第5話 己を見ぬ者
一夜が明けた。
昨日の後片付けもすっかり終わった邸宅の庭で、ギルバートは朝の日課である剣の素振りをしていた。
振るうのは、緩く弧を描く刀身の片手剣。
シミターと呼ばれるものだ。
鍛え上げられた肉体から繰り出される斬撃は鋭く力強く、熟練の技量ゆえにその動作は流麗ですらあった。
「旦那様」
そこに声をかける者が現れた。
手を止め、視線を向ける。
初老の執事がギルバートの視線を受け、恭しく一礼した。
「先ほど、王宮より書状が参りました。
執務室へお届けしております」
「分かった。
すぐに向かう」
愛用のシミターを納めると執務室へ戻る。
書状を受け取ったのであろう侍従が、盆に乗せた書状を恭しく差し出してくる。
それを取り、検める。
差出人はリオン。
予想通りだ。
さて、何と言ってくるかな?
思いながら目を通し、眉根を寄せる。
予想外のことが書かれていた。
「何だ、これは」
昨日の件で、王家から何か言ってくるであろうことは予想していた。
王家を思いきりコケにするようなことをしたのだから、それは当然だ。
見ようによっては反逆と取られるだけのことをした自覚はある。
だが、その前に王家の方がこちらを酷く侮辱したのも事実。
ギルバートとしてはむしろ、あの程度で済ませてやった、という思いすらある。
だから、呼び出しがあるとすれば、その件でネチネチとやり合って落とし所を探るためのものだと思っていた。
とりあえず、当事者にも確認が必要だろう。
ギルバートは執事を呼び、ソフィアを呼びに行かせた。
しばらくすると、ソフィアが入室してくる。
「失礼します。
お呼びと伺いましたが」
「うむ。
リオン殿下から書状が来たのだが、予想外の内容でな」
そう言って、書状を差し出す。
「拝見します」
ソフィアが受け取り、目を通す。
そして眉根を寄せる。
親子だけに、数分前のギルバートの表情にそっくりだった。
「はあ……?」
心底、訳がわからない、という反応だった。
リオンとソフィアの婚姻の打診。
それが、その内容だった。
「正直に申しまして、全く心当たりがございませんわ。
もちろん、同じ時期に学生だったのですから、一般的なお付き合いはございました。
ですが、討論会で対戦したりといった学業の中でのものだけです。
学生同士の域を越えるような関係は一切無かったと誓って申し上げられますわ」
「やはりそうか。
だが、そうなると全くわけが分からんな」
二人で顔を見合わせて首を傾げる。
家格から言えば、全くあり得ない婚姻というわけではない。
だから、ネチネチと言い合いをする中で落とし所としてそんな話が出てくるのであれば、まだ納得もできなくはない。
だが、初手からこんなことを言ってくるとはどういうことだろうか。
「何にせよ、答えは決まっているのだがな。
正式な要請が来ている以上、行かぬ訳にもいくまい」
「左様でございますね。
率直に言って、迷惑ですわ」
ソフィアに、王家に対する敬意のようなものは全く見てとれない。
彼女の敬意は、全て敬愛する「お兄様」のみに向けられているのだ。
ギルバートに対してすら、当主への礼節と家族への親愛はあっても、敬意は無いのではないだろうか。
「ここでなら良いが、外で言うなよ」
「存じ上げておりますわ」
一応、ギルバートは釘を刺しておく。
まあ、ソフィアが五年間の学生生活の中で、兄に迷惑をかけないようにとの一心で身につけた猫被りは一級品だ。
念の為である。
面会時刻は、真昼と夕方の中間頃。
当日のその時間というのは、貴族社会ではかなり慌ただしいスケジュールの部類だ。
特に女性には色々と準備がある。
ギルバートは承諾の返信を持たせた使者を走らせる。
気は進まないが、礼儀としてギルバートもソフィアも着飾らざるを得ないのだ。
面倒なことだと思いながら、準備を命じるのだった。
「よく来てくれた」
王子の待つ部屋に入ると、二人を出迎えたのはリオンだった。
リオンだけだった。
もちろん、侍従や侍女はいる。
だが、王家の重臣と言える立場の人物がいない。
訝しいことだった。
国王夫妻は西方国境に視察に出ているため不在だ。
だからこの席にいないのはわかる。
だが、王子の婚姻には国策が絡む。
宰相は出仕を停止しているから無理にしても、重臣の誰かは同席して然るべきだった。
二人のその様子にも気づかず、リオンは挨拶もそこそこに用件を切り出した。
「さて、昨日の婚約破棄にて、私の婚約者の座が空いた。
そこで、新たな婚約者として、ソフィア嬢を考えている。
受けてくれるだろうか?」
疑問形ではあるが、頷いて当然、という口調である。
断られることなど微塵も考えていないようだ。
昨日から感じているが、他者の思いや考え、立場や事情など、欠片も考えていないのだろう。
やはり、コレを王位に就けるなど御免だな、とギルバートは思いを新たにする。
立太子の前に資質が明らかになって、むしろ幸運だったかもしれない。
「さて、突然そう仰られましてもな。
ソフィアにも確認を取りましたが、こちらでは理由に心当たりがありませぬ。
なぜ突然、このようなお話が出てきたのですかな?」
「それはひとえにソフィア嬢の能力を買ってのことだ。
ソフィア嬢は我が国の宮廷学校で初めての女性首席。
文学や音楽と言った教養だけでなく、語学や歴史、さらにはユヴェール王国から伝わった数学や工学、薬学、博物学なども学び、全て教授の試問に合格している。
教授たちから聞いたが、合格者の中でも特に優秀だそうだな。
何度か討論会で対戦したこともあるが、弁論も大したものだ。
我が国一の才媛と言っても過言ではあるまい。
ゆくゆくは王妃となって私を支えて欲しい」
熱を込めてリオンは語るが、聞けば聞くほどギルバートは冷めていく。
ちらりと横目で見ると、ソフィアはギルバート以上に冷たい目でリオンを見ていた。
「なるほど。
それで、殿下から当家に仰りたいことはそれだけですかな?」
「……それだけ、とはどういうことだ?」
「それすらもわからない、と。
なるほど」
ギルバートは冷笑した。
「せっかくのお言葉ではありますが、辞退させていただく」
「……なんだと?」
「ソフィアは領内で婚姻することに決めております。
ソフィアの母は当家の忠臣の娘でしてな。
以前、東の遊牧民との戦で当家のために奮戦し、父も兄も戦死いたしました。
このままでは家が絶えてしまう事態となったため、一時的に爵位を預かり、いずれその子に家を継がせる予定で側室に迎えた者です。
ですので、ソフィアは領内から婿を取り、母の実家を継ぐことになります。
殿下のお話ではその予定を変えるほどの理由にはなりませんな」
「ノーマン辺境伯、そなた何を言っている。
未来の王妃にと言っているのだぞ?
辺境伯の家臣であれば、せいぜい子爵家であろう。
王家よりも子爵家を優先すると言うのか!」
リオンは不快感も露わに言うが、ギルバートの方こそ不快だった。
話すほどにリオンへの評価が下がっていく。
「然り。
殿下こそ、何の権利があってそのようなことを仰るのか。
当家は建国王アルフレド陛下より、領内の自治を許されております。
領内での婚姻はその範囲内。
それを無理強いされるのであれば、自治権の侵害ですな」
そこまで言って一息つくと、怒りを露わにしてリオンを睨みつける。
「そもそも当家を散々侮辱した輩に、大事な娘を嫁がせるなど冗談ではない。
当家を馬鹿にするのも大概にしていただきたい」
「何のことだ!
私がいつそなたらを侮辱した!」
「おやおや。
殿下は昨日のことも憶えておられないらしい」
ギルバートはわざとらしく驚いたような素振りを見せる。
もはや馬鹿にする口調を隠す気も失せた。
「昨日の卒業式で、娘の一生に一度の晴れ舞台を台無しにしたではありませんか。
昨日の式にて、ソフィアは首席卒業者として卒業生代表の答辞を述べ、首席の勲章を戴く予定でありました。
自分でそれをぶち壊しておいて、謝罪も無くその相手に求婚とは、殿下は恥というものをご存知無いようだ。
そればかりでなく、息子のことも、ひいては当家のことも散々侮辱したではありませんか」
「息子?
もしや昨日の不快な子爵のことか?
それがそなたらに何の関係がある。
もしやソフィア嬢の婿とはあの子爵なのか?」
ギルバートとソフィアはきょとんとした後、笑い出した。
それを抑える気にも、もはやなれない。
今まで黙っていたソフィアが口を開く。
「殿下は本当に国内のことは何もご存知ないのですね。
嫁ぐことができるのであればどんなに幸せだったかと思いますが、違いますわ。
お兄様は腹違いとは言え、実の兄なのですから」
「つまりは当家の嫡男と言うことですな」
リオンは学業成績は優秀だが、外国にかぶれ過ぎていると言われている。
その弊害がこんなところに出ているとは思わなかった。
あまりにも基本的な事柄であるがために、学校ではわざわざ誰も教えないようなことを知らないとは。
「なんだと?
だが爵位が……」
「だから殿下は無知だと言っているのですよ。
ノーマン辺境伯家の嫡男は、成人と同時にランフォードの地を相続するのが当家のならい。
当家が辺境伯位をいただく以前からの伝統ですな」
ギルバートは呆れ返っていた。
「通常であれば伯爵家の嫡男は男爵位につくものであり、子爵位につけるのは侯爵以上。
にも関わらず、当家がアルフレド建国王陛下から辺境伯位を賜った際には、嫡男にも子爵位を賜りもうした。
それはすなわち、それだけ当家を高く評価していただいた証。
つまり『ランフォード子爵』と言うのは当家が建国王陛下から賜った栄誉の一部。
昨日アルバートも申し上げましたが、かつての王が与えた栄誉ぐらい、王族として把握しているのが当然ではございませぬか」
「念のために申し上げておきますと、このようなこと、入学したての『子猫』でも知っていることですわ」
「子猫」とは「愛すべき未熟者」と言うニュアンスで宮廷学校の新入生を指す言葉だ。
入学して一年以内の「子猫」は、当然ながら貴族社会に不慣れだ。
一部の高位貴族は家庭学習である程度の礼法を修めているが、それはごく少数。
多くの新入生は礼法の講義を受けていないのだ。
そのため暗黙の了解として、無礼や不敬も許される慣習がある。
ちなみに、入学から一年以上経っても無礼や不敬を働いた場合は、「野良猫」と呼ばれることになる。
そんな新入生でさえ、国内の勢力図の基本として知っていることだった。
「それを、殿下は昨日、公の場で知らぬと言った。
建国王陛下より賜った栄誉を、王族が、そんなものは知らぬと言ったのだ。
これ以上の侮辱がありますかな?」
リオンは、それを呆然と聞いていた。
ソフィアが、一度瞳を閉ざし、開く。
冴え冴えとした黒の眼光がリオンを射抜く。
学生の中には、この眼で見られるだけで背筋を寒くする者もいるだろう。
ソフィアが戦神であるセルナに比された一番の理由。
それが、これだ。
「殿下はわたくしの事を優秀と評していただきましたね。
わたくしからの殿下の評価をお伝えすると、己が見えていない方とお見受けしますわ。
外国の学問を学ぶ。
それ自体は大いに結構なことでしょう。
そちらの分野で優秀なことも賞賛に値しましょう。
他国に学ぶことも多うございます。
ですが、殿下はそれにかまけるあまり、ご自分のことが見えていらっしゃらないご様子。
例えば、他家の者が見事な身なりに見事な振る舞いをしていたとして。
それに憧れること自体は悪いことではございません。
むしろ自らより優れた者に学ぶことは必要なことでございましょう。
ただ、それで見事な振る舞いを覚え、見事な衣装を手に入れたとて、髪は乱雑に跳ね、衣服には皺が寄り、不潔で異臭が漂うようでは、何の意味もございません。
かえって不快感が増すのではないかと。
ましてやそのような方が王冠を被っているとなれば、滑稽ですらありましょう。
まずは鏡を見て、己を、我が国をご覧くださいませ」
一切の容赦も忖度も無く、激することも無く、ただ冷たく、流れるように滔々と。
ソフィアはその舌鋒を突き刺す。
月光の剣と評された、「戦う」時のソフィアの姿である。
三年ほど前、女性に対して高圧的だった男子学生を、公衆の面前で叩き潰し、学生の間で一躍有名になったものだった。
その結果、女子学生、特にその男子学生に萎縮していた年下の令嬢たちからお姉様と慕われ、派閥の中では完全に「上位者」と見なされることにもなった。
無論、いつでもこうではない
相手を敵とみなし、戦うと決めた時だけだ。
そしてソフィアにとって、「お兄様」を侮辱するような輩は、何の迷いも無く「敵」と断ずるに値した。
もう自分では口で勝てなくなってしまった娘をちらりと見やり、ギルバートは結論を告げる。
「娘もこの通り、大反対の様子。
私としても、こんな当家を馬鹿にしきった相手からの縁談など、受ける気は毛頭ございませぬ。
例え王族であっても検討にも値しませんな」
言ってギルバートは立ち上がり、踵を返す。
それにソフィアも続いた。
「ああ、そうそう。
殿下の成人をもって立太子の儀が行われる予定があったと存ずるが、殿下の立太子に当家は断固として反対させていただく。
こんな愚か者を王に戴くなど御免ですのでな。
当然の判断と心得ていただきたい。
では」
「なっ……!」
扉を開けながら言い捨てて、ギルバートはソフィアと共に立ち去る。
その間、ソフィアはリオンを一瞥すらしなかった。
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