俳句 ~思い出の写真を見て~

島尾

雪踏みて 洞爺湖眺め 雪を踏み

 雪踏みて 洞爺湖眺め 雪を踏み


 2月、北海道南部にドカ雪が降っていた。洞爺湖町もその一つだった。兼ねてより洞爺湖には特別な思い入れがあっていつか行きたいと思っていた。ただ、「魅力度ランキング毎年1位」、「北海道はでっかいどう」等の、人間の誇大宣伝によって脚色または汚染された所謂「北海道」に我が足を赴かせるのに抵抗があった。私はそういう宣伝が嫌いなのである。しかし私は洞爺湖に行きたいと思っていた。私にとってのそこは単なる宣伝された行楽地ではなく、まさに聖地というにふさわしい場所であった。あの、洞爺駅から車で少し行ったところにあるトンネルをくぐり、暗いそこを走り、出口に出て湖が見渡せたとき。私にとっての洞爺湖とは、よく考えると湖それ自体だけを指さない。湖周辺の特定の領域、例えば先のトンネルや昭和新山、有珠山も含まれるし、湖畔に建ち並ぶ数々のホテルや土産屋、彫像も含まれるし、国内外の富裕層客の幸せそうな笑い声もまた洞爺湖の特異な状態による相互作用として一つの洞爺湖の景観である。地図で見る洞爺湖とはだいぶ違う。そしてその違いは実際ここに立ってみなければ永遠に分からなかったことである。言うまでもないが、私は先のやかましい宣伝に感激し影響されてこの地に訪れたわけではない。確かに洞爺湖は北海道に位置するが、そんなことは東京が本州に位置するのと同様にどうでもいいことであった。大量に積もった雪をただ踏みながら歩き、横の湖面と島を見、そしてまた視線を前に戻して雪の上を歩く。これは上空から見たら、湖畔を歩いては止まり、また歩く蟻の単純な運動に見える。ものを俯瞰したとき、そのものの内情を理解できなくなることの一例だろう。別の一例として、「北海道」を大げさに宣伝している集団が挙げられる。私はそれを横目で見て嫌な顔をしていたわけで、その内情や彼らが本当に伝えたいことを理解できなかった。そして今もそういう宣伝に白い目を向けている。


 自分にとって大切な場所というのがいくつかある。その一つが偶然北海道の中にあったということである。そういう自分にとって企業や市民団体などの高らかで派手な宣伝は果てしなく無意味で、自分の体に何の影響も及ぼさず透過するだけの波である。雪を踏む、湖の波の揺れを見る。このような些細で直接的感覚が私の身体に影響を与えた。

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