第24話 疾きこと風のごとし
「知らせが来たのか?」
「うむ」
タルデント伯爵ジャクランの問いに、ギルバートは頷いて返した。
アルバートの提案を受け取り、ルガリア流域諸侯の意見をまとめてから数日。
三侯爵家はすでに領地に戻っている。
仮想敵国と対面している以上、あまり長く領地を空けるわけにはいかないのだ。
他の諸侯とは、十分に話し合いを重ねていた。
近衛隊が決起した場合には、具体的にどう動くのか。
その行動計画を立てていたのだ。
「予定に変更は?」
「無い」
「分かった」
ジャクランは頷くと部屋を出る。
それ以上の言葉は不要だ。
あとは行動するのみ。
ギルバートを含むルガリア流域諸侯が、淀み無く行動に移る。
王都方面に向けて、ジャクランの手の者が数名走る。
同時に行動開始を告げる伝書鳩が、西へと飛んだ。
ギルバートはその鳩を追うように、ルガリア北岸を西へと走る。
辿り着いたのはルクノールという町だ。
だいたい、ルガリア河口からディグリスまでの中ほどにある河辺の港町である。
ここでギルバートは、ノーマン領軍一千と合流した。
今回、ギルバートが王都方面への派兵に動員した兵力は、この一千だ。
これで勝てると踏んでいるからでもあるが、同時にこれが限界でもあった。
ノーマン軍の正規軍は一万にも及ぶが、このうち五千は領地の東部に分散しており、東の守りとして動かせない。
東から襲い掛かってくる可能性があるのは遊牧民であるため、動きが読めないからだ。
コルムに常駐する二千も、東部地域やオロスデン領で有事の際に後詰めする部隊なので、やはり動かせない。
そして、残る三千はそれ以外の領地のパトロールをしている部隊だ。
王都方面への軍は、ここから抽出することになる。
安全な中央部から西部にかけての領地とは言え、完全に空にすることはできないから、一千は残す必要がある。
そして、一千はオロスデン侯爵家への援軍として派遣し、ドローニス王国に備えることに決まっている。
その結果として、この一千しか王都には向かえない。
「お待ちしておりました」
到着したギルバートの前に、二人の人物がやって来る。
一人は、ここまでノーマン軍を率いてきた指揮官であるリージオ。
もう一人は、この町の対岸の領主であるロルン男爵だ。
ずらりと並ぶのはノーマン軍の兵士たち。
そして、それ以上の数の馬たち。
それもそのはずで、ノーマン軍には兵士の数の三倍の馬がいるのだ。
ノーマン軍の軍制は、アルスター王国はおろか、近隣諸国のどこの軍とも違う。
まず、歩兵というものが存在しない。
全軍が騎兵である。
その上、一騎あたり予備を含めて三頭の馬を保有している。
この騎兵たちが十騎で、十騎隊という最小の部隊を作る。
ここには人と馬以外に、二頭の軍用犬が加わる。
軍用犬の役目は主に偵察補助と、予備の馬の護衛と誘導だ。
この十騎隊が十個集まり、百騎隊を作る。
一個の百騎隊は、百人の人間と三百頭の馬、二十頭の犬で構成されているということだ。
ノーマン軍において、人間は少数派なのである。
ノーマン軍の行動は基本的に、この百騎隊ごとに行う。
これ以上の数が集まって軍事行動をする際にも、指揮官が行うのは百騎長と呼ばれる百騎隊の隊長に対する指揮であり、百騎隊の細かい動きは百騎長が指揮する。
指揮官の役目は百騎長を使いこなすこと、と言っても良い。
実際問題、ろくな通信技術も無い時代に、百人以上を直接統率するのは不可能なのだ。
歴史的にも百人単位が実戦部隊の核となることが多い。
古代ローマのケントゥリアが最も有名だろうか。
ギルバートは自分の兵たちから、川の方へと視線を向けた。
そこには巨大な構造物があった。
橋だ。
河口からだいぶ遡った場所とは言え、ルガリアの川幅はまだ一千歩ほどはある。
この時代の技術では、橋を架けるのは現実的でない広さだ。
ただし、恒久的な施設として架けるなら、だ。
この橋は、浮き橋だ。
ルガリア川を航行する南岸諸侯所有の大型貨物船を動員し、それを土台にして一時的な橋を架けたのである。
この指揮を取るために、ロルン男爵は来ているのだ。
伝書鳩での連絡が彼の元に届いてから、おそらく丸一日経つか経たないか。
その短時間で、この橋は完成していた。
「こうして見ても、まだ信じ難いな」
「先に到着しましたので、出来上がっていく過程を見ておりましたが、それでも信じられない思いです」
ギルバートは感嘆の声を上げ、リージオが頷く。
ノーマン領に住む者にとって、海に等しい越えがたい存在だったのが、ルガリア川だ。
対岸が見えてはいても、決して手が届かない場所だった。
アルスター王国に従属し、川の向こうとの交流が実際に生まれても、ディグリスの橋でルガリアを渡る経験を得ても、それでもやはり、この下流域でのルガリアは、越えられないものというイメージがあった。
それが、こうして、馬で渡れる状態になっている。
何とも言えない感慨があった。
リージオをはじめ、ノーマン兵たちも似たような表情をしており、ロルン男爵は苦笑混じりにそれを見ている。
こうしてこの場所に浮き橋を架けるというのは、以前から検討されていた計画だった。
だから、それが可能なことは知っていた。
事の発端は、オロスデン侯爵への援軍として赴いた際、ドローニス軍との戦いでノーマン軍が活躍したことである。
この時、ルガリア流域の他の領主たちは考えたのだ。
万が一の時に、自分たちもノーマン家に救援に来てもらうことはできないだろうか、と。
特にそれぞれの仮想敵国と向かい合う上流域の侯爵たちや、その周辺の領主たちの要望が強かった。
だが現在のところ、ノーマン軍がルガリア川を渡れる地点は、タルデント領に限られている。
ここまで行かなければ、川幅が広すぎて橋を架けられないからだ。
ノーマン家に援軍を頼む場合、最大のメリットはその速さだ。
なのに渡河地点がタルデント領に限られていては、結局遅くなってしまう可能性があった。
ルガリア川は上流に行くに従って、沿岸部の地形が険しさを増していく。
ノーマン騎兵が移動するのであれば、下流域で渡河し、中部の平野を駆け抜ける方が早く到着できる可能性が高い。
そこで考えられた方法が、この浮き橋だ。
これほど大規模ではなくても、船を利用した浮き橋で一時的に橋を架ける、というのはこの世界でもすでに実績のある方法だ。
大規模になる分、周到な準備は必要になるだろうが、実現できる可能性は高い。
その場所として選ばれたのが、このルクノールである。
なぜか。
既存のインフラを利用できるからだ。
この町は元々、ルガリア川北岸で生産された農産物を輸送するための積み出し港として建設されたものだ。
だから、大型の川船が直接接舷できる船着場がある。
この船着場には、これらの船の甲板と高さを合わせたプラットフォームや、人力や牛馬の畜力を利用するクレーンやウィンチなども設置されている。
ここを起点に繋いでいけば、浮き橋の構築が容易になるだろうという目論見だ。
そうしてこの町に、船を繋ぐ資材や橋を渡す資材が集積されていき、少しずつ実験を繰り返し、去年の夏には穀物を満載した荷馬車の車列の通行に成功した、という報告は受けていた。
ギルバートは行かなかったが、アルバートが立ち会っている。
あとは実際に軍勢を渡すだけだが、平時にそのような訓練をするのは、さすがに叛意を疑われそう、ということで未実施だった。
だが、今回それが日の目を見ることになった。
「渡河を開始する!」
ギルバートは一千の軍勢の先頭に立って、橋を渡る。
船の上に渡した浮かぶ橋だというのに、ほとんど揺れはなかった。
想像よりもはるかに安定している。
そのことになぜか感動を覚えつつ、馬の足を進める。
渡り終えた時には、年甲斐も無く興奮した。
先祖たちの誰も経験したことが無いことを、今自分はしているのだ。
続々と、後続の兵たちが渡ってくる。
歴史上で初めて、ノーマン騎兵が軍勢としてアルスター平野の土を踏んだ瞬間だった。
感慨に耽ったのも束の間。
ノーマン軍は王都方向への疾走を開始した。
ノーマン軍の行軍は、軍制と同じく、一般的なアルスター軍や諸国の軍とは異なる。
何しろ、徒歩の人員というものが存在しないのだ。
全軍が馬の速度で移動できることになる。
しかも、一騎の騎兵が三頭の馬を保有している。
兵たちは馬の疲労度を見て、乗り換えながら走るのである。
それも、全軍で立ち止まって一斉に乗り換える、などというお行儀の良いことはしない。
走りながら飛び移るのだ。
遊牧民の間ではそこそこ習得者のいる技術であり、ノーマン軍では必修技術であるが、アルスターや他国では信じられない曲乗りと見られる類の技術だ。
ノーマン貴族が宮廷学校の馬術の講義を「教わることが無い」と言って受講しない理由の一端である。
行軍隊形も独特だ。
『雁の旅』と呼ばれる、先頭が細い三角形かV字形の隊形を取るのだ。
記録も残らない昔から遊牧民に伝わる隊形で、空を行く雁の編隊飛行を見た祖先の誰かが編み出したらしい。
この隊形を取ることで空気抵抗を減らし、また先頭を交代しながら走行することで疲労を分散し、全体での疲労を低減することができる。
そのことが経験的に理解されていた。
二十一世紀の人間がイメージするならば、自転車ロードレースの集団走行を思い浮かべるのが良いだろう。
渡河からわずか三日。
ノーマン軍は王都近辺へと到達していた。
アルスターの基準では、早馬の使者が後のことを考えずに全力で走ってようやく出せる速度である。
歩兵や輜重隊を含む一般的なアルスター軍が行軍すれば、十から十五日程度は見なければならない距離だ。
実際にアルフレドの遠征軍は同様のルートを逆向きに移動して、その程度の日数がかかっている。
これには、ノーマン軍の練度や行軍技術以外にも、事前準備が寄与している。
ギルバートがディグリスでアルバートと面会してから、ある程度の時間はあったのだ。
その間に進行ルートを検討し、補給地点、宿泊地点を選定した。
一日目はまだ南岸諸侯の領内だったため、先んじて補給物資を用意してもらっていた。
二日目は中部と呼ばれる地域に入るが、ジャクランの手の者が先行し、補給物資の買い付けを行なっていた。
これが国外だったら、いかにノーマン軍と言えど、ここまでの速度で進軍はできない。
その甲斐あってノーマン軍は、その行程を一人の脱落者も出さず、そのまま戦闘に突入できる体勢で駆け抜けることができた。
敵側からして見れば、万全の状態の軍勢が、突然湧いて出たように感じられるだろう。
故に、その襲撃は完全な奇襲となる。
王都とローレン公爵領のほぼ中間地点で、ノーマン軍の斥候部隊が近衛隊を捕捉した時、そこではすでに戦端が開かれていた。
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