トレスト 3
ルシードは邸内の応接室にアルバートを招いていた。
通常、シュレージからコルムへ移動する際、ノーマン貴族はトレストを通らない。
陸路を馬で駆け、ディグリスからコルムへ向かう。
今回は視察団が同行するとのことでトレストに寄ることになったのは、ルシードにとって幸運だった。
トレストにとってもルシード個人にとっても、ノーマン家、中でもアルバートは極めて重要な人物だ。
打ち合わせたいことや相談したいことは山のようにある。
それなのに直接会える頻度は非常に低い。
ましてやトレストまで来てもらえる機会など、ダイヤモンドよりも貴重だ。
「この度はお時間を頂戴できましたこと、誠に恐悦に存じます」
「気にするな。
私としてもトレスト市長と会談できるなど、願ってもない機会だ。
トレスト自体も、時折は自分の目で見たいしな」
アルバートは朗らかに笑う。
相変わらず、国内随一の大貴族とは思えない、話しやすい人柄だ。
「例の件、骨を折ってくれたようだな。
礼を言う」
「とんでもございません。
トレストにとっても利のあることでございます。
むしろ、みな喜んで賛同いたしておりました」
アルバートが言ったのは、ノーマン銀行とルガリア銀行の間での振り込み業務の開始に関してだ。
これまでも銀行内では帳簿の処理だけで支払いを行うことはできた。
だが、銀行を跨いでこの処理をするには、月末などの定期的なタイミングで互いの入出金を相殺して精算を行い、必要に応じて現金を輸送する必要が出てくる。
そうなればその輸送船を護衛する必要も出てくる。
トレストとアルギア、それぞれの海軍が協力してその任務に当たることになるだろう。
その費用も発生するし、それに伴う種々の調整などの業務も発生する。
それでもやるべきだと提案したのがアルバートであり、ルシードは市内の有力者の説得を依頼されていたのだ。
とは言え、その利便性は銀行を使ったことがあればすぐに理解できる。
ほとんどの者が説得するまでもなく賛同した。
現在、アルギアとトレストの間の取引規模は、国内でも最大クラスだ。
それらの取引の当事者たちは、ほぼ全員が、ルガリア銀行かノーマン銀行か、どちらかには口座を持っている。
これまで、ニクラス湾を南北に、延べ何万枚ではきかない量の金貨が無駄に往復していた。
それが月に一回の精算分だけで済むようになると思えば、どれだけの費用が浮き、また取引が便利になることか。
「『箱』の採用にも反対はございませんでした。
アルギアでの実績を拝見すれば、反対意見など出ようがございません。
船主や荷役業者などは拝み出さんばかりでございました」
「それは良かった。
これでまた一つ商いが便利になるな」
アルバートが楽しそうに笑う。
出会った頃から、この方はそうだ。
仕組みを整え商業を活発にする政策を、本当に楽しそうに行う。
根底にはノーマンの発展のためという思いがあるが、それはそれとして、自分の知恵を絞ってより良い仕組みを作ること自体が楽しいのだろう。
「そうだ。
私からも伝えることがあったな。
近いうちに当主を継ぐことになった。
遅くとも年内には継承となる」
「それは、おめでとうございます」
驚きと共に、喜びが湧き上がる。
以前から、多くの面で実権を持ってはいた。
だが、ついに名実共にこの方の時代が来るのか、と。
「閣下にお会いした時のことは、昨日のことのように思い出せますのに、もうそれほどの時が経ったのですね」
「私にとっては大昔にも感じるがな。
もう十二年にもなるか」
「はい。
懐かしゅうございますね。
あの頃の私は、市長になろうなどとは夢にも思っておりませんでした」
「私は十になるかならないかの子どもだったな」
「お姿は確かに子どもでしたが、仰ることはとても子どもとは思えませんでした。
いくらか大きな商会になっていたとはいえ、私に市長になって欲しい、などとは」
「其方以外に頼める相手がいなかったからな」
ルシードが会長を務めるネルフィア商会は、もともとルガリア南岸の穀物を扱うローカルな商会だった。
ノーマン家とはアルスター王国に臣従する以前からの付き合いで、その頃から最大の顧客はノーマン家だ。
ノーマン家からすれば、食料安全保障の一角を担う重要な取引相手ではあっただろう。
ノーマン家がアルスターに臣従すると、ルシードの祖父である先々代会長が、社運を賭けてノーマン家のルガリア北岸開拓事業に参画した。
それが成功したため莫大な配当を受け取ったのと共に、ノーマン家との関係も深まった。
元々穀物の運搬にはノウハウの蓄積があることもあり、ルガリア北岸で収穫された作物の運搬は、現在に至るまでほぼ全てを受注している。
先日の浮き橋で一気に有名になったルクノールの船着場も、資金を出したのはノーマン家だが、建設の実務を担ったのはネルフィア商会だ。
一方でノーマン家の方も、自治都市であるトレストにおけるロビー活動にネルフィア商会を活用している。
ルガリア銀行の設立自体も根回しをしたのはルシードだし、トレスト海軍とアルギア海軍の装備の共通化や、トレストーアルギア間やルガリア川の上流から下流までを結ぶ定期船の就航など、アルバートの発案でルシードが成し遂げたことは少なくない。
これらはルシードの大きな功績となっており、これらの活動で名を挙げたため、ルシードは現在まで市長に在任し続けることができている。
「楽しみでございます。
代々の辺境伯閣下も名君揃いでいらっしゃいますが、アルバート閣下は格別でございますから」
「まあ、特に変わっていることは間違いないだろうな」
アルバートは苦笑するが、そんなレベルではないことをルシードは知っている。
ノーマン家は以前から商業に力を入れてはいたが、本質的には武人であり、領主だった。
だが、アルバートはそのような枠に収まる人物とは到底思えない。
出会った頃から、アルバートは領地を越えて、水で繋がる「ルルド・ルガリア経済圏」という枠組みを見据えていた。
でなければ、領地の外にあるトレストの市長に、自分の息のかかった者を送り込もうとは考えない。
おそらく、現在はそれをも越えて「ノーマン・アルスター経済圏」を見ているのだろう。
視察団に参加する中央や西部の人物を、これ幸いとルガリア銀行に放り込んだのはそのためではないだろうか。
その構想の中で、おそらくトレストはかなり重要な位置に置かれているだろう。
だからこそ、アルバートと共に歩むことで、大きな利益を得られることが期待できた。
トレストの商人としても、一人の同時代人としても、これから彼と歩むであろう道のりが、楽しみで仕方なかった。
夜の会食の時間となった。
ルガリア銀行から帰ってきた視察団の面々は、それぞれに色々と考える材料になったようだ。
良い傾向だ、とアルバートは思う。
考えることから全ては始まるのだから。
「ランフォード子爵。
本日は銀行というものをご紹介いただき、ありがとうございました。
あの仕組みは子爵がコルムで作られたものが最初と聞きました。
差し支えなければ、いかにして作られたのか、伺ってもよろしいでしょうか」
そう聞いてきたのは、コルネオだ。
商業担当として、かなり意欲的な姿勢になっているようだ。
今朝までの、やる気はあるが指針が無い、という印象ではなくなっている。
「もとはと言えば、当家の手間を減らすためのものだったのですよ。
当家では多くの取引を行いますが、そのたびに代金を金庫から出し、数を数え、取引相手にも確認をさせる手間を煩わしく感じたのです。
もちろん、それをするのは当家の使用人ですが、使用人とてその仕事だけをしているわけではありません。
ましてや当家は、いつ出陣があってもおかしくない家。
当家の者が拘束される時間は短ければ短いほど良い。
であれば、取引の場と代金受け渡しの場を分けてしまおうと思ったのです。
それで、当家の館の外、街中に金の授受だけを行う施設を作りました。
そこにある程度の事業資金を保管しておき、取引の場では書類だけを渡し、書類を持ってそこで手続きをさせるようにしました。
それがノーマン銀行の始まりになります。
そこから、取引を便利にするために業務を付け加えて言った形です」
実際のところアルバートとしては、自分はきっかけを作っただけだと思っている。
金融業自体は、地球の歴史でも古代文明の時代からあった。
エジプトでもメソポタミアでもそんな記録が残っている。
近代的な銀行システムに繋がる銀行業が発生したのは、十二世紀イタリアの都市国家、特にヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァだ。
十二世紀と言えば、日本では源平合戦が行われ、中国では遼に代わって金が北部を支配するようになり、中東ではサラディンが十字軍を押し返し、ヨーロッパではまだスペインの半分近くがイスラム勢力圏だった頃である。
それを考えれば、この世界でもそろそろどこかで銀行業が自然発生しているかもしれない。
アルバートの提案ですんなり銀行が設立され、運営できているのは、それだけの下地ができている証拠だと思う。
アルバートが何も言わなくても、近いうちに銀行はできていたのではないだろうか。
とは言え、ある程度整理されたシステムを伝えられたのは良かったと思う。
多少なりと試行錯誤をスキップすることができれば、その分、他国や他の地域に先んずることができる。
今後ある程度資本の蓄積が進んだら、事業融資のシステムも作っていきたい。
商工業の発展をさらに加速できるはずだ。
本当は銀行システムに加えて、複式簿記も伝えられたら良かったのだが、残念ながらアルバートにはその知識が無い。
金融の歴史の中で複式簿記が重要なのは知っているのだが、複式で帳簿を付けられるだけの簿記技能は無いのだ。
それが悔やまれてならない。
これに関しては、この世界の人々に頑張ってもらうしか無い。
「シュレージで銀行を設置する場合にも、そこから始めるのが良いと思われますか?」
「そうですね。
シュレージにおける取引で、最も回数も金額も多いのは、中央政府が買い手となる取引でしょう。
それだけでも便利になります。
商人たちの口座開設を受け付けるのは、それが定着してからで良いかと。
中央の方々が慣れる時間も必要でしょうから」
「なるほど…」
「様子を見ながら進められるのがよろしいでしょう。
あまり急激に複雑な仕組みを作ると、政府の目配りの行き届かないところで、不正を働く輩が出てきかねません」
と言うより、絶対に出てくるだろう。
商人という金儲けのプロフェッショナルを舐めてはいけない。
隙があれば絶対に突かれる。
「大原則として、政府の役割は公平で公正で便利な仕組みを提供することです。
それができれば、自然と商業は発展します。
『公平』や『公正』を損なわないことを第一に注意しながら、進めていかれると良いでしょう」
「ご教示、ありがとうございます」
「そう言った仕組みは、西部でも有効でしょうか?」
コルネオに続いて尋ねてきたのはウィニアだ。
「ウィニア嬢のキルキア伯爵家はリューガをお持ちなのでしたね。
申し訳ありませんが、貴家やリューガについてはそれほど深く存じ上げませんので、的確な助言はできかねるのが現状です。
もし貴家と商人の取引よりも、商人同士の取引が多いのであれば、貴家は保証人としての役割を担い、商人同士の小切手決済から始められた方が良い可能性もございます。
まずはリューガで行われている取引について、詳しくお調べになるのが良いのではないかと」
「ありがとうございます」
その後もいくつかの質問が出て、答えているうちに会食は終わった。
視察団全員が意欲的になった様子だったが、質問者の誰よりも熱心な様子で聞いているシャーロットの姿が、印象的だった。
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