幕間・外伝(不定期更新)

松山倫子(本編1話前~17話前)


 ……

 分かって、いた。

 

 耕平の気持ちは、

 もう、私に、ない。

 

 それだけのことをした。

 それだけのことを。

 

 どこで、間違えたのか。

 どうすれば、良かったのか。


 私が、悪いのか。

 

 悪い。

 

 私は、裁かれただけに過ぎない。

 耕平に。私自身に。


*


 耕平とは、保育園の頃から一緒だった。

 

 耕平と、私の両親は、おたがい、共働きだった。

 両親同士、互いに行き来するくらいの親密な関係だった。

 

 それは、耕平の父、佐藤真治さんの人柄のお陰だった。

 物腰柔らかく、思慮深く、常に一歩引いて、

 私の両親や、耕平の母である理子さんを包んでいた。

 

 私は、幼い頃から、耕平の家に預けられ、

 耕平は、私の家に預けられた。

 

 手を繋いで帰るのも、

 夕食を一緒に食べるのも、

 隣のベットで心音を聞きながら寝ることも、

 私達にとって、ごく普通のことだった。

 

 小学生の頃まで、私は、

 耕平が親戚だと信じて疑わなかったくらいに。

 

 ほころびは、

 ごく、小さなものだった。

 

 小学校3年生の時、

 「こうへいくんとりんこちゃん、

  つきあってるの?」

 

 塾で一緒だった恭子から聞かれた時、

 私は、とっさに答えられなかった。

 

 「だって、いつもいっしょにいるでしょ?」

 

 私を迎えにきた耕平の手を取りながら、

 私の頭の中に、「つきあう」という言葉が、

 意味を持たないままに渦巻いた。


 つきあう、という行為が、

 男女関係を意味するものだと気づくのには、

 性教育を受けた時、初汐に気づいた時くらいだったろうか。

 

 その時。

 耕平は、佐藤真治さんを、

 突然、喪った。

 

 脳卒中だったという。

 職場で一人で残業をしている時に倒れ、

 発見が遅れたらしい。

 

 大企業の課長まで勤めているはずの

 理子さんの取り乱し様は、凄まじかった。

 私のことも、いや、誰のことも認識できなくなるくらいに。


 耕平は、かつて母親だったものを必死に支えていた。

 いつか、振り向いてくれると信じて。

 

 理子さんは、耕平を振り向かなかった。

 いや、振り向けなかった。

 

 今になれば、ほんの少しだけ分かる。


 耕平には、

 理子さんが深く愛した真治さんの面影がある。


 それだけに、真治さんではないことに

 自分の不出来な、真治さんを救えなかった

 罪深い遺伝子が混ざっていることに気づいてしまい、

 耕平に辛くあたってしまう自分を、どうすることもできなかったのだと。


 だから、理子さんは、

 自分から耕平を棄てる決断をしたのだと。

 心から愛しているからこそ、離れざるを得なかったのだと。

 

 耕平は、

 一瞬にして、両親を喪った。

 

 そして、

 その頃の私や、私の家族は、

 耕平を癒してあげられなかった。

 

 真治さんの思慮深さは、私の両親も包んでいた。

 私の両親は、真治さんを介して会話をしていたようなものだった。

 真治さんが、私の両親それぞれの長所を引き出してくれていた。

 

 その真治さんが亡くなると、私の両親は、

 お互いの短所ばかり目につくようになった。

 離婚も、別居もしないが、夫婦間の会話は少なくなり、

 やがて、お互いに別の人と良い関係になっていった。

 

 必死で理子さんを支え、裏切られた耕平を見ていた私は、

 ある種の諦めを身に着けていた。

 大人同士の関係は、どうにもならないものだと。


 耕平は、私の家に寄り付かなくなった。

 私も、勿論、耕平の部屋に行くことは無くなった。


 小学校6年生の終わり、理子さんは職場の近くに家を借りた。

 そして、仕事に没頭し続け、

 女性では珍しい役員待遇として脚光を浴びて行った。


 耕平は、 

 あの広い部屋で、完全に一人になった。


 その、中学1年生の春。


 何の偶然だったのだろうか、

 耕平と私は、同じクラスになった。

 あの時の耕平の複雑な安堵と喜びを示した表情を、

 私は、生涯忘れることはないだろう。


 私は、友達の誘いで、硬式テニス部に入った。

 しかし、誘った友達は、練習のキツさと、

 女子部員の感じの悪さを察し、僅か2日間で辞めた。


 私も正直、辞めようと思った時に、

 

 「倫子が入っているなら、僕も入るよ。」

 

 私は、辞められなくなってしまった。

 正直、テニス部の練習量は思ったよりハードだし、

 私自身、それほどテニスに関心はなかった。

 

 しかし。

 耕平は、テニスに没頭した。

 

 耕平は、何かに縋りたかったのだろうか。

 何かから逃げたかったのだろうか。

 

 私は、耕平についていくように必死に練習を続け、

 初心者の中では上達している側に入った。

 

 しかし、女子テニス部は、

 中学生の女子ならではの嫉妬に溢れていた。

 

 中2の頃には、小学生からやっていた子を差し置いて、

 耕平は学年のエースプレイヤーになっていた。

 

 そんな耕平と、幼馴染だというだけで話をしていることを、

 許せないと思う上級生が、私を虐めるようになった。

 

 私は、それを、耕平に隠した。

 テニスに没頭している耕平に、

 余計なことを話したくなかった。


 私は、思い出すのもおぞましい虐めを受けながら、

 テニスの話しかしない耕平が夢中になって話す姿を

 眩しく感じながら、ただ、頷き続けた。

 

 虐めが激しく、執拗になると、

 私は、次第に、テニスにしか目が向いていない耕平を

 疎ましく思うようになった。

 

 どうして気づいてくれないのか。

 私のどこを見ているのか。

 私達は付き合っているんじゃなかったのか。

 

 耕平に気づけるわけがないと、分かっていた。

 私自身が必死に隠し続けているのに。

 隠し続けているなら、分かるわけがないのに。

 

 それでも、気づいて欲しかった。

 私は、耕平を、どこか、神のように思ってしまっていた。

 神ならば、天啓のように気づくのではないかと。

 真治さんのように、私を救ってくれるのではないかと。

 

 煩わせたくない。けれど、気づいて欲しい。

 そんな身勝手な想いだけが勝手に膨らんでいく。

 

 中3の春。

 遂に、私の心の中のダムは、無残に決壊した。


 「私に、近づかないで。

  貴方に傍にいられると、迷惑なの。」


 これ以上、耕平に近づかれたら、

 私が、傷つき続けるだけだから。

 耕平は、私を助けてはくれないのだから。


 夏の合宿の時。

 私は、宝塚俊永に誘われた。

 

 あのオトコに誘われた瞬間、

 女子達の私への虐めが、ぴたりと止んだ。

 

 今にして思う。

 あれは、犠牲者を悼んでいたのではないかと。

 

 しかし、私は有頂天だった。

 高校生の見目麗しい宝塚俊永が、

 私を選んだ、私の身体だけを望んだと錯覚したことは、

 私の虚しく根拠のない無意味な自尊心をむくむくと膨れ上がらせた。


 私は、宝塚俊永の言いなりになった。

 見るもの、食べるもの、着るもの、

 すべてあのオトコの好みに合わせていった。

 

 「見違えたよ、素材も素晴らしかったけれど、

  倫子の中身を引き立てるね。」


 ただの甘言。

 でも、その時の私に、一番欲しいものだった。

 私は、俊永の耳障りの良い声と、優しい手触りに溺れた。

 俊永とは、二週に一度しか逢えなかったけれど、

 彼の望む通りに美しくなっていくことが誇らしかった。

 

 しかし。

 私は、気づいてしまった。

 

 俊永には、他に女性がいる。

 それも、一人ではない。

 

 聞きたい。

 問いただしたい。

 

 そんなことをしたら、嫌われるのではないか。

 私は、棄てられるのではないか。

 

 親からも耕平からも見放された私にとって、

 私のプライドは、俊永の囁きに縋ることでしか保てなかった。

 

 私は、俊永の求めるものをすべて与えた。

 身体も、心も、モノも、カネも、すべて。

 

 一介の高校生に稼げる額など、たかが知れている。

 普通のアルバイトで得たカネで稼いだものでは、

 御揃いのものを身に着けてくれない。

 

 もっといいものを。

 もっといい姿を見せなければ、

 俊永を、私に繋ぎ留められない。

 

 私は、私自身がそうだと気づかないうちに、

 奈落の底へと堕ちて行った。

 

 処女と偽ったことは一度ではない。

 上客を奪う同じ目的の女に敵愾心を燃やしたことも一度ではない。


 心を偽り続け、初心な生娘を演じきれなくなった頃、

 破滅は、突然訪れた。

 

 私が通っていた身分不相応な美容室を、

 長身の、すらっとした筋肉質の男性が、

 幼子の頃から、私の心に棲んでいた人物が、

 目の前に現れた。

 

 佐藤、耕平。

 

 私が、一番見られたくなかった人。

 私を、一番見て欲しかった人。

 

 それ、

 なのに。

 

 耕平は、驚いた顔で私を見つめた。

 一瞬にして、分かってしまった。

 

 耕平の心が、私に、ないことを。

 爽やかな瞳は、私の姿を映さなくなったことを。

 

 その瞬間。

 私は、私自身の、人としての幸せを、

 私自らの手で、粉々に砕いていたことを知った。

 

 なにか、

 なにか、喋らないと。

 

 「……こんなところ、耕平が来るなんて。

  部活、さぼってきたの?」


 「入ってない。」


 え。


 「入らないよ、テニス部なんて。」


 信じられなかった。


 あんなに没頭していたのに。

 あんなにスパイクをすり減らして、

 日が暮れてもボールを追っていたのに。


 それよりも。

 耕平の、私を見る眼の温度の無さに。

 私の心の一番柔らかい部分を

 棘のついた鞭で激しく打たれた気がした。


 「そ、そう。」

 

 口が、カラカラに乾いていた。

 

 私が咄嗟に見上げた時、

 耕平は、私に背を向けていた。

 

 ありえないことだった。

 あってはいけないことだった。

 

 「な、なんで行っちゃうの?」 

 

 「近くにいたら、迷惑なんでしょ?」

 

 私は、

 私の放った言葉の槍の穂先に、

 心臓の真ん中を無残に刺し貫かれていた。

 

 「じゃね、倫子。

  お幸せに。」

 

 私は、咄嗟に、

 本能のままに、耕平の袖を、

 ただ、掴んでいた。

 

 私がその時、何を言ったか、

 あの後、どうなったのか。

 ただ、泣き言を言っていたような記憶しかない。

 

 耕平の手首から、

 耕平の血液が、私に流れ込んできて。

 

 どんなオトコに触られた時よりも、

 私の心を、震わせてしまって。

 

 その時。

 私は、己の深海に沈むような愚かさの重みを知った。

 私が生きてきたことのすべてを、心の底から呪った。

 

*


 テレビ画面に私の姿が映っていたと、

 知人が心配そうに告げた時、

 私は、私の短い人生のすべてが終わったことを知った。


 私は、生徒指導室に呼び出され、

 40代後半くらいの、目つきの鋭い教員から

 事情聴取を受けた。

 

 「あんなにご立派なご両親がいるのに、

  カネ目当てで悪所に行くなんて、貴方は人間じゃないわ。

  ほんと、いい迷惑よ。恥知らず。」

 

 私はほんの少し腹が立った。

 カネ目当てなんかじゃない。

 私が欲しかったのは、ただ、心だったのに。


 それをこの杓子定規のオンナに告げたところで、

 分かるわけもなかった。

 私は、大人に、人生に絶望して久しかった。


 私自身、私のことが、良く分からなくなっていた。 

 すべて、なにか、画面上の世界のように、

 遠くから、鳴っていた。

 

 私にとって、僅かな救いは、

 両親が、私のことを完全に見棄てはしなかったことだ。

 両親が、互いに付き合っていた人と切れていたことも、

 私に幸いした。

 

 両親が薦めたのは、留学だった。

 留学というよりも、片道切符のつもりで。

 

 両親が、私を厄介払いしたい心情を知りながらも、

 私に最大限妥協して差し伸べている手を、

 払う気力など、なかった。

 

 私が、惰性に流されるままに、

 海の向こうに身を沈める決断をした時。

 

 私のRINE宛に、

 私に僅かに残っていた知人の一人である恭子から、

 長大な資料が送りつけられていた。

 

 10人を超える交際相手と大まかな住所。

 会っていた場所、貢いでいた額の順位と、

 幾つかの身元を特定されにくい証拠写真。


 私は、がらんどうになった私の部屋のベットの上で、

 悔恨と絶望と温かさが混ざった涙で布団を濡らし続けた。

 

 最初から、こうしていれば。

 

 私が虐められた時に、

 両親が喧嘩をしはじめた時に。

 

 私が、耕平の前で、泣き叫べていたら。

 抱きしめて、私だけを護ってと縋れていたら。


*


 <なかなか人気だよ。>

 

 三鷹恭子。

 私との縁が完全には切れなかった数少ない子。

 

 私が一番荒れる前に転校していったことと、

 詮索せずにいてくれる恭子の性格が、この縁を残してくれた。

 これが無ければ、私が俊永の真実を知る機会は一生涯なかったろう。

 

 そして。


 <男子からめっちゃ人気

  夕空の次くらいかな>


 土浦柚ちゃんのことは、

 私にとって、朧気な記憶しかない。

 

 俊永に舞い上がっている私にとって、

 抜け殻のようになった耕平に必死に話しかけている、

 前髪で目元まで隠した暗そうな女の子のことなど、

 印象に残るわけはなかった。

 

 それが。

 

 こんなに可愛い、こんなに綺麗な眼をした、

 庇護欲を掻き立てるような娘になっているとは。


 私は、恐ろしさを感じた。

 この娘が、私にとっての俊永のように、

 耕平の輝かしい未来を、奪うことになりはしないかと。

 

 <そんなこと考えるんだ。

  なら、いっそ、話してみる?>


 私は、ほんの少しの逡巡の後、

 恭子の誘いに、乗った。

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