いちごミルク⑪

「やっと帰ってきましたか」


 吉良鏡也の魂を然るべき場所へ預けて殺人処理部に戻ってくると、待ち構えていたかのようにアイがヘルを出迎えてくれた。

 かなり長い時間をかけて死神界へ戻ってきたが、想定されていた事態だったのだろう。怒ったり呆れた様子は彼からは見えなかった。


「報告書を確認しましたが、後ほど書き直してください」

「はい」


 メアリーに指摘された通り、報告書はやはり書き直しとなってしまった。またあの惨劇を記憶の底から引っ張り出さなくてはいけないのかと思うと、返事は小さくなっていった。

 手から魂が離れるまで、メアリーはヘルの側に付き添ってくれていた。訳ありで殺人処理部に異動してきた闇を知らない死神の初めての任務。見るもの全てが経験のないことのため時間はかかるし、乱れた情緒をある程度宥める必要がある。

 文句一つ言わず導いてくれたメアリーには感謝しかなかった。

 そう思える様になったのも魂を手から離して、本来の自分の感情が戻ってきてからだった。そのため、任務を終えるとすぐにいなくなってしまった彼女にはまともなお礼は言えていない。

 次に会うのはいつか。年単位で会えないのだろうが、お礼が言えたらとヘルは思った。

 基本的に他の死神に関与することのない者たちの集まりだが、メアリーだけではなく、もしかするとこうしてアイが出迎えてくれたのもヘルに対する配慮なのかもしれない。

 止まっていた頭の回転が少しずつ平常になっていく。

 殺人処理部に戻ってきて、やっと呼吸ができたような気がした。


「殺人処理部としての初任務。今ならまともに話せるでしょう? 報告をお願いします」


 ソファーに座ることを促されゆっくりと腰をかけると、アイも同じように正面に座り、ヘルと対面する形となった。


「酷い現場でした」

「我々が扱う案件に酷くないものはありません」

「はい。実際に現場に赴いて、それが分かった様な気がします」


 死んでいく人々の表情が脳裏にこびりついて離れない。

 目を閉じれば真っ暗闇で吉良鏡也が人を殺し回っている情景が浮かび、耳を塞げば『助けて』と悲痛な叫びが聞こえた。


「魂はずっと、人間を殺したい気持ちでいっぱいでした。自分自身でさえ殺す気持ちでいっぱいで……」

「君も殺したくなりましたか?」

「……はい」


 こんな感情、今まで持ったことはない。持つこともなかったはずだ。



「やめますか?」



 その言葉にパッとアイを見る。

 何を考えているのか相変わらず分からない真顔でじっとヘルを見つめる。

 ここでやめると言えば、今回のような仕事は割り振られず、すぐにでも成仏するために心穏やかな任務を割り振られるだろう。

 その方が楽かもしれないと一瞬考えそうになったところで、この仕事をする前のアイの言葉を思い出していた。


『途中でやめたくなったら言って下さい。すぐに終了となります。ただ、それをすれば君の願いは二度と叶いません』


(どんなことでもやると言ったのは自分自身じゃないか。目的を見失うな)


「やめません」


 驚くくらいはっきりと鋭い声が出た。

 魂の同調で今までヘルが感じたことのない殺意が芽生えたのは確かだ。ひどい現場で血の匂いだってすぐに思い出せる。正直誰か近くに人間がいたら殺していたかもしれないと思うほどに吉良鏡也の殺意に引き摺り込まれていた。死神界に着いて魂を預けてからここにくるまでもヘルの中の残滓に苦しめられた。手から離れた瞬間少しずつ殺人衝動は落ち着いていったが、誰かが視界に入ると手を伸ばしてしまいそうになるのを必死に抑えていた。

 だけどそれは目的を見失う理由にならない。

 絶対何があっても叶えると決めたんだ。


「帰って来れてよかったですね」


 ヘルの言葉を受けてアイはなんでもないようにさらりとそう言った。

 それ以上に何も聞いてくることはもうなかった。

 一仕事終えてホッとしたのも束の間、アイは机の上に置いてあった資料の束をヘルの方に寄せた。


「では次の仕事です」

「あの、少し」

「君が戻ってこない間に君の任務を五人の死神に割り振りました。言っている意味はわかりますね?」


 つまりは休憩している場合ではないということだ。

 精神を落ち着かせる時間さえない。


「それでは行ってらっしゃい」


 無機質な声がヘルを見送る。

 アイを見ると彼はもうソファーから立ち上がり、ヘルを見ていなかった。


 二回目以降は一人での任務だった。

 殺人、自殺、殺人、殺人。

 精神に異常をきたしている、逆上し撲殺、幻覚を見る、ただ気に食わなかった、親の仇。

 いろんな思いで人はその手を犯罪に染める。自分なりのポリシーがあって、誰に何を言われても貫きたい執念があって行動を起こす。


 慣れというものは恐ろしいで、最初はあんなに苦しんだというのに回数を重ねるごとに受け入れているヘルがいた。

 血も肉もどんな形になろうと動揺することは無くなっていた。状態を記録に残し、報告。そして速やかに次の任務に行く。それの繰り返しだった。

 魂に触れている間もその人間に同調し、同じ思いでいることにした。その方が楽だったし、変に気持ちが乱れる様なこともない。


 でも魂がこの手から離れて、自分の感情が戻ってきたあとは毎回思う。

 なんで殺すんだろう、なんで死を選ぶんだろう。

 先ほどまで同じ気持ちでいたはずなのに、理解の出来ない感情だった。

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