死の宣告⑤

「ふふふっ」

「こ、来な、いで……」


 羽虫を追い払ったと言わんばかりに満足した男が雫に向き合う。

 ジリジリと少しずつ距離を縮めてくる男に声を振るわせながら彼女は弱々しく訴えるが、その声は誰にも届かず自身の目の前でストンと呆気なく落ちていく。身の危険を感じているのに足が鉛のように重く動かない。


「大丈夫だよ。もうすぐだからねぇ」


 残り一分。秒刻みの死のカウントダウンが始まった。


「僕は綺麗なままでいて欲しいんだぁ」


 伏せ目がちな表情で彼はそう呟いた。その声は雫と記録を取るヘルにしか聞こえていない。

 男の視線が雫の左胸部分、先程コーヒーをこぼしたであろうシミに向く。


「ちゃんと落とせたんだねぇ。良かったぁ」


 残り四十秒。


 何が良かったのか、もうそれすら考える余裕は雫にはない。恐怖で歯をガチガチに言わせ、壁に背を合わせる。逃げ道がない状況が更に恐れを抱かせた。


「新しく僕が作ってあげるからねぇ」

「っ……や、だ」


 残り三十秒。


 汗なのか涙なのか、全身からとめどなく流れ出る体液に区別がつかない。息苦しさ、過呼吸も増していき、女優として堂々と振る舞うなんてことはできなかった。


 男はそれさえも嬉しく感じていた。大好きな彼女が自分にしか見せない顔を見せた。独り占めしている。人生で最高の瞬間なのではないかと錯覚し、その瞳に自分しか映ってないままに行動を起こすしかないと男は思った。


 残り十秒。


「だから……僕は!」


 あと八秒。


 爪が食い込むほどに強い力で雫の肩を掴む。彼女は掴まれた肩なんかより目の前で振り上げられる果物ナイフに目がいった。恐怖で動けない体。もう避けようにも避けきれない。


 残り四秒。


 間に合わないと誰もが思う。なりふり構わず近くに居た人たちは捕まえようと飛びかかる。


 残り三秒。


 結衣は雫たちの近くにいたヘルに向かって声を上げる。


「お願い!」


 残り二秒。


 その声にヘルは。


 残り一秒。


 何をするわけでもなく。


 ゼロ。


 雫が刺されるところを見ているだけだった。



 心臓を刺した後、周りが取り押さえようとしても必死に振り解いて、果物ナイフの剣先を白い雫の首筋へと向けた。

 何度止めても振り解き、数十回、刺して刺して刺して、必死に肉を削いでいく。 

 錨地雫の肉体は既に絶命しており、されるがままだった。

 全然ダメ、離れない。とぶつぶつと呟く男は更に首に刺し傷をつけていく。

 そんな男を数名でどうにか取り押さえ、警察や救急車が来るのを待ったのだった。

 

 その後、警察や救急車が到着し、周りは騒然とした。

 ボソボソと男が首を持って帰りたかったと話しているのも聞こえたが、概ねご満悦といった様子で、捕まったのにも関わらず不気味にずっと笑っていた。


 錨地雫を捕まえて心臓ヒトツキ。首の切断には失敗したが、最後の生を永遠に自分のものにした男は嬉しかった。

 段々と有名になっていく彼女が誰かのものになるのを避けたかった。何が彼をここまで狂わせたのか。普段なら絶対に殺すことなんて考えない好青年が殺人を成し遂げた瞬間だった。

 ヘルは錨地雫のそばまで行き、生死を確認した。まだほんのり温かさは残っているが彼女は完全に死んでいた。


 死んだのであれば死神としてやらなくてはいけないことがある。

 ヘルは彼女の死んだ肉体の前に立ち、言葉を紡ぐ。


「ジンシの名を持って、錨地雫の見送り神となる」


 魂を引き抜く、いわゆる魂狩りの任務を行なった。基本的に言葉をもって魂狩りを行う。人間が想像する鎌を持った狩りは魂を引き抜けない自殺者の場合に多く使われる。

 魂は肉体からすんなりと引き抜けた。空に向かって手をかざし、天へと誘う。

 なんの罪も犯していない彼女のことだからすぐにでも転生できるだろう。このままスムーズに任務が完了するはずだった。


『どうして……』


 引き抜かれた魂は声を発した。

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