助けてやれ。」という無責任なその発言は、無意識の内だが静かに僕の首をきつくゆっくりと締め上げていった
高校にあがっても、過去の傷はそう簡単には消えない。中学校のときほど直接的ではなくなったが、言葉伝いに広まった僕の噂は、一瞬で僕を完璧な「異常者」、「変態」に仕立てる。僕が知らない人にまでそれは広がり、もう気付いたときには手も足も出ない状況で一人孤独になっていた。誰に話しかけても返ってくるのは無関心の目と沈黙のみ。いつしか今まで感じていた息苦しさは、いつもの日常になっていた。
僕はそこから今までずっと、一人で何が原因だったのかを考えるようになった。
「...あの時、あの友達にカミングアウトしなければ良かったのか?いや、そもそも僕が男を好きになっているからおかしいのか?…そんなの、どうしようもないじゃないか。僕だって、好んでこの気持ちを得たかったわけじゃない。僕だって、皆が異性を好きになるその気持ちを知りたい。...神様、何で僕にここまでの試練を与えるんだ?僕には過酷すぎるよ...もう...終わりにしたいんだ...」
明らかに自分がおかしくなっていっているのは分かっていた。でも、そうでもしていないとどうにかなってしまそうだった。自分を信じれない、好きになれない、もう楽になりたい...錯綜し混沌としている深い感情に、僕は完全に溺れてしまっていたのだ。
遅延していた目的の通過電車がそろそろやってきそうだ。僕はホームのベンチから立って黄色いホームの縁の線まで歩く。その時、突然後ろから誰かにかすれた声で話しかけられた。
「君...電車に轢かれて死にたいのかい?」僕はその妙な感覚の声に、振り返らずに答えた。
「...うん、もういいんだ。だって僕は、誰にも、存在を認めてもらえないんだから。」するとその声は続けて、静かな声で僕に尋ねてきた。
「...向こう側に行きたいかい?」僕は一瞬黙り、そして振り向き、こう答えた。
「...うん、お願い。」
その瞬間、体はふわっと、タンポポの綿毛のように宙に浮いた。暗いトンネルからけたたましい金切り音をたてて迫ってくる眩しい光に僕は包まれる。僕はそっと瞳を閉じて静かに微笑んだ。
「ありがとう。これで向こう側に行ける」
ゴッッ...!!! 駅のホームにはやけに固く鈍い打音、そしてホーム内の客の悲鳴と非常ベルが響き渡り、向かいのホームには紐がちぎれて赤に染められた学生バックが飛んで落ちていた。
...数年後、学生や会社員で混雑する帰宅ラッシュが過ぎた頃。駅のホームから帰ってきた新人駅員の若い男性が汗で滲んだシャツをパタパタさせつつ、椅子に座って新聞を読んでいるベテランの駅員に報告していた。
「ホームの点検、終わりました。特にこれといった異常はなかったです。」そう言うと、ベテランの駅員の深いシワが斜めに傾く。
「あ〜そうか...ところで、高之原線の下り二番ホームに男子学生はいたか?」
「男子学生?いや~…あ、確か一人いましたね。ずっとニヤニヤしてたんで覚えてますけど…それがどうかしたんですか?」すると駅員は持っていた新聞を机に置き、胸ポケットから小さな記事の切り抜きを取り出して、語るように言った。
「地縛霊…いや、違うな。彼はきっと、この世の苦悩が生み出した、哀しい人だ。新人、これはこれから生きる人生観として覚えておいた方がいい。「常識」になれなかったら、例えそれが間違っていなくても「異常」になる。「異常」は、必ずしも「不正解」ではないんだ。」
向かいのホームのベンチに座っていた一人の女子学生の事を、その学生はただ静かに見て、ただ静かに嗤っていた…
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