死逢わせ
夏目莉々子
プロローグ しあわせの始まり
「お願いします」
青年は懇願した。
何度ダメと言われようと諦めるつもりはなかった。
全て置き去りにしてきたからこそ、これだけはどうしても叶えたかった。
「いい加減諦めてください」
書類仕事に勤しむ青白い男性は淡々とそう答え、青年に目も向けない。
見慣れたの光景、日課、ルーティン。お決まりの流れに、いつもならここで引き下がるのだが今日の青年は少し違った。
「いやです。絶対に諦めません」
願いを聞き入れる様子のない男性がその頭を縦に振るまで、今日はこの場から離れるつもりはなかった。
だが、どんなに訴えても男性は黙々と仕事をし続けている。
彼の手を引っ張れば強引に止めることはできる。でもそんなことをしたら余計聞き入れてもらえないし、無意味だ。
どんな言葉を並べればいいのか。どんな行動を取ればいいのか。たった一つ、願いを叶えたいだけなのに、こんなにも困難なことだとは思わなかった。
「どんなことでもします。だからお願いします」
何十回、何百回、何千回と同じ言葉を並べる。この行動に意味はあるのか。そんなのもう分からない。他に方法が思い浮かばないから何度も同じことを繰り返した。
(今日もまたダメかもしれない。いや、それでも絶対に諦めない)
弱気になる心に鞭を打ち、頭を下げて九十度に腰を折る。
頭上から『はあ……』とため息が聞こえた。
最初からなぜダメなのか教えてはくれなかった。
自ら毒を摂取する意味がわからないと、延々と拒否され続けた。
言いたいことは分かっていた。だが、どうしても諦めきれなくて毎日彼の元へ通った。
多忙な人なので部屋に居ないことが多々あるが、青年は自分の仕事の合間に訪ねては必死に説得を試みた。
しばらく頭を下げていると、音が消え、やけに静かになった。
不思議に思った青年が恐る恐る様子を伺うと、書類仕事をしていた男性は手を止め、じっとこちらを見つめていた。
光の消えた漆黒の瞳からは何を考えているのか分からない。ピシッと乱れのない真っ黒なスーツがそれをより一層際立たせていた。
いつもと変わらない言葉を言ったはずだが、いつもと少し違った反応を見せる彼に少しだけ期待を抱く。
男性はスッと音もなく椅子から立ち上がると、ゆっくりとした足取りで青年の眼前までやってくる。そしてこう言った。
「本当に? どんなことでも?」
低い声が回答を求める。双眼が真っ直ぐと青年を捉える。
『この世界でその言葉を発する意味を理解しているのか?』
『本当にどんなことでもやってのけるのか?』
口は閉ざされていても男性の声が聞こえるような気がした。
『君にその覚悟があるのか?』と。
青年は拳をグッと握りしめた。
言われずともとっくの昔から覚悟している。真剣に向き合い、言葉を発してきたし、どんなことでもやるつもりで行動を起こしてきた。
迷いなんてなかった。
「この願いが叶うならどんなことでもします」
「そう……」
男性は視線を逸らし腕を組みながら少しの間、思案した。そしてすぐさま青年の方へ視線を戻し、再び問いかける。
「例えば僕が『人を殺せ』と言ったらやるのですね?」
「それは……」
この世界で『死』というものは当たり前。空気のような存在でそれが仕事。
だからと言って誰も軽んじてはいない。特にここの住民は何かしら死に執着のある人生を送っている。
『人を殺す』という行為がどんなものなのか。それによってどんなことが起きるのか。どんな結末になるのか。想像に難くない。
だけど、それでも。
「それが仕事であれば、やります」
命令だからとやった結果、人に恨まれ蔑まされることもあるかもしれない。でも天秤にかけるまでもない。この願いが叶うのであればどんな仕事でも向き合って乗り越える道を選ぶだけだ。
決意と覚悟で視線を返すと男性はゆっくりと頷き、その視線を受け取る。
「分かりました。では、どれだけ堅忍不抜の精神なのか確かめてみましょう」
足が震えるのは緊張や恐怖からじゃない。喜びの震えだ。腹の底から込み上げてくる笑いもいよいよ動く時だと合図をしてくれている。
長い長いしあわせ始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます