書き散らし

かしの あき

 烏の鳴く、淡い水彩画のような秋の夕暮れに、感傷的な思いを抱く。その空から視線を下げ、机に広げていた資料を片付けた。持ち帰った仕事は一先ずこれで終わりだ。同時並行で取り掛かっていた夕食はまだ煮込み中。暇ができたと思い横を見れば、居間の机で本を読む息子がいた。毛布を羽織り熱心に文字をなぞる姿に、なんとなく近づきたくなった母親は、側に寄って慈しむように、息子の頭を撫でた。


「んん、なんですか?」


 こちらを向いて尋ねる我が子に、母親は目を細めた。何て愛おしい。頭から顔に手を滑らせれば、桃のような頬の温度が手のひらを通して伝わり、何とも心地良い。尋ねられたことに返すのも忘れ夢中になっていると、息子がむずむずとさせる口を開けた。


「かあさま……こういったことはとても嬉しいのですが、その……手が、あまり温くないように思います。体を暖かくしてください」

「ああ、ごめんなさい。でも、暖かくしないといけないのはあなたもよ。私より、あなたが羽織ってなさい」


 息子が羽織っていた毛布を自ら脱ぐので、母親がそれを制した。しかし息子は応じなかった。


「いえ、かあさまが羽織るべきです。ぼくはもともと熱が高めですし、ほら、ぼくのよりかあさまの手の方が冷えています。かあさまが羽織ってください」

「でもねえ」

「風邪は万病のもとです、かあさま。羽織ってください。ぼくより手が温くなるまで取ったらいけませんよ」


 「それこそあなたが風邪になってはいけない」と返すも、頑なに羽織るよう言う息子に根負けし、母親は渋々毛布を受け取って羽織った。そんな母親に満足した息子は、そういえばと本のある部分、『鯨』と書かれた箇所を指差して母親に問うた。


「かあさま、これはなんと読むのですか?」

「これはくじらよ」

「くじら? あの海の守神ですか?」

「あら、守神なの?」

「榊のおじさまがそう言っていました。ぼくたちよりずっとずっと大きくて、海に生きるもの全てを守ってくれていると」

「それは初耳だわ。でも榊さんが言うならそうなのね」

「魚に京でくじら……かあさま、くじらは魚なのですか?」

「いいえ違うわ。そうね……哺乳類ってわかる?」

「わかりますが……くじらは哺乳類なのですか? ぼくたちと同じ?」

「ええ。肺で呼吸をするし、子どもはお乳を飲んで成長するわ」


 息子は驚嘆の声を上げた。紙上に目を向け、『鯨』の文字をなぞる。その目は好奇心に満ち溢れていた。

 まだ五つの歳であるが、いや、だからこそなのか、様々な物事に興味津々な姿勢を息子は見せる。なんでも吸収し、なんでも飲み込むその姿は知識欲の塊のようだ。だが唯一、食事には興味を示さない。三つの時から食事を見ても首を傾げるか「いらない」と口にするようになった。食事が生きる上で必要なのだと、母親が何度も言い聞かせたことでなんとか食べてくれているが、それは母親が言うから仕方なく食べている様子で、母親はそれが心配であった。この子はその際限ない好奇心に身を任せるあまり、いつか飢え死にしてしまうのではないか。息子を見る度に不安に襲われるが、そうならないようにできるのは女手ひとつで彼を育てている彼女自身である。母親は、食に興味をもたなくてもいいから、食べることはやめないでほしいと、そのために日々の料理を試行錯誤していた。味良く、色合い良く、香り良く。息子が食に対して嫌悪感を覚えることがないように、工夫を凝らしていた。今のところ息子に変化はないが、諦めずに取り組み続けている。私ができることをやらなければならない。


「くじらに……会うことはできませんか?」

「そうねえ……榊さんに聞いてみましょうか」

「ほんとですか!」

「明日来るって言ってらしたから、お願いしてみましょうね」

「はい!」


 喜びいっぱいの顔をする息子の頬を、再度撫でる。嗚呼、なんて可愛いんだろう。昨日の親戚との集まりでも、息子はこの可愛い笑顔を絶えず見せていた。食事はやはり渋々食べていたが、それ以外は親戚の話を興味深そうに聞き、不思議に思った点は質問する、積極的な息子であった。ただ、何故か親戚からは、この子は周りとずれている、異常だと評された。ずれている? 異常? 何処が? この子はこんなにも愛くるしいのに、一体彼等は何を言っているのだろう。母親には、親戚が息子から感じ取った『普通の子ども』との違いを認識することができずにいた。いつどんな時も笑顔を見せ、何かこちらが言えば見た目に合わない低い物腰で、しかし勢いよく食いついてくるその姿が、人によっては狂気じみたものにも見えているのだということに、母親は気づいていなかった。


「かあさま、ぼくとっても楽しみです」

「そうね。私も楽しみだわ」


 ピピピ、ピピピ、とタイマーの音が聞こえる。夕食ができたようだ。母親は名残惜しそうに息子の頬を撫でて言った。


「じゃあ、ご飯にしましょうか」

「……」


 母親の言葉に、息子はにこ、とした顔のまま首を傾げた。息子が偶にする仕草。疑問、不思議、期待、いや無関心? 笑顔から窺えるのはその年にしては複雑過ぎる思惑。この仕草が何を意味しているのか、母親は理解できていない。だから今回も、いつものように尋ねた。


「どうしたの?」


 息子は瞬いた後に、楽しみと言った時と変わらない声音で言った。


「……なんでもないです。ぼくがご飯よそいますね」

「あら、有難う」


 立ち上がる息子の手を取って台所へ向かう。母親はその手の温もりに安堵した。私の愛しい、愛しい我が子。その歩む先に、どうか幸あらんことを。

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